第47話 ラストチャンス(2)
世界競技会、女子10000m。それは、今のヴァージンにとって「楽勝」と称されるほど、強力なライバルのいないレースとされていた。かつてトップを争っていたはずのヒーストンでさえ、もはやヴァージンに遠く及ばなくなっている。数日後に行われる5000mでローズ姉妹が台頭してきたことと比べれば、落ち着いたレース展開になる。10000mの決勝当日、29分41秒32の世界記録を持つヴァージンはそう心に誓った。
(5000mは、間違いなく大混戦になる。ここで、余裕で勝てる自信をつけなければいけない……)
ロッカールームでレース用の「Vモード」を履いた彼女の足は、既に世界競技会連覇に向け、走りだそうとしていた。
だが、メインスタジアムの集合場所に向かうヴァージンは、突然強い向かい風を感じた。それは、ジャミスの街に着いてから感じたこともないほどの強さで、歩くのにもかなりの抵抗を感じるほどだった。
(嵐が来ているような風……。コーナーを回れば追い風になるけど、ペースは間違いなく乱される)
もう10年近くプロの陸上選手としてトラックを駆け抜ける彼女にとって、やや強い風でもレースに影響することははっきりと分かっていた。ペースを乱されるとともに、追い風と向かい風で力の入れ方を変えなければならない。そして、彼女自身のタイムも軒並み落ちる。
(何とか、風だけは避けてくれるといいけど……)
集合場所で点呼を取り、スタート位置に向かう間、ヴァージンは肌で風を感じたが、その勢いが徐々に強くなるのを感じた。ライバルがほぼいないはずのレースに、新たな敵としてその風は立ちふさがろうとしていた。
(私は、10000mでは絶対に勝てる。自己ベストが、それを証明しているんだから!)
強い風に立ち向かうような、はっきりとした号砲が選手たちの耳を貫き、ヴァージンの右足がラップ73秒のペースへと加速する。スタート直後のコーナーを曲がると、スタート前に正面から感じていた風は、すぐに追い風に変わり、彼女の加速を後押しした。
(追い風は……、間違いなく楽に走れる。でも、ここで必要以上にペースを上げると、この後に響いてくる)
20秒にも満たない直線を駆け抜け、ヴァージンは体をトラックの内側に傾けながらコーナーを回る。すると、彼女の左肩が強い衝撃を感じ、やがてそれが全身に重くのしかかる。向かい風だ。
(ここは、周りを覆われているはずなのに、足にすら風を感じる。スタジアムの外は、間違いなく強い風になっているのかも知れない……)
ラップ73秒を維持するにも、ヴァージンは少しだけ足に力を入れなければならなかった。普段なら「Vモード」をトラックに叩きつけるたびにパワーすら感じるところが、この日に限っては逆にヴァージンがさらに力を入れなければならない。思い通りに走れないもどかしさは、1周目にして早くも彼女を襲うことになった。
(追い風でペースを上げて、向かい風であまり疲れさせないほうが、本当はいいのかも知れない。でも、それをしたらペースを絶えず変え続けなければいけなくなってしまう……)
2周目、3周目と、ラップ73秒で走り続けてはいるが、追い風になったときに後ろから2位集団が迫ってくるのを、彼女ははっきりと感じていた。序盤から引き離すことも、その風は難しくしていた。
そして、2000mを過ぎ、4000mを過ぎても、ヴァージンが追いつきかけられる展開は変わらなかった。後ろからついてくるライバルの数こそ減ってはいるが、中盤に入ってもなお二人の足音が向かい風に乗って聞こえる。一人は間違いなくヒーストンだが、もう一人の気配はヴァージンがかつて感じたこともないものだった。
(もしかすると、あまり注目されていないような、新たなライバルがこのレースに参加している……)
注目されてこなかったはずの、新たなライバル。それこそが、世界競技会の数ヵ月前のメリナやカリナだった。
(もし、10000mでもそのような新しいライバルに追い上げられるのなら……、このレースだって楽勝じゃ済まなくなってくる……!)
ヴァージンは、向かい風が追い風に変わるコーナーで、追いかけてくるライバルを横目で確かめた。その目で見たのは、トンバの国旗をデザインしたヒーストンのウェア、そしてそのヒーストンにぴったりと付くような、黄色と赤に彩られたウェア――地元フェイランドの国旗の色――を着たライバル。輝くような茶髪に飾られた小さな顔が、ヴァージンにもはっきりと見えた。
(たしか……、この前の「ワールド・ウィメンズ・アスリート」で、顔だけは見たような気がする……。でも、名前は思い出せない……)
5000mで、早く13分台の壁をクリアしたいがために、このところヴァージンがエントリーしていなかった10000m。それ故、おそらく初めて一緒に走るはずのライバルだ。
その新たなライバルに、レースのおよそ半分を過ぎたヴァージンは恐怖を感じずにはいられなかった。
(私に、どこまで迫ってくる……)
ヴァージンが次のコーナーでも横目でそのライバルを意識した時、それまで2位を守り抜いていたヒーストンが、ついに捕らえられた。ヴァージンが何とかラップ73秒を保てているような向かい風でも、その新たなライバルは何の躊躇もなく同じラップで走れてしまいそうな勢いだった。
(5000mと10000m、両方で頂点に立ちたい……。最初からつまずくなんて、そんなの考えたくない……)
ヴァージンは、「Vモード」をやや強くトラックに叩きつけ、懸命に走り続けた。
だが、ヴァージンの強い決意も、やがて向かい風に揺らいでいった。レース終盤に近づくにつれ、トラックで荒れ狂う風の勢いはますます強く感じられるようになり、8000mを前にヴァージンのラップがついに落ち始めた。いや、風の勢い自体は変わっていなくとも、これまで20回も向かい風に挑んだ体が、徐々に重くなっていったと言ったほうが正確なのか。
その時、初めてヴァージンの右肩から強い風を感じた。
(外側から……、何か来る……!)
ヴァージンは、目線だけを右にやった。輝くような茶髪が、その目に大きく映っていた。その瞬間、スタジアムが、フェイランドの人々たちの大きな歓声に包まれる。
――マデラ!世界女王を引き離せ!
――その力強い走りで、フェイランドに最初の金メダルを届けてくれ!
マデラ・レジナール。21歳にして初めて世界競技会に出場した小顔のアスリートは、ヴァージンに全く振り向くことなく、さらにペースを上げた。レジナールの背中が、ヴァージンから少しずつ遠ざかっていく。
(ラップをもとに戻さないと……)
体感的にラップ75秒あたりまで落ちてしまったペースを上げるべく、ヴァージンは靴底を強く踏みしめた。だが、向かい風の中でペースを上げることは、風に翻弄され続けたヴァージンには難しいテクニックと言っても過言ではなかった。
追い風で何とかペースを戻すものの、向かい風に変わると再びレジナールに引き離されてしまう。風をものともしない新たなライバルとの差が明らかになる中、ヴァージンは少し早い段階でスパートをかけ始めた。
(少なくとも、このままで終わりたくない……!)
ヴァージンは、「Vモード」にさらに力を入れた。シューズの底に刻まれた赤い炎が、戦闘本能を過熱させる。ラップ75秒から、70秒を切るペースまで一気に上げ、ヴァージンはレジナールとの差を縮めていく。
だが、コーナーを回って追い風に変わったとき、レジナールもヴァージンのペースに合わせるように、軽々と加速していく。引き離されることはないが、残り3周で20mほどついた差を、思い通り縮めることができない。
(まだ、ペースは上げられる……!)
足の裏に序盤から軽い衝撃を感じていたヴァージンだったが、ペースを上げて向かい風に立ち向かっていくうちに、その衝撃がさらに強くなった。この時点で、もはや「Vモード」からのパワーをほとんど感じられなくなっていた。それでも、向かい風でペースを落とさないよう、彼女は体を前に傾けつつ、レジナールに挑んだ。
(もう一段……!)
ラスト2周のところで、ヴァージンはコーナーの途中から加速し、ラップ68秒ほどのペースで追いかけた。その背中まで、残り10m。スパートをうまく決められれば、決して追いつけない距離ではなかった。だが、ヴァージンの出せる限界ギリギリのスピードは、向かい風に変わると徐々にしぼんでいく。
追いつけるはずの相手が、また少しずつ遠くなる。レジナールに背中を見せられたまま、それ以上ペースを上げられない絶対女王は、もはやトラックの中で輝きを失っていた。
四方八方からレジナールに力強い声援が送られる中、手の届くところまで追い詰めたはずの新たなライバルは、颯爽とゴールラインを駆け抜けた。
(負けた……)