第6話 ヴァージンにスポンサーがついた日(1)
ヴァージンがネザーランドから戻ったのは、レースが終わってわずか二日後のことだった。アカデミーのそばにあるワンルームマンションに帰ると、重いバッグの中から既に袖を通した汗だくのウェアが鉛のように溜まっていた。
アスリートとして記録を伸ばさなければならない以前に、遠征の後には通常の家事が重くのしかかる。
(前はお父さんがいたから、それほど大変に思わなかったのに……)
ヴァージンは、何枚もの服をまとめて取り出そうとしたが、何のいたずらか洗濯機をかすめるように一枚の服がヴァージンの足元に落ちた。膝を屈めて手に取ると、それは彼女自身のレース用の服だった。
(アメジスタ……)
赤とダークブルーの、すっかり見慣れたウェアが、ヴァージンをどこか寂しそうに見つめていた。
やっぱり、アメジスタから出たアスリートの力はその程度なのか、と。
「私……」
ヴァージンは、少し下を向いて、再び国旗の描かれたウェアを見た。そして、大きく首を振った。
「まだ成長の途中よ」
「おはようございます」
次の日から、ヴァージンのアカデミーでのトレーニングが再び始まった。受付から控室を見ると、マゼラウスの姿が珍しく見えなかった。
(早すぎたのかな……)
そう考えながら、ヴァージンは女子のロッカールームへと向かう。そこには、同じく先日のアムスブルグの大会で5000mのタイムを競った、グラティシモが着替えていた。
「おはようございます。グラティシモさん」
「ヴァージン、すごいじゃない」
「え……?」
開口一番にそう言われて、ヴァージンは思わず口ごもる。その目の前で、グラティシモはバッグの中から一枚のパンフレットを取り出した。
「これに出るんでしょ。イクリプスのシューズのキャンペーンCMに」
「イクリプスの……?そ、そんな話聞いたことありません」
イクリプスは、セントリックと並ぶスポーツウェアの一大メーカーで、トップアスリートの中にもこのブランドを愛用している人がいる。後から知ることになるのだが、メドゥもイクリプスの専属モデルとなっており、彼女に特注のウェアやシューズを提供したりなどしている。勿論、ブランドの名前をヴァージンが知らないわけがなかった。
グラティシモに「見せて」と言い、ヴァージンは先程のパンフレットを手渡す。
――不可能を可能にする、若き女子アスリートが世界にはいる。
「そうね……。この見出しでピンとこない?」
「私以外にも、たくさんいますよ」
「本当にそう思う?だって、ほら。ここに、こう書いてあるじゃない」
グラティシモは、見出しの次の行に右手を置いて、そこを読むようにヴァージンに言った。
「えっと……、この世の中にはスゴいアスリートがいる。けれど、そのスゴいアスリートを目指して、いま強敵を相手に戦いを挑む、一人の女子がいる」
「不可能は、可能に変えられる」
「……彼女の走りは、挑戦する者すべてに勇気を与える。イクリプス・ドリーム。いま、イクリプスはその挑戦者の姿にフェードインする!」
未だに慣れないオメガ語で書かれた文章だったが、その空気に半年も触れた今、ヴァージンはすんなりと文章を読むことができた。そして、グラティシモとの輪読でそれを読み終えたとき、ヴァージンはかすかに言った。
「私かも……しれない……」
パンフレットの中には、また字が書いてあって、その横にはトレーニング用のシューズの写真やら、競技場のトラックの写真やらが載っていた。特定のライバルが映っているわけではなく、あくまでもこのキャンペーンを始めるというだけの宣伝のようだ。
「おそらく、ヴァージンのところにオファーが来ると思う。もしそうなったときは、イクリプスのブランドに泥を塗るようなことだけはしないでよ」
「分かりました……」
一度も履いたことのないイクリプスのシューズを包まれ、トラックを全力で走り抜ける姿を、ヴァージンは想像した。だが、それを素直に喜ぶことはできなかった。
(私で、大丈夫なのかな……)
ヴァージンは、マゼラウスからもらったシューズに包まれて、ロッカールームを出た。白熱電球に、朱色のタンクトップが眩しく照らされる。再び受付の近くに戻ると、ヴァージンは早速膝を伸ばし始めた。
だが、その時ヴァージンの耳に入ったのは、聞き慣れない罵声だった。
「どういうつもりだ!」
集中すら妨げるその声は、コーチ控室の中から漏れ出していた。ヴァージンがその中を見ると、灰色のスーツに身を包まれた茶髪の男性が、一人のコーチを叱っている。彼が、セントリック・アカデミーのCEO、リッチ・ウィナーだ。
(コーチ……)
ヴァージンは、膝を伸ばすのをやめると同時に震え上がった。マゼラウスが怒られているということは、誰の成績が不振であるかすぐに分かってしまう。ヴァージンは、言葉に動きを遮られ、体が全く動かなくなった。本当は、気にせずにトレーニングをしなければいけない場所であるにもかかわらず……。
ドアの隙間から漏れ出した罵声は、さらにヒートアップする。
「記録を落とすとは、誰の責任だ!」
「……私です。私が、彼女を伸ばしてあげられなかったのです」
「だろぉ!うちも、このアカデミーをボランティアでやってるわけじゃないんだ!」
「す、すいません……」
「こいつに限らず、伸びないアスリートは切れ!とっとと切れ!……いいな」
(うそ……)
自分を支えてくれる存在が一つ増えそうな今、それをはるかに超える大きな支えがヴァージンからいなくなってしまう。そう思った瞬間には、ヴァージンはその場で座り込んでいた。
ジュニア大会で、支えてくれる人が誰もいないヴァージンを救ってくれたのはマゼラウスだった。たしかに、これまで親身になって彼女を支えてくれていた。時には厳しいことも言われたりした。
けれど、そのもとで本人は何も成長しなかった。
(何やってるんだろう……、私……)
「ヴァージン、なに座り込んでるんだ」
「コーチ……」
聞き慣れたその声に、ヴァージンは地べたから立ち上がるのがやっとだった。だが、落ち込んだ表情を見せれば、またマゼラウスに何か言われてしまうので、必死に作り笑顔を浮かべようとした。
「もしかして、私がセントリック・アカデミーのCEOに怒られているのを、聞いてしまったのか」
「はい……、聞いてしまいました」
「そうか……。みっともないところを見せてしまって、すまんな」
「いえ……」
マゼラウスは、大きく息をついた。決して、ヴァージンを睨みつけようとはしなかった。
「あのな。聞いてたから分かると思うが……、伸びないアスリートは切れ……、は間違っていると思う。私はな」
「えっ……」
マゼラウスは首をゆっくりと横に振った。その表情が、ヴァージンの顔に大きく映る。
「本当に切らなきゃいけないのは、伸びないアスリートじゃない。伸びようとしないアスリートだ」
「伸びようとしない。つまり、努力をしない……」
「そういうことだ。実力を備えているから、普段通りの練習をして、大会直前に帳尻を合わせるだけの奴だ。うちのアカデミーにも、私が見る限り相当数いる」
そう言うと、マゼラウスはトラックのほうに首を向けた。
「コーチ……」
「安心しろ。ヴァージンは、決して努力しない人間じゃないと信じているから」
「ありがとうございます……」
そう言うと、ヴァージンは思わずマゼラウスの手を取ろうとした。しかし、マゼラウスの手が近づいてくることはなかった。その代わり、彼の目がキッと細くなる。ヴァージンの額に、緊張が走る。
「8月の世界陸上競技会。これが、私とヴァージンの最後のチャンスだ。CEOも、そう言ってる。それまで、絶対に私を離れるな」
「はい」
「私は、本気だからな。今までのように、甘くトレーニングをさせたりはしない」
その日の夜、ヴァージンがワンルームマンションに戻ってくると、ポストに大きな封筒が入っていた。封筒の中には、見慣れたパンフレットが映っていた。
(あのパンフレット……)
ヴァージンは、イクリプスのパンフレットに真っ先に手を伸ばす。大会開けであるにも関わらず、相当な量のトレーニングをこなしていたヴァージンは、疲れすらすっかり忘れて飛び上がった。
「イクリプス・ドリーム……。本当に、私を……」
思わずそう言いながら、ヴァージンはパンフレットの横にあった紙の束に手を伸ばした。そして、半分ほどそれを引き出したところで動きを止めた。
――ヴァージン・グランフィールド殿
突然、このような案内をお送りしてすみません。
イクリプス・ドリームの候補に選ばれました。
あなたの走りは、人々に勇気を与える。
そう信じて、あなたを候補に選びます。
もしご迷惑でなければ……
(うそ……!本当に……!)
ヴァージンは、イクリプスからの封筒を握りしめたまま、急いで部屋に戻った。そして、シャツを脱ぎ捨てると、ベッドに飛び込んだ。
心臓の動きが、徐々に高まりを見せていた。