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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
世界最速の脚でさえ あと少し届かない
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第46話 トップアスリートの苛立ち(3)

 リングフォレストのスタジアムを数多くのため息が包み込む中、ヴァージンはゴールラインに飛び込み、係に抱きかかえられるままにトラックの外に出た。彼女は、雰囲気だけで、挑んだ勝負の結果をその肌で感じなければならなかった。

(私は……、13分台どころか、新記録も達成できなかった……)

 かすかに見えた記録計には、14分04秒87という、彼女にとっては既に何度も出してきただけのタイムが刻まれていた。だが、その記録以上に、スタジアムのため息がヴァージンの脚、そして体を震えさせていた。

(どうして……、どうしてこんなにもため息を感じてしまうんだろう……)

 ため息が起きた瞬間、ヴァージンは体内時計を少しだけ遅く回していた。だが、観客の目に映る記録計は、それよりも早く14分の時を刻み、そこで夢の記録が潰えたことを客席に知らせていた。同時に、ヴァージンに対して、次々とため息をこぼしたのだった。

(入場した時には、私にたくさんの声援を送っていたはずなのに……。今はため息に変わってしまった……)

 ヴァージンは、ついに観客席に目をやった。そして、左に右に、そして後ろまで首だけを傾け、未だに鳴りやまない悲鳴を、細い目で見た。誰もがみな、ヴァージンに声援を送っていた人たちだった。

 未だに最後のスパートまで成功したことがない、ラップ68.2秒のスピード。それで最後まで走り切れることが、夢の記録の絶対条件とも言えるはずだった。それができなかった段階で、大記録は持ち越しとなる。それだけのはずだった。それに追い打ちをかけるように、ヴァージンの耳に響く、数多くの悲鳴――。

 ヴァージンは、トラックの上で首を何度か横に振った。そして、決して変わることのない自らの記録を、疲れ切った目でもう一度眺めた。そして、心の中で静かに言った。

(14分04秒87……。私は今日も、13分台との勝負に勝てなかった……。でも、それ以上に……)


 ロッカールームに入ったヴァージンは、ベンチに座り、ガックリと首を垂れたまま床を見つめるしかなかった。スタジアムを包み込んでいたため息は、ヴァージンがメイントラックを去るまで続いたような気さえした。今はもう他の競技の熱狂に変わったが、それまでの声援が凍りついたように、その場に流れた吐息を、彼女はロッカールームで一人になっても忘れることができなかった。

「私は……、全力で走って……、力を出し切ったのに……、大差をつけて優勝もしてるのに……」

 この日の優勝は、ヴァージンにとってほぼ確実とも言っていいほど当たり前のことだった。その場に集まった全ての観客が、それ以上のことを期待していることも、また間違いのないことだった。

 ヴァージンは、一度首を横に振り、さらに言葉を続けた。

「私は、過度の期待をみんなにさせていたのかもしれない……。今の私だって、出したいという希望だけで突き進んで行ける記録のはずなのに……、みんなが13分台を期待している……」

 涙こそ流さないものの、ロッカールームの中で言葉をこぼすヴァージンは涙声になっていた。

「どうして、期待はため息に変わるんだろう……」

 ヴァージンは、それ以上何も声に出すことなく、しばらく首を下に垂れた。そして、次の競技を終えた選手たちがロッカールームに入ってくるのを感じ、そこでようやく着替えを始めた。


「今日のことは気にするな。君は、果敢に13分台に挑んでいったじゃないか……」

 その日のうちに高層マンションに戻ったヴァージンが、ガルディエールに客席のため息のことを話すと、彼はヴァージンにあっさりと言葉を返した。ここのところ、大記録を出せないたびに棘が刺さるような言葉を言われてきた相手だけあって、彼女はビクビクしながら電話を掛けたものの、それは杞憂に終わった。

「ガルディエールさん……。少しだけ、あのため息の恐怖から解放されたような気がします……」

「やっぱり、君にとっては期待が大きすぎることは……、恐怖に変わりますか……。恐れ知らずの君ですら、そのように思うとは……、今まで何年もお付き合いして感じたことはないですね」

「はい……。なんか、トラックの上で初めて感じた恐怖のように思えました」

 ヴァージンの体からは震えは止まっていたが、そのことを聞いたガルディエールのほうが徐々に声を低くし、電話の向こうで震えたような言葉を発しているように思えた。

「そうだな。それも、君にとっていい経験になったと思うよ。大記録に挑むとき、そこに記録以外にも壁が立ってしまうのですから……。次のスタイン選手権は、誰も相手がいない勝負じゃなく、メリナが出るはずだ。この前のように、無意識にスピードを上げられれば、今度こそ13分台を叩き出せると思う」

「必ず……、13分台でゴールできるようにします」

 電話を切ると、ヴァージンはそのまま天井を仰いだ。白く映る天井には、13分台を刻んだ記録計がうっすらと映っているように見えた。

 その時、パソコンがかすかに動いた。ふと我に返ったヴァージンは、首を戻し、メールを開いた。

(あれ……。アルデモードさんからメールが……)

 グラスベスに所属しながらも、練習中にケガをして1年半。その間たまにメールが届くものの、アルデモードからサッカーに関する話題は一度もなかった。だが、この日のヴァージンは、今日こそアルデモードがその話題を振ってくれるような期待があった。

(下手に期待したら、今日のリングフォレストみたくなるけど……、小さな期待なら大丈夫なはず……)

 ヴァージンはマウスを持ち、アルデモードからのメールを勢いよくクリックした。


  ~アメジスタのトップアスリート ヴァージンへ~

   今日は中継で見てたけど、あと少しで13分台が出せるところだったから残念だったよ。

   でも、次こそは君が夢の記録を前に叫ぶだろうと思って……、楽しみは次まで取っておくとするよ。


   今日僕がメールしたのは、それだけを言いに送ったわけじゃないんだ。

   ようやく、グラスベスの試合に出ていいと監督から言われたんだ。

   しかも、相手は勝ち点で2しか離れていない、2位のヒュンエル。

   リーグオメガの今シーズンの頂点が決まりそうな、そんな大事な試合で使ってもらえるんだ。

   勿論、先発じゃなくて……、後半ワンポイントで使うとかそんな感じだろうけど……。

   もし、久しぶりに僕がピッチに立っているところを見たいのなら、君にチケットを送るよ。

   レースが詰まってて忙しそうだから無理は言わないけど、僕のことも応援して欲しいな。

                             フェリシオ・アルデモード


「アルデモードさん……。なんか、アルデモードさんもいろいろともがき苦しんでるみたい……」

 ミラーニのエースストライカーだった頃と比べ、吸収合併されて強豪グラスベスに移籍してからのアルデモードはそれほど成績を残せていないのは、ヴァージンは薄々感じていた。1年半前に「Vモード」の名前を決めてもらう頃に休養となってから、一度も試合に出られなかったアルデモードがどういう心境で次の試合に臨もうとしているか、文面からも痛いほど伝わってくる。

(アルデモードさんは……、今の私のように、もう一度その夢を叶えたいって思っている……。いや、どんなアスリートだってそう思っているはずだけど……、その想いは今の私のよう高まっている)

 グラスベスとヒュンエルの試合は、次節で5日後のようだ。翌日まで返答を待つことはできそうになかった。

(アルデモードさん……。私は……、再起しようとしている姿を見に、スタジアムに行きます……!)


 その翌日にはアルデモードからチケットが届き、ヴァージンは試合当日をオフにした。試合後にアルデモードと二人きりになる時間も込みで、丸一日時間を取った。

(ここが、いまリーグオメガで強いチームどうしが戦うスタジアム……)

 集客が見込めるということもあってか、グラスベスのホームグラウンドではない、オメガ国立サッカースタジアムで試合は行われる。だが、オメガで一、二を争うほどの広いスタジアムも、両チームのサポーターで試合20分前には完全に埋まってしまった。

 ヴァージンは、グラスベスのサポーターが集まるスペースの中段に座り、試合開始を待つ。だが、試合開始前に発表された先発メンバーの中に、アルデモードの名前はなかった。

(やっぱり……、アルデモードさんが言ってた通り……、ワンポイントで使われる……)

 やがて試合が始まって、ヴァージンの周りにいるサポーターがみなグラスベスを応援するさなか、ヴァージン一人だけ、不安な時間を過ごしていた。意識しなければ周りと一緒に声を上げることができなかった。

 前半が終わり、ハーフタイムが明けてもなお、その瞬間は訪れなかった。だが、後半が始まって数分、グラスベスの選手交代のボードが高く掲げられた。ピッチの外に、彼はいた。

(アルデモードさん……!)

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