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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
世界最速の脚でさえ あと少し届かない
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第46話 トップアスリートの苛立ち(2)

 5月のリングフォレストの空は、厚い雲に覆われていた。女子5000mが行われる時間までは天気が持ちそうだが、その後のプログラムが雨の中で開催されることは、ほぼ間違いのないことだった。

 だが、普段と違う空の下でも、スタジアムのサブトラックには既にグローバルキャスのカメラマンが数人スタンバイしており、受付に向かうヴァージンの目からもその本気ぶりがはっきりと分かった。

(ガルディエールさんも言っていたように……、今日は私の13分台を全世界に中継するのに熱が入っている)

 カメラマンたちから正面に目を戻したヴァージンは、小さくうなずいた。そして、戦いの舞台が行われるスタジアムに入っていった。


――さぁ、リングフォレスト選手権中継、これからの注目選手の紹介です!


 ヴァージンが受付からロッカールームまでの通路を進んでいると、10人ほどの出場選手が通路の一角に立ち止まっていた。その人だかりからは、アナウンサーのような人物の声が流れていた。明らかに、テレビだ。

(前にリングフォレストに来たときには、ここで放送が流れなかったはずなのに……)

 ヴァージンは、人だかりに向けて体を乗り出し、テレビに映る有名選手の姿をその目で見た。正面や横から撮られた顔写真と主な戦績、そして比較的最近のレースの様子が映し出される。その場に集まった選手たちは、ヴァージンがその輪の中に入ってきたことなど全く気付くこともなく、ずっとテレビに夢中になっているようだ。

(なるほど……。いつも、こんな感じでトップアスリートが世界じゅうのテレビに映るわけか……)

 ヴァージンは、人だかりの中で軽くうなずいた。だが、ヴァージンがその場を去ろうとしたとき、ついに彼女はその名前がテレビ画面に映し出されるのを見た。


――16時32分からの女子5000mは……、13分台を狙う絶対女王、ヴァージン・グランフィールド!


 その名が叫ばれた瞬間、それまでテレビから目を離そうとしなかった人だかりが、一斉にヴァージンにその目を向けた。その場にヴァージンがいることなど、陸上競技にその身を置く選手たちには分かり切っていた。

(やっぱり……、私は注目されている……。少しだけプレッシャーになるけど……、それも私の力になるはず)

 結局、ヴァージンは直近のラガシャ選手権での走りを、最後まで見るしかなかった。


(いよいよ、私が13分台を叩き出す舞台……。勝負の時間が迫る……)

 撮影用カメラが回っているサブトラックを後にし、ヴァージンは集合時間の10分前にメイントラックに足を踏み入れた。すると、選手入口に近い客席のところどころから歓声が上がり、ヴァージンに手を振っていた。ヴァージンは手を振った観客たちに手を振って返し、ほほ笑んだ。

(みんな……、私の記録を待っているように見える……。スタート前の客席から、ここまで声援を受けたことはないし……、なんかすごく嬉しくなるような気がする……)

 テレビでその名を見たときはプレッシャーを感じたヴァージンだったが、勝負の舞台に上がったヴァージンからはプレッシャーが少しずつ消えていった。勝負の世界に挑み続けてきたヴァージンが、トラックの上で勝負以外のことを考えることは、これまでもほとんどなかった。

(私は、13分台を出して欲しいというみんなの気持ちを……、裏切りたくなんかない……。テレビの向こうで応援してくれる人だってそうだけど……、私はみんなの声援を必ず味方につける……!)

 ヴァージンは、集合場所に向かうまでの間、何度かうなずいた。そのたびに、背後から大きな声援を受けているように彼女の心は感じていた。


「On Your Marks……」

 勝負の始まりを告げるスターターの声が、ヴァージンの耳に響く。彼女の前に広がるのは、12周半続く勝負の道。ヴァージンが13分台で走り切れるはずの、栄光への道――。

(私は、このトラックに全てを出し切るしかない……。今の私には、0コンマ09秒は……、乗り越えられる!)

 まっすぐ前を向き、ヴァージンは最初の一歩を思い浮かべる。何度もトラックを駆け抜けたヴァージンの脚が、その一歩を踏み出そうと決めたとき、号砲が鳴った。

(私は……、今日こそ夢の記録を出す……!)

 ヴァージンは、最初のコーナーを抜け切る前にラップ68.2秒までそのスピードを高めた。ライバル不在のレースとなる中、最初の半周はヴァージンのペースに合わせようとする集団が何人もいたが、1周、2周とラップ68.2秒ほどのスピードで駆けるうちに、背後から全く呼吸が聞こえなくなった。それと同時に、ヴァージンはその体ではっきりとスピードを感じるようになった。

(トレーニングの時のように、小刻みにスピードを変えなくてもラップ68.2秒を出せるようになってる……。これが、何度も感じてきたトラックでの魔術なのかもしれない……)

 その足に携える「Vモード」を、ヴァージンは軽々とトラックの上に叩きつける。一歩ごとに靴底から反発力が生まれ、それがヴァージンのパワー、そしてスピードへと変わっていく。思った通りのスピードが、大記録に挑み続けるヴァージンの想いを、徐々に確信へと変えていくのだった。

 そのスピードのまま、ヴァージンは1000mを駆け抜ける。彼女は、記録計を横目に見た。

(2分51秒!狙った通り、ラップ68.5秒よりもタイムが上がっている……!)

 ラップ68.2秒での走りを取り入れて以後、ほとんど出せたことのない最初の1000mでのタイムに、ヴァージンは心の中でうなずいた。このメンバーではもはや誰も付いて行くことのできないスピードに、ヴァージンはその体に少しずつ大記録への足音を感じ始めていた。

(そして、これを3600mぐらいまで続けて……、そこからトップスピードまで上げていく……)

 大記録への地図は、ヴァージンの中では既に出来上がっていた。


 ヴァージンがメイントラックに入ったとき声援を送っていた観客が、少しずつ沸き上がり始めるのを、同時にヴァージンは感じていた。世界競技会のような大きなレースではないにしても、13分台を狙おうとしているヴァージンに向けた期待は、レースの中盤から既に高まっていた。


(最後の1000mで、普段のようなスパートを決められれば、13分台……、いや一気に57秒台まで世界記録を縮めることができるはず……!)

 徐々に高まりを見せる声援を受けながら、ヴァージンはなおラップ68.2秒を意識したスピードでトラックを駆け抜けていった。3000mで記録計を横目で見たときには8分32秒、3800mでは10分48秒。残り3周を3分11秒で走ることは、彼女の実力を考えれば決して不可能なことではないはずだ。

 コーナーを駆け抜けるとき、ヴァージンはかすかにうなずいた。4000mのラインに向けて、そのスピードを一気に高める。本気のスピードでの勝負が始まる瞬間は、瞬く間に彼女の目の前に迫っていた。

(65……、31……、57……。私の脚に、そのラップで駆け抜ける力はあるはず……!)

 ヴァージンは、「Vモード」で力強くトラックを蹴り上げた。4000mの少し手前からスピードを上げると、その加速に応えるように、靴底からパワーが溢れ出すのを、この時のヴァージンも感じていた。

 だが、4000mラインを駆け抜け、さらにスピードを上げようとしたとき、右足の裏がやや重くなるのを感じた。

(足が……、少しずつ悲鳴を上げている……。「Vモード」のパワーでも、足に負担がかかるようになった……)

 ヴァージンは、懸命にスピードを上げる。ラップ65秒まで上げ、あと2段ギアを上げようとシューズを懸命に踏みしめる。それでも、一度重いと感じた右足が、少しずつ期待からかけ離れていく。

(ここまで来たら、13分台は確実なのに……!)

 ここまで快調に飛ばしてきたヴァージンの脚が、さらにスピードを上げようと懸命にもがいている。思った通りのスピードに乗れない彼女は、ほんのわずかの焦りを感じていた。

(体を前に……。少しでもスピードを上げて……、私は大記録と勝負するしかない……)

 これまで、何度となく世界記録を打ち立てたその体は、たとえトラックの上で右足が悲鳴を上げかけても、走ることを止めなかった。不十分ながらも、彼女はラップ62秒ほどのスピードまで何とか高めることができ、最後の直線に挑んだ。

(あと10秒……。今日こそ私は……、13分台という記録を打ち立てる……!)

 ヴァージンは、心の中でカウントダウンを刻みながら、その体を懸命に前へ前へと伸ばしていった。そこにいる誰もが待っている夢の記録を、ヴァージンはその脚で掴もうとしていた。


 だが、体内時計よりが14分の時を刻むよりも3秒早く、客席のあちこちから深いため息が漏れた。悲痛そうな声が、スタジアム全体を包み込む。

(どういうこと……)

 その時、ヴァージンの目に飛び込んだのは、既に14という数字が刻まれた記録計だった。

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