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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
世界最速の脚でさえ あと少し届かない
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第47話 ラストチャンス(4)

 ジャミスのスタジアムを包み込む号砲が響いた。やや蒸し暑い夜の空気を裂くように、16人の足がトラックへと踏み出していく。

 ヴァージンのすぐ右で構えていたメリナが、コーナーに入ると同時にヴァージンの前に出て、ラップ67.5秒ほどでレースを引っ張ろうとする。その後ろからメリアムが食らいつき、ヴァージンがそれを追う展開になる。大舞台の決勝とは言え、これまで何度も見てきた光景がヴァージンの視界に広がっていた。

(メリナさんは、そこまで極端にスピードを上げていない。カリナさんを意識するのは、おそらく中盤から終盤にかけてだと思うけど……、今はただ自分の走りに集中しているような気がする……)

 背の高い、ワインレッドの髪をしたメリナを、同じく赤い髪のメリアムが食らいついていくように先頭集団を引っ張っている。ヴァージンには、二人の髪の色が一つになっているように見える。

(いま追わなければいけないのは二人ではなく、一人のはず。カリナさんの追い上げをこちらで振り切って、その勢いのままメリナさんを追い抜かす……。おそらく、それでうまくいくだろう)

 ラップ68.2秒のペースから後半でのスパートに賭けるヴァージンは、二人のペースに惑わされることなく、その足に叩き込んだスピードでトラックを駆ける。だが、2周目を過ぎ、3周目に入ったとき、ヴァージンはその背後に誰の気配も感じられなくなった。

(私たちのスタートダッシュに、みなついて行けてないのかも知れない……)

 背後からの足音どころか、息遣いすらヴァージンには入らない。聞こえるのは、前を行く二人の足音だけだった。先日10000mの決勝で、中盤に入っても数人のライバルに追われ続けたときとは全く状況が違っていた。

(でも……、カリナさんは、いまどのポジションで走っているんだろう……)

 ヴァージンは、4周目に入ったところのコーナーで、後ろに続く集団を横目で見た。3~4人ほどの集団が10mほど後ろを走っているが、その集団から一歩抜き出ているかのようにカリナの顔がその目に映っていた。

(カリナさんが、4番手にいる……。少し速いペースだけど、まだ私たちを狙う様子はない……)

 カリナもまた、普段と同じように、前を行くライバルたちに食らいつこうとしていたのだった。


(2000mを5分41秒……。ペースをちゃんと守れている……)

 風のない分、10000mよりは楽に走れている5000mの舞台。ヴァージンには、前をゆくライバルたちを追うための力が十分残されていた。2000mを過ぎたあたりでヴァージンが見た感じ、メリナとの差が20m、それに続くメリアムとの差が15m前後といったところだろうか。

 だが、その先に待つコーナーを抜け、再び自分のペースを確かめようとした彼女は、ここで久しぶりに背後からの足音を耳にした。気配だけで、彼女は振り返らずとも、誰がやってきたかすぐに分かった。

(カリナさん……。まだ2000mだというのに、もう勝負をかけてきている……?)

 ヴァージンは、普段スピードを上げることのないこの場所で「Vモード」をトラックに少しだけ強く踏みつけた。だが、少しだけスピードを上げたところで、背後から感じる気配が狭まってくるのは変わらなかった。2400mを過ぎ、2800m付近に差し掛かったとき、彼女の背後から感じた風が、ついにその向きを変えた。

(カリナさんが……、私の横に飛び出してくる……!)

 直線に入った瞬間、カリナがゆっくりとヴァージンに並んだ。ペース自体は、ラップ67秒ほどと特段スパートをかけている様子ではないが、ヴァージンの横目に映るカリナの表情は、既にヴァージンを全く見ている様子ではなかった。

(カリナさんは、ただメリナさんの背中を見つめているのかも知れない……)

 少しずつ、ヴァージンの前に出ようとするカリナの顔は、さらにその前に向かう二人を狙っているような目さえしていた。スタジアムの照明に照らされて、やや白く輝こうとしているカリナの髪に、ヴァージンははっきりとした彼女の意思を感じずにはいられなかった。


――私、メリナについてく!どこまでも……、ついてく!


 姉妹どうしが、世界最高峰のレースで同じ舞台に立って勝負をする。それどころか、今の順位では姉を抜くだけで世界一になれる。カリナには、はっきりとした「夢」や「目標」があった。普段は元気そうな声で答えているカリナだが、自分の姉という大きすぎるライバルには真剣に勝負をしなければならないのだろう。

(私にだって……、目標はある……。世界一の、その先の先を叩き出す……)

 絶対女王と呼ばれるようになったヴァージンにとって、メリナやカリナよりも先にゴールすることは最低限の目標でしかなかった。その先には、何度も打ち破っている世界記録、そして手が届こうとしている13分台がある。ヴァージンも、この舞台で本気になれないはずがなかった。

(まだ3000mだけど、少しだけスピードを上げるしかない。まずはカリナさんに、私の本気を見せる……)

 カリナの自己ベストは、まだヴァージンのそれを上回っていない。それだけで、ヴァージンの気持ちに余裕が生まれる。まだ2000m残されている中で、普段のスパート、いや、それ以上のペースで挑んでいけば、前に飛び出した3人に背中を見せることだってできるはずだ。

 ヴァージンは、シューズを叩きつけるテンポをやや速くしようと、足に力を入れた。そして、気が付いた。


(ペースを乱されている……。ラップ68.2秒が、無意識のうちに遅くなっていた……)


 カリナの気配を感じてから、ヴァージンは自らのスピードを全く意識できなくなっていた。カリナの近づいてくるペースばかりに関心が向き、ヴァージンのシューズを叩きつける間隔が、既にラップ69秒ほどのペースまで落ちていたことなどこの時まで全く気が付かなかったのだ。

(私は……、何度もレースで勝負をしているのに、ペースを意識できなかったのは久しぶりかもしれない……)

 ほんの少しだけのペースアップで済むはずのところが、体に負担をかける――ちょうど4000mから見せるスパートの時のような急激な――変化になってしまっていた。カリナを追うために、ラップ67秒ほどのペースに上がったはずの彼女の脚は、ここで数歩ごとに衝撃をはっきりと感じるようになり、小刻みにそのペースを動かすまでになってしまっていた。


(カリナさんの背中に近づくことができない……。カリナさんが、ますますペースを上げているように見える)

 ヴァージンがペースの調整に手こずる中、3600mのラインが近づいた。そのとき、メリアムがついにメリナから引き離され、あっという間にカリナにかわされた。そして、ラップ67秒のペースで走っていたはずのカリナは、そのスピードをさらに上げていった。そしてその気配に、姉のメリナが後ろを振り向き、目を細めることで応えようとしている。

 ヴァージンのわずか50m先では、これまで彼女が目にしたことのない、異質な勝負が繰り広げようとしていた。二人の間だけ、全く違う空気が流れているようにさえ、ヴァージンには感じられた。

(何……、この独特な雰囲気……。レースと言うより、完全に追いかけっこになっている……)

 少なくとも、カリナの力強い走りには、はっきりと意思を感じることができた。それを振り切ろうとしているメリナもまた、懸命にストライドを大きく取ろうとする。二人の間に、ライバル関係を明らかに超えた、別次元の空気が漂っていたのだった。


(違う……。こんなはずじゃない……!)

 グローバルキャスで二人が称賛されるのを見てしまった日に見た夢と、全く同じ場面がヴァージンの前に広がっていた。自己ベストで軽く上回れるヴァージンが、そこから一気にスパートをかけると、前を行くローズ姉妹の二人をあっという間に追い抜く。

(夢で見たあの瞬間を……、いま私が再現するとき……!)

 4000mを11分26秒ほどで駆け抜けたヴァージンは、スパートをかけた。ラップ65秒のペースに上げた彼女は、瞬く間にメリアムを抜き去り、勝負しなければならない二人に立ち向かう。これまで圧倒的な記録を後押ししてきた「Vモード」に刻まれた炎から、ヴァージンの脚にパワーが届き、世界最速のアスリートは闘争心を胸に、本気の走りを見せようとした。

 だが、4400mでさらにギアを上げる直前で、メリナにぴったりと付いていたカリナが、ついにメリナの横に並び、直線の間に数センチだけ前に出た。もはや、カリナはヴァージンのスパートすら意識せず、ただメリナより前に出たいという気持ちだけで走っていた。

 その強い気持ちを、ヴァージンの脚でさえ、止めることはできなかった。

(私だって……、一番前に立ちたいのに……!)

 カリナとメリナがほぼ同時にゴールラインを駆け抜ける。予想されていた二人の決着に、ヴァージンはあと数mで食い込むことができなかった。世界競技会の女子5000mで一度も優勝できない女王は、新たなライバルたちを前に、またしても屈したのだった。

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