第6話 ヴァージンにスポンサーがついた日(2)
イクリプスから封筒が届いたその夜、ヴァージンは一晩中眠ることができなかった。大会が終わって数日とは言え、体そのものが資本と言えるアスリートとは思えないほど、彼女は寝不足街道を突き進もうとしていた。見たことのあるイクリプスのトレーニングウェアで薄青のトラックを駆け抜けていく自分の姿を想うたび、ヴァージンは何度も胸が熱くなる。
しかし、現実はそう甘くなかった。朝になってもう一度封筒の中を覗くと、招待状の下の方に「応募用メールアドレス」と書かれてあった。オメガ語のような文字の羅列だが、このアドレスを見てヴァージンはどうすればいいのか思いつかなかった。
(メールで……、応募しなきゃいけない……)
メドゥやグラティシモなどのトップスターとは違い、世界一貧しいとされる国から這い上がったヴァージンにとって、それはこの上ない障壁だった。オメガ国に半年もいるので、メールという言葉は何度か耳にしており、ごくまれにアカデミー生がノートパソコンでメールを送っているのを見る。だが、メールの扱い方すら知らない彼女が、今すぐにメールで返信を行うことなど不可能だった。
「はぁ……」
深いため息をつきながら、ヴァージンは部屋を出て、また前日のようにセントリック・アカデミーに向かった。
その日もまた、マゼラウスよりも先にアカデミーに到着したヴァージンは、着替えるなり室内のトレーニングルームに向かい、朝のウエイトトレーニングを始めた。幸いにして、この時間からトレーニングを始めるアカデミー生はヴァージンしかいなかった。
ヴァージンが右手でダンベルを持ち上げたとき、ようやくマゼラウスがトレーニングルームに入ってきた。マゼラウスが部屋の隅の方で手招きしているのを見て、ヴァージンはダンベルを台に置いてマゼラウスに駆け寄った。
「おはようございます」
「おはよう。朝から練習に励んでいるじゃないか」
昨日の朝とは打って変わった優しそうな表情に、ヴァージンはやや眉を細めた。しかし、マゼラウスの表情がさらに緩むと、ヴァージンも同じような表情に変わってマゼラウスに尋ねた。
「コーチ、何か嬉しいことでもあったんですか」
「あったさ。どうやら、君がイクリプスから声を掛けられてるらしいな」
(バレてる……)
イクリプスから封筒が届いたという話は、今朝アカデミーに来てから一言も口にしていない。漏れる可能性があるとすれば、グラティシモからコーチのフェルナンドを経てマゼラウスへと伝わったとしか思えない。ただ、それも確定事項ではなく、グラティシモの推測の域を出るものではなかった。
だが、マゼラウスの一言はその閉ざされた思考回路を突き破ろうとしていた。
「私にもその話が来たんだよ。勿論、君のトレーニングメニューはほぼ私が決めているから」
「そうでしたね」
「もし、君がイクリプスの取材を受けることになったら、その日はここを休まなければならないからな」
そこまで言って、マゼラウスはふぅと息をつく。その一言に、ヴァージンは目を丸くした。
「ということは、コーチは私がイクリプスのプロモーションに行くことを……」
「……止めはしないぞ。あまり、大きな声では言えないが」
「……ありがとうございます」
セントリック・アカデミーでは、数少ないとはいえセントリック以外のブランドで練習を行う選手もいる。あくまでもスポーツブランドがアスリートの養成・強化のために開いた施設なので、何もかもセントリックに染まらなければならないというわけではない。他のブランドと契約をしていても、練習環境を求めてこのアカデミーに移るアスリートもいるくらいだ。
だが、そこまで許されているのはセントリックだけだ、とマゼラウスは付け加えた。
「だがな……」
そこまで言い終えたマゼラウスの表情が、次第に曇り始める。トレーニングルームに続々とアカデミー生が入り始め、大きな声を出せない状況ではあるが、それを上回る静かな光景が二人に襲い掛かった。
「あとは、ヴァージン自身の問題になることは、分かってるだろうな」
「……練習の時間が取られるとか、ですか」
「それもある。だが、一番の問題は、イクリプスと契約して、君自身が成長するかどうかだ。これは、残念だが君自身にしか分からない」
「……っ!」
マゼラウスは、右手の人差し指をヴァージンに向けてまっすぐ伸ばした。
「ヴァージンの人生だ。お前の意思で契約を交わせ」
(契約……)
自分よりも何十年も多く社会経験をしているマゼラウスに頼ろう、という気持ちが次第に強くなり、最後にその厚い壁が崩壊する。そんな光景をヴァージンは思い浮かべた。
(結局、私は一人で行動しなければならない……)
アスリートになる夢を捨てろと言われ、ジョージから少し離れて一人でグリンシュタインの企業を回った日は、そう遠い昔の話ではなかった。言いたい放題言って相手を困らせた記憶しか、あの日は残っていない。その売り込み方で、夢を現実に変えるためのお金を手にしたことは、冷静に考えれば偶然と言わざるを得ない。
あまりにも辛い現実が待っていた。
「コーチ……」
「どうしたんだ。やっぱり、オファーを受け入れる勇気がなくなったのか」
「いえ。イクリプスにもっと自分を売り込みたいという気持ちは強いんです!でも……」
「でも……」
ヴァージンは、決して歯を食い縛るようなしぐさを見せず、しかし悔し紛れに呟いた。
「私には、パソコンのスキルなんて全くありません。アメジスタに、そんな便利なものなんてないんです」
「そうか……」
そう言うと、マゼラウスはポケットから一枚の紙を取り出した。それこそ、ヴァージンが昨夜から何度も見ている「イクリプス・ドリーム」のメールアドレスが書いてある紙だった。マゼラウスは、その紙にしばらく目をやり、やがてゆっくりと顔を上げた。その目は細かった。
「できないできないって言い続けちゃいかん。そんな後ろ向きなアスリートがどこにいる」
「コーチ……」
「スキルがないなら、何故自分から努力しようとしない。私に聞くとか、ここのアカデミー生に聞くとか」
「はい……」
(私は、誰よりも速く走りたいだけの人間……)
ヴァージンは、ついにマゼラウスの表情を見るのを諦めた。何度も首を横に振るが、これまで目指してきたはずの自分を振り払うことはできなかった。
気が付くと、目線を下に向けたヴァージンの目に、膝を屈めて見上げたマゼラウスの顔が飛び込んできた。先程の細い目は、嘘のように消えていた。
「言い過ぎたな、ヴァージン」
「いえ……」
そう言うものの、ヴァージンは再び首を横に振る。だが、マゼラウスはなだめるように彼女に語りかける。
「私は、ヴァージンのその姿を可哀そうだと思ったんだ。きっと、速く走ることに誰よりも情熱を注いだ。今更、それを変えるとか言われたら、そう言われるのも無理はない」
マゼラウスの目が軽く潤んでいることにヴァージンは気が付き、その表情をじっと見つめた。
「君の走ることへの情熱は、評価に値するよ。できれば、その情熱を他にも向けて欲しい」
「はい」
ヴァージンがゆっくりうなずくと、マゼラウスは再びヴァージンを手招きした。耳元まで近づいてくると、マゼラウスは決して外には漏れることのない声で、ひそひそと話し始めた。
「ヴァージン。このエントリーのメールだけは、私が送っておく。もし、それでいい返事が返ってきたら、そこからはお前がイクリプスの担当者と交渉をするんだ。いいな」
「分かりました」
(本当に、練習をやりながらの契約は大変そう……)
その日は、嬉しさの反動でほとんど練習に身が入らなかった。この一件で、若干首を絞め詰められるような思いがヴァージンの脳裏をよぎった。しかし、それと同時にもう一つの疑問がヴァージンをよぎった。
(いくつも契約を交わしているトップアスリートって、本当に練習してる時間がないのかも知れない……)
そう考えながら、ヴァージンはタオルで顔を拭きつつロッカールームに行った。そこには、またグラティシモの姿があった。グラティシモは、ヴァージンの姿を見るなり口を開いた。
「ヴァージン、初めてのスポンサー契約をするの、大変そうね」
「何で分かるんですか」
「見た目」
ヴァージンは声を元に戻そうとしたが、死んだように何かを考える目だけはどうしようもできなかった。作り笑いを浮かべて、何とかその言葉に返そうとすると、急にグラティシモが右の指を立てていった。
「ヴァージンも早く、エージェント契約を結べればいいのに」
「エージェント……」
ヴァージンは、その言葉で思わずタオルを持つ手を止めた。「ワールド・ウィメンズ・アスリート」で何度も目にしてきたこの言葉を初めて耳にしたとき、その言葉だけどこか力強く聞こえてくるようだった。