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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
世界最速の脚でさえ あと少し届かない
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第46話 トップアスリートの苛立ち(6)

 14分08秒73。それが、ラガシャでのヴァージンの結果だった。引き離したはずのメリナが、それから1秒も経たないうちにゴールへ滑り込み、悔しそうな表情を浮かべていた。だがヴァージンは、そのタイムにも、その表情にも目を向けることなく、空を見上げるだけだった。

(体から……、力が抜けていく……。あのため息で……、私の体がすごく重くなったような気がする……)

 ヴァージンを後押ししてきたはずの声援は、14分という時間を刻んだ瞬間に聞こえなくなった。そして、スタジアムにはため息が溢れかえる。こうしてヴァージンが空を見上げている間にも、ところどころでため息と悲鳴が上がっていた。その全てを、ヴァージンは見たくなかった。

 いつの間にか、ヴァージンの目は、空から緑の芝生に向けられていた。何度も首を横に振りながら、その場を立ち去ろうとした。しかし、ヴァージンの周りでは既に複数のカメラが回っており、そのまま下を向き続けるわけにもいかなくなってしまった。

「ヴァージン・グランフィールド選手……、もし今お話するのが大変そうでしたら……、あとでプレスルームにお越しください」

 普段のように、何気なく話しかける記者たちに、ヴァージンはその時だけ首を縦に振った。小さな声で「分かりました」とも返した。そして、ひとまずカメラがその場を離れると、ついにシューズを地面に強く叩きつけた。


(私は懸命に走った……。13分台も出せるはずだった……!なのに、どうしてため息をつくのよ、みんな……!)


 それでも、ヴァージンの動きに誰一人として振り向かず、ため息が止まないスタジアムの中でそれ以上の声が上がることもなかった。ヴァージンも、声には出さずそれでも表情を強張らせながらトラックを後にした。


(ダメだ……。レースが終わったのに、全然気持ちが落ち着かない……。どうしたんだろう、自分……)

 プレスルームに向かうことだけは覚えていたヴァージンは、そこまで向かう階段をゆっくりと上がっていった。世界最速の脚を持つ女子とは程遠い、まるで足を引き摺るような歩き方だった。

 プレスルームに入ると、地元アフラリ内外のメディアが多数ヴァージンを待ち構えていた。案内されるままに席に座ると、すぐさまヴァージンに地元メディアらしきマイクが近づいた。

「グランフィールド選手。まずは、優勝おめでとうございます」

「ありがとうございます……」

「今日のレースも……、また13分台を目指したいという気持ちで臨まれたんでしょうか」

「はい……。最後まで行けると思っていたんですが……、今回も8秒ほど足りませんでした」

 そこまで答え、ヴァージンは小さく息をついた。それ以上のことを思うだけで、言葉にしてしまいそうだった。

「最後……、結構苦しそうでしたけど……、ペースを上げすぎたとか、そんな感じですか」

「そうかもしれません。ただ単に……、私の足がメリナさんとの一騎討ちで疲れてしまったと言うのもあります」

(あ、断定するの忘れた……)

 マイクがインタビュワーに向けられた瞬間、ヴァージンは軽く息を飲み込んだ。次に言われそうな言葉、それもヴァージンが最も言われたくない言葉を、みすみす相手に渡してしまったような不安しか残らなかった。

「最後思うように走れなかった理由が、他にも理由があったわけですね」

「ありました……。最後……、集中できなくなってしまいまして……、足がふらつきました……」

「何度も5000mでグランフィールド選手の走りを見ている私たちには、あれっと思ったんですよね。でも、特に怪我とかじゃなくてよかったです。次のレースも、期待しています」

(言ってしまったし……、言われてしまった……)

 ヴァージンは、カメラの前で思わず首を横に振りそうになってしまった。それでも、何のリアクションもないままその場から立ち去るには、彼女の心が小さすぎた。

 ヴァージンは、そのインタビュワーから最後に向けられたマイクの前で1秒だけ止まり、口を開いた。

「こんなことは言いたくありません。けれど、言わせてください。私は……、限界まで勝負がしたかったんです」

「限界まで……、勝負がしたい……。それは、どういったことでしょうか」

「私は、たしかに13分台を狙える……。いつ13分台を叩き出してもおかしくない。誰もがそう思っているんです。けれど……、私は……、どんな状況でも13分台を出せるような人間じゃありません……」

 ヴァージンは、心の底からマイクに向かって言葉を連ねる。次から次へ、苛立ちの言葉が彼女を襲う。

「私は、毎日努力してるんです。いつか、その時のために、今日だって懸命に走りました。でも……、あのため息でその全てが壊れたんです……。期待を裏切ってしまって申し訳ないという気持ちは、たしかにあります。でも……、でも……、それとこれとは違います。最後まで13分台の壁との、勝負がしたかったんです……」

(どうしよう……。何と言って、終わらせよう……)

 もはや、撤回することもできないところまで、ヴァージンの感情は溢れ出していた。集まったどのメディアも、ヴァージンの言葉を懸命に記録しながら、驚きを隠せずにいるのだった。

 そして、そのような中でヴァージンは数秒言葉を止め、最後にこう言い残した。


「私を最後まで挑戦させてください。私だって、アスリートとしてトラックに立ってるんです!」


 その後、ヴァージンはメディアに深くお辞儀して、プレスルームを後にした。スタジアムにいたマゼラウスにも、すぐに苛立ったことを伝えたが、マゼラウスは決して険しい表情になることなく、優しい口調で返した。

「人間は、時として感情的になってしまうものだ。その悔しさを、次に生かすんだ」

「コーチ……。ありがとうございます……。少しだけ立ち直れそうです……」

「私は、お前をずっと見てきた。だからこその言葉だ。お前なら、きっと次はうまくいく。それが、世界記録を何度も手にしてきた、強いお前のはずだからな」

 その時、ヴァージンは少しだけ涙を流していた。まだ、次がある。彼女はそう信じた。


 だが、オメガに帰国したヴァージンを待っていたのは、幾重にも折り重なった不在着信の嵐だった。数分おきに「フェアラン・スポーツエージェント」と書かれた着信が残っていた。

(ガルディエールさんかな……。ガルディエールさんにも、メディアの前で苛立ったこと、話すしかないか)

 ヴァージンは、震える手で電話を掛けた。ワンコールもしないうちに、ガルディエールが電話を取った。

「ヴァージン・グランフィールドです。先日のレース後は……、すいませんでした」

 おどけた声で、ヴァージンは電話口にそう呟いた。だが、ガルディエールはしばらく言葉を溜めて、返した。

「たしかに、あのインタビューで、君は気持ちを伝えようとした。けれど、あの表情、あの口調、そして何より言葉の一つ一つが、とても素直じゃなかったように思えた」

(素直じゃ……、ない……)

 ヴァージンは、ガルディエールに小さな声で言おうとしても、もはや声にならなかった。ガルディエールの口から、これまでに聞いたこともないほど低いトーンの言葉が響いてきたからだ。

「言っちゃ悪いけど、君のあの言葉は、ただの言い訳にしか聞こえなかった。13分台を出せなかった言い訳だ」

「言い訳と言ってしまえば……、そうかもしれません……」

「それだけじゃない。盛り上がっていたその場の雰囲気に、君は背を向けたんだ。達成できれば喜び合い、できなければ残念がる。人間の、そんな素直な気持ちを、最後まで挑戦させてください、と言って潰そうとした」

「そんなこと……、思ってないです……!」

 ヴァージンは、徐々に電話を持つ手に力を入れる。静まっていたはずの苛立ちが、ヴァージンの中で再び燃え上がるのを感じた。

「いいか。勝負の世界は、人生を賭けたシビアなものだ。君は、世界最速に成り上がって、そのことを忘れたのか。緊張感を持って、レースに臨まないのか」

「言われてみれば……」

 ヴァージンは、ガルディエールにそれ以上言葉を向けることなく、下を見つめた。高層マンションの一室、誰もいない部屋の中でヴァージンはどうすることもできなかった。

 その中で、ガルディエールはヴァージンに告げた。

「私が、今まで君にどれだけの価値を見出してきたか、もう一度思い出して欲しい。この前、ラストチャンスと言ったのは……、本当だからな」

 ガルディエールは、そこで電話を切った。電話の途切れた音だけが、ヴァージンの耳を貫いていった。レース直後と同じように、ヴァージンは足を床に強く叩きつけた。

(ガルディエールさんは……、私の気持ちを何も分かってない……!)

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