第46話 トップアスリートの苛立ち(5)
いよいよ、13分台に挑む勝負の日。アフラリ・スタインのスタジアムの入口で、ヴァージンは立ち止まり、これからそのトラックを駆け抜けるスタジアムをじっと見つめた。
(今日こそ……、私は13分台に挑む……。前にメリナさんが出れば……、もう間違いなく記録を出せるはず)
一度うなずいたヴァージンは、再び正面に顔を戻す。すると、選手入場口からサブトラックに向けて、ワインレッドの髪が歩いて行くのがちょうど見えた。メリナの目は、ヴァージンを見つめていた。
(メリナさんは、本気だ……。前に一緒のレースに出たとき、4400mまでトップを譲らなかったのだから……)
サブトラックへと向かうメリナの軽い足取りが、これから勝負に挑もうとするメリナ自身に自信を与えていた。ヴァージンも、それを見て幾分心を落ち着けようとした。だが、その時にはもう、選手入場口付近に陣取った人々がヴァージンを見つめていた。「5000 13」と書かれたプラカードを持ったファンさえ、その場にはいた。
(大丈夫。この期待に……、今日こそ応えるから……!)
ヴァージンは、集まったファンに無言で、それでも笑顔を見せながらロッカールームへと向かっていった。
「ヴァージン・グランフィールド。今日こそ、あなたの時代を終わらせるわ」
集合場所に着くと、そこには既にメリナが腕組みをして立っていた。サブトラックに向かって歩くときこそ少しだけ細い目を浮かべていたが、レース直前の彼女は、まるで獣が獲物を狙っているかのような目つきだった。
「そんなことはないはずです。今日の私だって、13分台を狙っているんですから」
ヴァージンがやや目を細めてメリナに返すと、メリナも負けじと強い口調で返す。
「なら、私が13分台を出してみせようじゃない。私が13分台を出せれば、本当にあなたの時代は終わるわ。一度ずつ、私と妹を破っている以上、今日はトップで帰すわけにはいかないわ」
「実力は、私のほうが上のはずです……」
ヴァージンはそれだけ言い残して、メリナから顔を反らし、客席に向けて手を上げた。背の高いメリナのほうが目立つものの、これから女子5000mのレースを迎えようとしているスタジアムでは、絶対女王ヴァージンに向けた声援のほうが圧倒的に多かった。
(この声援を、ため息に変えないように……。私は、この勝負のトラックを13分台で走り切る……)
ヴァージンの静かな誓いは、スタジアムじゅうに響いていた。それが、これから始まるレースで誰もが望んでいるはずのものだった。同時に、それが達成されない時、やはりそれがため息に変わるということも。
(私は、もう14分台に肩を落とすようなアスリートじゃない……!)
「On Your Marks……」
ヴァージンのスタート位置のすぐ右に、メリナが構えている。メリナの目は薄青のトラックを見つめており、時折その瞳をヴァージンに覗かせる。ヴァージンは、その瞳の光だけを感じ、メリナを意識はしなかった。
(13分台……)
号砲が鳴り、メリナがストライドを一気にラップ67.5秒まで高めていった。たちまちメリナがヴァージンの前に出るものの、ヴァージンはトレーニングで少しずつ慣れ始めているラップ68.2秒ほどのペースを変えないことに決めた。背の高いメリナは、最初のコーナーを過ぎてもまだ大きく、足が少しずつ遠ざかっていくにもかかわらず、実際のビハインドとのギャップをヴァージンに与えていた。
(やっぱり、メリナさんのレース運びは、私にとって楽しい展開にさせてくれる……)
3000mから4000mあたりで、少しずつそのペースを上げていき、トップに立つメリナを後ろから追い上げていけばいい。メリナより前に出る方法は、ヴァージンには分かっていた。
だが、1周を過ぎたとき、ヴァージンはメリナよりも1秒ほど遅く400mのラインを通過したことに気付いた。
(メリナさんが……、この前より少しだけペースを上げてる……?)
ヴァージンの体感では、トレーニングと同じラップ68.2秒ほどのスピードだった。だが、1周で1秒ほどの差をつけたということは、単純計算でメリナがそれよりも1秒ほど速いラップで回っていることになる。
(67.2秒……。前に走ったときよりも、少しだけ速い……。これは、もしかしたら……)
ヴァージンは、ペースを保ちながらメリナのスピードを頭の中で計算し始めた。10周、つまり4000mで11分12秒になる。4400mで12分19秒、4800mで13分26秒、そして5000mのゴールではちょうど14分になる。
(もしメリナさんがこのペースで走り続ければ、メリナさんが13分台のボーダーラインになる……!つまり、私がメリナさんを追い抜いて、最後まで抜かれなければ……、夢の記録に手が届くかもしれない……)
そのことに気付いたヴァージンは、軽くメリナを睨みつけた。決して序盤からペースを上げようとは思わなかったが、ヴァージンの中ではメリナのスピードが希望の光のように見えた。
観客は、まだ沸き立たない。それでも、時折ヴァージンの名を呼ぶ声が、トラックにこだましていた。
ヴァージンがラップ68.2秒からペースを上げないまま、2000mが過ぎ、3000mが過ぎた。その時、ヴァージンはようやく記録計に目をやった。
(8分33秒……。まずまずといったところ……)
ラップ68.2秒が最も決まっていたリングフォレスト選手権では、それよりも1秒から2秒ほど速いペースで3000mを駆け抜けていた。それでも、ラップ68.5秒よりは少しだけ速い分、まだ13分台に望みをつなげていた。
一方のメリナは、序盤こそラップ67.2秒を思わせるようなペースで進んでいたが、1000mを過ぎたあたりからラップ67.5秒ほどのペースに戻したようで、3000mのタイムがヴァージンの目測で8分27秒ほどになっていた。メリナがスパートをかけない限り、メリナを抜かせば即13分台ということはなくなってしまったようだ。
(それでも、まずメリナさんに追いつかない限り、夢の記録を叩き出せないことには変わらない……)
3200mのラインを過ぎたとき、ヴァージンは「Vモード」をトラックに強く叩きつけ、少しだけペースを上げた。リングフォレストの時のように、右足が重くなるようなことはなかった。ペースを67.5秒ほどと、メリナにつけられた40m近くの差を開けないようにして、ヴァージンは本気のスパートを見せる瞬間を待っていた。
(13分台は、きっと出せるはず。スパートが決まりさえすれば……)
シューズの底から湧き上がるパワーが、ヴァージンの脚に伝わる。リングフォレストではできなかった本気のスパートは、その準備が十二分にできていた。大記録に打ち勝つための、熱い炎がその脚に燃え上がる。
(4000m……!)
勝負のラインをまたぐかまたがないかのうちに、ヴァージンは一気にスピードを上げ、メリナとの距離をじわじわと縮めていく。メリナもヴァージンの気配に気づき、ややスピードを上げる。
(メリナさんが、最初見せたようなペースに戻った……。これは、面白い勝負になる……!)
メリナも、前にヴァージンと勝負した時には見せることができなかったスパートを見せ始め、ヴァージンからの逃げ切りを図ろうとした。コーナーを高速で駆けていくメリナに、ヴァージンは少しずつしかその距離を縮めることができない。
(でも、いくら中距離から長距離に移ったとは言え、メリナさんは私のスパートを振り切ることはできない……)
ヴァージンの鋭い目、そして何度となく世界記録を出してきた経験が、ほとんど距離が残されていない中でもメリナを捕らえようとしていた。ヴァージンが4400mでさらにスピードを上げると、メリナもそのペースに合わせようとするが、次のコーナーを過ぎたときにはもはや1秒から2秒ほどの差まで縮まっていた。
(最後の一周、メリナさんを確実に追い抜けるはず……)
先にメリナが4600mを駆け抜ける形で、最後のラップの鐘がなる。ちょうどメリナが死角になり、記録計の数字を読むことができなかったものの、体感的には13分02秒か03秒と、誰もが待っている大記録との勝負も十分できるタイムだった。
ヴァージンは、コーナーでやや外に出て、何度もヴァージンの横顔を見つめるメリナをあっさりと抜き去った。ラップ57秒を意識する、飛ぶようなスパートでトラックを駆け抜ける。それが、大記録に挑むヴァージンの本気のスパートだった。
(できる……。私はきっと、大記録に打ち勝てる……!)
最後のコーナーを回った。歓声が沸き上がる。その沸き上がった歓声の中、ヴァージンはゴールラインを目がけた。
だが、最後のわずか30mのところで、その歓声は萎んだ。
(ため息……っ!)
折り重なるようなため息が、スタジアムを包み込む。記録計に輝くのは、やはり「14」の文字だった。それと同時に、ヴァージンの足から力が消えていくのを感じた。
(パワーが……、なくなっていく……。あと少しなのに……)
最後、全く伸びていくことなく、ヴァージンはふらふらになりながらゴールラインに飛び込んだのだった。