第47話 ラストチャンス(3)
世界競技会10000m、レジナールのタイムは30分17秒89。対して、ヴァージンは30分19秒38に終わった。手を伸ばせば届きそうなところまで追いつめていただけに、ヴァージンは首を一度横に振り、新たに頂点に立つことになったレジナールにゆっくりと近づいた。
「おめでとうございます。今日は、あと少しのところで追いつけませんでした……」
すると、レジナールは小さな顔で微笑みながら、ヴァージンの肩を抱いた。
「ありがとう。初めての勝負で、ヴァージン・グランフィールドに勝てて……、信じられないくらい。女子長距離では絶対と言われている選手と、最後まで勝負ができて、それだけで嬉しかった」
「私もです。絶対女王とか言われてますけど……、その中でも新しいライバルが出てくるのですから……」
そう言いながら、ヴァージンもレジナールの背中を抱いた。ヴァージンより少しだけ背の高いレジナールが、この時だけは大きく見えた。
(10000mでも、新たなライバルが登場した……。今日はあと少しのところで負けたけど、近いうちにまた勝負して……、レジナールさんを打ち負かしてみたい……)
ホテルに戻るタクシーの中で、ヴァージンはそっと呟き、タクシーの天井を見上げた。彼女の脳裏には、見せつけられたレジナールの背中と、その横であの姉妹が競い合う姿がほぼ同時に映っていた。
(次の勝負は、間違いなくこの二人に打ち勝ちたい。どっちも頂点に立てずに帰るわけにはいかない……)
ヴァージンが右手の拳を力強く握ると同時に、タクシーが宿泊先のホテルの前に着いた。料金を払おうとしたヴァージンの右目に、見慣れた人物が彼女を見つめていることに気が付いた。
「ガルディエールさん……。世界競技会まで来て頂いたんですね」
「あぁ、ずっと声だけでやり取りしてたから、そろそろ君を見なきゃいけないと思ったわけでね」
ガルディエールは、この数ヵ月のレース後の電話口とは全く違う口調でそう言い、タクシーを降りるヴァージンに近づいた。ヴァージンは少しだけ身を引いたが、彼のその笑顔にゆっくりと手を伸ばしていく。
「ありがとうございます。今日のレースも、見て頂いたんですか」
「ちょっと、スタジアムには行けなかったから、テレビで見てたよ。あと少しだったね……」
「はい……。でも、もう気持ちは5000mに切り替えています」
ヴァージンがそう言うなり、ガルディエールは小さくうなずいた。
「それならよかった。4日後は、君の最高の舞台になることを、心の底から願ってるよ。勿論、その重要性は君にも分かっているよね」
「勿論です。メリナさんやカリナさんに打ち勝って、今度こそ……、あの記録を出してみせます」
「いい声だ。もともと実力のある君に、最高の期待を寄せるよ。何度も言うように、ラストチャンスだからな」
そう言うと、ガルディエールはヴァージンの肩をポンと叩いて、ヴァージンが乗ってきたタクシーのドアをノックした。彼の姿が、車の中へと慌ただしく消えていき、後には再びヴァージンだけが取り残された。
(10000mを落としたのに……、ガルディエールさんから何も言われなかった……。いつもは、電話口で残念がっているはずなのに……、今日はどうしたんだろう)
ヴァージンは、その時のガルディエールの表情に、何一つ違和感を覚えなかった。これまで何年にもわたって支えてくれた代理人の、その最初の出会いもこのような穏やかな表情だったことだけが、その時の彼女の脳裏に思い浮かんだことだった。
10000m決勝から二日後、朝の日が眩しい中で5000mの予選が行われた。メリナがヴァージンと同じ1組目、カリナが2組目と、姉妹で別れることとなった。予選からラップ69秒ほどのペースで挑んだヴァージンに対して、これまで彼女の前でレースを引っ張ってきたメリナはヴァージンの後ろにぴったりと付き、最後までヴァージンより前に出ることはなかった。
走り終えたヴァージンは、直後にゴールしたメリナに思い切って尋ねてみた。
「メリナさんは、予選の時にそんな飛ばさないほうなんですね」
「そんなことは全く意識しないわ。予選は、決勝の立ち位置を決めるために必要なものとしか思わない」
「それでも、セオリー的には一番内側から走るほうが有利に思えます」
ヴァージンがそう言うと、メリナはややヴァージンを見下ろしながら口を開いた。
「どこに立っても、有利不利はない。でも、今まで何度かあなたと勝負してきて、あなたのすぐ外側からスタートしたほうが、いい結果を残せていると思う。逆に、この前のサウザンドシティでのレースは、私が一番内側だったから、カリナに追い詰められることになった」
「カリナさんを、やっぱり意識しているわけですね……」
「当たり前じゃない。カリナ、この1年で何十秒も自己ベストを上げているんだもの。今は世界女王と言われるあなただって、脅威に思えるわよね」
「脅威と言えば、脅威です……」
カリナとは、ヴァージンは一度しか同じトラックを走ったことがない。その時は、後半まで粘られており、カリナの持つ底力をまじまじと見せつけられている。ぴったりと付いていることに気付いたときの驚きを、この時ヴァージンは、はっきりと思い出した。
(カリナさんは……、私とメリナさん、どっちに照準を合わせてくる……)
ヴァージンは、トラックからロッカールームではなく観客席に行き、5000m予選の2組目を遠くから見ることにした。既に、ゴールと反対側に、サーモンピンクの髪が輝くカリナが足首を回していた。
(カリナさんは元気そうだけど、それが本気に見える……)
彼女の表情をじっと眺めているうちに号砲が鳴り、18人のライバルたちが一斉にトラックを駆け抜ける。カリナはその中で先頭に立つことはせず、同じ組でレースを引っ張るメリアムの5mほど後ろを、彼女とほぼ同じスピードで追い続けているようだ。
(カリナさんの本当のトップスピードは、どれくらいになるんだろう……)
その時、ヴァージンは背後から肩を叩かれたような感触を覚えた。振り返ると、そこにはマゼラウスがいた。
「出口で待っていても来ないと思ったら、やっぱり2組目を見ているか……。新しいライバルを、お前はよほど気にするんだな……。実力では勝てるはずの相手に」
「そうですね。自己ベストは、まだ4秒くらい上回っているので、勝てる自信を失ったわけではありません」
「でも、お前がそう思い切って言うということは、お前にとってもいろいろプレッシャーなんだろうな」
「プレッシャー……、ですか?」
ヴァージンは、体をマゼラウスに向け、彼の目を見つめた。マゼラウスも、一昨日出会ったガルディエールのように落ち着いた表情を浮かべていた。
「そう、女王としてのプレッシャーだ。追いかけられ、追い詰められるプレッシャー。むろん、迫ってくる強敵を、二人まとめて跳ね返せるだろうけどな」
「いつしか、コーチが言ってた言葉ですね。追いかけられるほうが辛いと」
「そういうことだ。でも、お前の脚は、お前の真の実力は、決して裏切らない。お前の脚は、逆境を跳ね返せる。それだけは忘れるな」
「はい」
ヴァージンは、マゼラウスの前で力強くうなずいた。すると、マゼラウスは少しだけヴァージンに近づき、彼女の耳元でささやいた。
「さっき、ガルディエールと会ってきた。折り入って話がしたいと言われてな」
「私に何も言わないで、コーチに話をしてきたってことですか……」
「そうだ。奴も、勿論私も、世界女王のお前があの二人の前に屈する瞬間を見たくはないからな。今度のレースは、特に支えていかなければならないと、お互いの共通認識を話し合ったまでだ」
「そうですか……。私だって、今度のレースは負けられないです。必ず、結果を残します」
そう言うと、ヴァージンはマゼラウスに右手を差し出した。互いに握手した手と手は、熱すぎるくらいだった。
だが、ガルディエールがマゼラウスに告げた本当のことを、マゼラウスの口から彼女に伝えることはなかった。
そして迎えた5000m決勝当日。10000mとは打って変わり、穏やかな空がスタジアムの上空を包み込んでいた。ヴァージンを苦しめた風も、この日はほとんど感じられない。
予選の総合タイムで1位となったヴァージンが最も内側に立ち、狙った通りにメリナがその外側に立つ。カリナは5番目からのスタートだが、彼女の目は姉メリナを絶えず見つめていた。
(やっぱり、カリナさんはメリナさんを意識しているのかも知れない……。この前のサウザンドシティで、最後まで勝負を繰り広げた姉妹は、今日もまた最後まで優勝争いに絡んでくる)
ヴァージンは、そこまで考えると顔の向きを正面に戻す。その二人を抜き去るための準備は、既にできていた。
「On Your Marks……」
勝負の時を告げる低い声が、スタジアムを包み込んだ。
(二人にも、そして何度も跳ね返されてきた13分台の壁にも……、私は勝つ!)
ヴァージンにとって最高の舞台が、いま始まろうとしていた。