第46話 トップアスリートの苛立ち(7)
ガルディエールからの通話が途切れた後、ヴァージンはようやく電話を置いた。だが、一度落ち着いたはずの彼女の心は、わずか数分の電話で再び苛立ちを見せるほかなかった。
(私は……、今の私を十分に出したはず……、それでどうしてこんなことにならなきゃいけないの……!)
レースから1日経っているにもかかわらず、彼女の脳裏であのため息が何度も響く。これまで、結果を出せなかったときにもこぼれてきたはずのため息だが、気にすることがなかった。それが、この数ヵ月でまるで別物であるかのように彼女の心に住みついてしまっていた。
(私だって、一人の人間……。うまくいかない時だってある……。乗り越えようと努力しても、結果が付いて行かない時だってある……。でも、みんな……、そんな私に寄り添うことなく……、期待しかしていない……)
ヴァージンは、これまで何度も記録を打ち立ててきた両足を見つめようとした。その瞬間、膝から力が消えていくのを感じた。
(私は……、13分台で走りたい……。でも、みんなの期待に……、昨日の私は応えることができなかった……。しかも、メリナさんという、レース展開が最初から速くなるはずのライバルがいたのに……)
ヴァージンは、前日のレースを思い返すも、最後にメリナを引き離してからのことを思い出せなかった。思い出すのは、ゴールの直前で深いため息に包まれる、その瞬間だけだった。
(私が、結果を出せないことに……、みんなはため息で返した……。それで、私が苛立たないわけがない……。でも、その感情をどこで出せばいいのか、私には分からない……)
いつの間にか、ヴァージンは両手を床につけ、そのまま下を向いた。床が涙でこぼれ始めた。腕で涙を拭うものの、腕からも少しずつ涙がこぼれ落ちてくるのを感じた。
(どうしよう……。今日は、何もしないほうがいいのかも知れない……)
彼女は、ようやく立ち上がった。その時、電話の隣に一枚の封筒があることに気付いた。
(そう言えば、部屋番号が書いてなくて、私の名前しか書いてない封筒が届いていたんだっけ……)
高層マンションの1階で、ポストに入っていた封筒の存在までヴァージンは忘れてしまっていた。思わず首を横に振った彼女は、急いで封筒を開き、おもむろに手紙を開いた。
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ヴァージン・グランフィールド選手へ
あれから1年、グランフィールド選手がもっと強くなっていると信じて、この手紙を書いています。
グリンシュタインの分断された街は、今もそのままです。
それでも、僕が住む貧しいほうの街で、グランフィールド選手のことを伝えてみたんです。
そうしたらみんな「アメジスタのたった一つの希望だよ!」って言ってくれました。
少なくとも、何もかも希望を失いかけたほうの街では、グランフィールド選手は希望なんです。
だから、次のレースでもアメジスタの力を見せつけてください。世界記録、次々と出してください。
僕は、アメジスタでグランフィールド選手の活躍が見られる日を、ずっとずっと待ってます。
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ヴァージンは、手紙の全体を眺めた瞬間から手を震わせていた。左右の手で、手紙を握ろうとすらした。
「過度に期待しないで……!もう、どんな声援も、私の耳にはため息にしか聞こえない……!」
握りつぶさない代わりに、ヴァージンはその手紙をテーブルの下に投げ捨て、後ろを振り向こうとした。しかし、そのまま3歩歩いたとき、彼女は下を向いて立ち止まった。
(手紙……、アメジスタ語で書いてあった……。アメジスタって文字を何度も見たような気がした……)
毎日を過ごしているはずの高層マンションの壁に、アメジスタの景色がうっすらと映し出されているように、ヴァージンには見えた。貧しいながらも一生懸命に生きようとする人々、そして街の姿――。
(私が……、どんなにため息をつかれたとしても……、アメジスタの人々は、私を心の支えにしてくれる……)
大記録を前に、どれだけのため息が飛び交ったとしても、世界最速の女子長距離アスリート・ヴァージンは、世界で最も貧しい国・アメジスタを背負って走っている。何をやっているか理解されず、故郷の人々からどれだけの罵声を浴びようとも、彼女は決して折れなかった。
(いま、私の心が折れてしまうのをみんなが見たら……、アメジスタから数少ない希望が、消えてしまう……)
ヴァージンは、首を横に振り、目線を少しだけ上にやった。
(もっと冷静になろう。私は……、次のレースに全てを賭けなきゃいけない人間なんだから)
心の中でそう呟いたヴァージンの手が、一度は捨てられた手紙を優しく握りしめた。差出人の名前を見ると、そこにはヴァージンがトラックを走る姿を見た数少ないアメジスタ人、ビルシェイドの名前が書いてあった。彼は、おそらくマンションの名前だけ憶えていて、マンションの管理者がヴァージンの部屋に割り振ったのだろう。
(ありがとう……。みんな、ありがとう……)
7月のケトルシティ選手権は、スタート直前に振りだした雨が視界を遮り、ヴァージンもスピードを維持するのに普段の数倍のエネルギーを使うこととなった。これといったライバルこそ現れなかったが、結果は14分13秒73と、夢の記録はさらに遠ざかっていった。
そして、記録計が14分を刻んだときに客席から沸き上がる悲鳴やため息は、この日のヴァージンにも響いた。それでも、ヴァージンはそこで足を止めることはしなかった。最後までそのため息をハイスピードで叩きつける足音で消し、また記録達成がお預けとなったことが分かり切ったとしても、最後まで走り続けることに決めた。
(最後まで挑戦させてくださいって、あの時私は言った……。でも、挑戦するのは私自身なんだから……)
ゴール後にため息を聞いても、スタイン選手権の時のような苛立ちは、もはや彼女にはなかった。苛立つよりも前に、やるべきことがあった。
(次こそ……、私は大舞台で……、夢の記録を叩き出してみせる……!)
世界競技会の女子5000m、一度も頂点に立てないままの女王にとって、その壁を打ち破る最高の舞台が訪れようとしている。ヴァージンは右手の拳を、軽く握りしめた。
しかし、ヴァージンにとって新たな壁が立ちはだかろうとしていた。ケトルシティ選手権の翌週、オメガのサウザンドシティで行われた女子5000mのレースを、ヴァージンは偶然に映したテレビで見たのだった。
スタートラインに並ぶ選手たちを映すカメラで、ワインレッドの髪とサーモンピンクの髪が同時に揺らいだ。
(メリナさんとカリナさんが……、姉妹一緒にレースに出ている……!)
これまでヴァージンは、どちらか一方としか戦ったことがなかった。先行逃げ切り型のメリナと、ヴァージンのように後半伸びていくカリナが、直接対決となる場面を見たことがない。
(メリアムさんや、他にタイムが伸びるライバルも出てないし……、おそらくカリナさんがメリナさんを追いかける展開になるのだろうか……)
ヴァージンはソファに腰掛けながら、二人の走り方に注意して中継を見た。トラックで直接見ているときと違い、体全体が映ることが少ないテレビごしでは、それぞれのスピードをうまく読み取れなかった。
だが、2000mの通過タイムを見たとき、ヴァージンは思わず息を飲み込んだ。
(メリナさんが5分39秒なのに……、カリナさんが5分43秒……!)
以前、カリナと戦ったときも3000mを過ぎたあたりからカリナに迫られるような印象はあった。だが、カリナのそのタイムは、そもそもヴァージンがつい最近まで照準にしていたラップ68.5秒に近いペースだった。
明らかに、カリナの実力が上がっている。それどころか、3000mを過ぎて、カリナがメリナとの差を詰めた。
(カリナさんが、メリナさんに追いつく……!)
ヴァージンがテレビ画面をじっと見つめていると、4000mの手前でついにカリナがメリナに追いついた。その時だった。これまで安定したスピードで走っていたメリナが、カリナのスピードに合わせるように滑らかな加速を見せた。
(ローズ姉妹が……、トラックの上でデッドヒートをしている……!)
たしかに、カリナは以前ヴァージンを相当のスピードで追い上げていた。だが、メリナまで後半にスピードを上げるとは予想もつかなかった。そして、ヴァージンは自らの自己ベストさえ、気にし始めていた。
(大丈夫だと思うけど……、ここで13分台を出されて欲しくない……!)
残りの2周半、ヴァージンは祈るようにテレビを見つめた。中継の右上に映ったタイムに14分の文字を見たとき、彼女は少しだけ胸をなでおろした。それでも、素直には喜べなかった。
「メリナ・ローズのタイムが14分03秒88、カリナ・ローズのタイムが14分04秒59……!サウザンドシティの舞台で、姉妹揃ってシーズンベストを叩き出しました!」
(もう、私には後がない……!)
4月にカリナ相手に叩き出した世界記録を伸ばせないうちに、メリナやカリナがその世界記録に迫ろうとしていた。
世界競技会まで時間がない中、絶対女王の心にわずかどころではない焦りが見え隠れしていた。