第46話 トップアスリートの苛立ち(1)
(あと……、0コンマ09……!)
ラガシャ選手権で出した記録を何度も言い聞かせながら、ヴァージンはトレーニングセンターへと向かう。気味の悪い電話をかけてきたガルディエールからも、次の日には8月の世界競技会までのスケジュールが届き、いつ13分台を出してもいいように、毎月のようにレースが組まれていた。5月のリングフォレスト選手権に続き、6月のスタイン選手権、7月のケトルシティ選手権、そして8月の世界競技会へと駆け抜けていく。
だが、最後の世界競技会を除けば、それまでに行われる3回のレースは、全て5000mの一本勝負だった。
(この状況下で、気分転換に10000mのレースを走ろうとは思わない。今は、目の前に掴んでいる5000m13分台を記録計に叩き出すだけ……)
ヴァージンは、首をかすかに上げ、どこまでも続く青空を眺めた。その空だけは、ヴァージンの未来を明るく照らしていた。そこから差し込む光が、記録を叩き出す両足をほんの少しだけ温めていた。
だが、ラガシャ選手権から戻って初めてとなる5000mのタイムトライアルは、ヴァージンにとって決して喜ぶべきタイムではなかった。マゼラウスが首を横に振りながら、ストップウォッチを彼女の目に近づけた。
「14分06秒93……。ラップ68.2秒を意識したはずなのに……、体が付いて行っていないのかも知れません」
「お前も、そう思うか……。私は何も言わなかったが、実際、お前は68.2秒から少しずつ落ちていっていた。気が向いたときにペースを戻すが、まだ68.2秒には慣れていないような走りだった」
マゼラウスは、そこまで言うと再び首を横に振った。それを見て、ヴァージンは思わず言葉をこぼした。
「コーチ。私はあと……、0.09……。必ず出します……。もう手が届いているんですから……」
決して下を向いたり、涙をこぼすことなく、ヴァージンははっきりとコーチにその意欲を告げた。すると、マゼラウスはかすかに笑顔を見せ、それから三たび首を横に振った。
「それは、私にだって分かっている。ここまで世界記録に挑み続けてきた、お前の走りを信じているからな。ただ、希望は必ずしも、すぐに実現できるものばかりではないのかも知れない……」
「すぐには、実現できない……。もっと時間がかかるものだと、コーチは思ってますか……」
「何十年も陸上の世界にいて、何百人、何千人もの選手のデータを見た。その中で、お前の成長は誰よりも速いと思う。私だけじゃなく、多くの陸上関係者が、口を揃えてそう言っている……」
マゼラウスは、そこで小さく息をつく。ヴァージンは、次の言葉を考えるような余裕すらなかった。
「だからお前は、最初の頃を除けば……、記録が伸び悩むことをほとんど経験していない。ウォーレットに世界記録を出されたときでさえ、お前のタイムも順調に伸びていたのだから、お前自身は限界を感じなかったはずだ」
「たしかに、私はあの1年間でも自己ベストを……、出してました……」
「そう。だからお前には、試練知らず……と言わざるを得ない。今は、13分台の壁を乗り越えられると言っているが、それが簡単に乗り越えられないものだと知った時、お前は初めて、壁を前にもがくことになるだろう」
マゼラウスは腕を組み、じっとヴァージンを見つめる。トラックでは男子の短距離のトレーニングが行われているが、ヴァージンはその気配すら感じることができなかった。
「壁を前にもがくなんて……、私にはないはずです。経験が、それを証明してくれるはずです」
「いや、それは確かなんだ。確かなんだが……、それで破れない壁だって、いつかはお前の前に立つ。そして、その壁に勝つための条件は……、決して挫折を感じない。それだけだ」
マゼラウスのうなずく姿が、ヴァージンの目には大きく見えた。
「私も経験した。大台の壁を破る、最後の一歩がどれだけ大変なものかを……。おそらく、13分台という数字を見るまでの間に、お前はいろんな経験をすることになるだろう」
「経験……、ですか……」
「勿論、走ること以外での経験だ。……まぁ、ちょっと思うことを言ってしまったが、お前は乗り越えられるだけの力があると、信じているからな。トップアスリート、ヴァージン・グランフィールドよ」
そう言って、マゼラウスはヴァージンの肩を軽く叩いた。目を細めていたマゼラウスの姿は既になく、そこには普段のようにアドバイスする彼の姿があった。
それとは逆に、ヴァージンの目は無意識に細めていた。
(挫折なんか……、するわけない……。コーチは、何であんなことを言ったのだろう……)
高層マンションのソファに座ると、ヴァージンは白い天井を見上げ、その日マゼラウスが告げたことを断片的に思い出した。決して、13分台は不可能と言ったわけではないし、声のトーンも怒っているようなものではなかった。だが、ヴァージンにとってそのアドバイスは、どこか現実離れしているようにしか聞こえなかった。
(私は、あと0コンマ09で……、夢の記録を出せる……。ほんの少しだけ体が前に出れば……、私は13分台という記録を刻むことができる……。そこまでの間に、試練が訪れるなんて、考えたくない……)
ヴァージンが試練知らずになっている。それだけは間違いなかった。だが、この時に限って、試練というヴァージン自身にプレッシャーを与えるような言葉がマゼラウスの口から飛び出したことが、不可解だった。
(もしかしたら、私に適度なプレッシャーを与えているのかも……)
ヴァージンは、そう思うしかなかった。マゼラウスと長い付き合いになるが、マゼラウスが何度かプレッシャーになるような言葉を口にしたのは間違いなかったからだ。
ヴァージンは、両手の拳を軽く握りしめて、ソファから立ち上がった。
「手は届いている……。あと少しで、私は13分台を出すことができるんだから……!」
ヴァージンがそのように誓ったからか、翌日からのタイムトライアルでは14分02秒台、01秒台、そして00秒台まで、彼女は5000mのタイムを上げてきた。だが、トレーニングで00秒台を叩き出した日は、ヴァージンはかつてないほど息が上がっており、クールダウンで時折膝を抱えるほどだった。
(あと少しのところまでは行く……。そこからが、伸びていかない……)
ヴァージンは、膝を抱えながらトレーニングセンターのトラックを見つめた。陽の光に照らされるトラックから、時折細い光がヴァージンの目に入り、疲れ切ったその体をほんのわずかに癒した。
ヴァージンは、30秒ほど膝を抱えた後、何もなかったかのような表情で立ち上がり、マゼラウスのもとに向かった。マゼラウスは、その一連の動きを見つつ、あえてそのことについて何も言わないようだった。
(コーチは……、やっぱり私の壁を試練だと思っているのかな……)
ヴァージンも、そのことを口にできないままその日のトレーニングを終えた。
「メリアムさんが、出ない……」
リングフォレスト選手権の数日前、ヴァージンは代理人ガルディエールから電話でメリアムの名を告げられた。電話を持ったまま、ヴァージンはその場で立ち尽くした。
「世界競技会に照準を合わせたいと言っていた。でも、棄権するほどメリアムの状態が悪いとは思えませんよ」
「そうだったんですか……。他に、私が勝負できそうなレベルの選手が追加エントリーしたとかありますか」
「そんな話は聞いていないよ。だから、リングフォレストはお前の独走態勢になると思う」
ガルディエールはそこで息を溜めた。小さく息を吐きだす様子が、電話ではっきり聞こえる。
「だから、君が13分台と言うタイムを披露できる、最高の舞台になる。そのことだけは、もう間違いない。それに、オメガ国内ということもあり、テレビ中継もしっかりその時間、グローバルキャスで取ってるようだ。アメジスタへのテレビ中継の話がなかったことにならないように……、ここは出すしかないよ」
「グローバルキャス……。そう言えば、アメジスタでの中継を前向きに考えるとか言ってましたね」
ヴァージンは、軽く首を横に振り、プレッシャーとも受け取られかねないガルディエールの言葉を忘れようとした。だが、そのようなしぐさを見せたところで、ヴァージンの心の鼓動は少しずつ速くなっていった。
(落ち着こう……。プレッシャーは、少しぐらい必要になるはずだから……)
ヴァージンは、ガルディエールに短い言葉で「世界じゅうのテレビに13分台という数字を見せます」とだけ残し、半ば強引に電話を切った。だが、電話を切っても、ヴァージンはその場に立ち尽くそうとしていた。
(落ち着くしかない……。夢の記録は、あと少しのところまで来ているのだから……)
ヴァージンは、心の中でそう言い聞かせるしかなかった。