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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
世界最速の脚でさえ あと少し届かない
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第45話 新たなライバル メリナとカリナ(6)

 ヴァージンの背後でしっかりと歩みを進めるカリナを見た瞬間、ヴァージンは首をかすかに横に振った。5000m14分42秒88の自己ベストを持つカリナが、14分00秒36まで世界記録を伸ばしてきたヴァージンに懸命に食らいつくことなど、完全に想定外だった。それまでも、ヴァージンの独走態勢ではなかったことになる。

(カリナさんは……、徐々にペースを上げながら走ってくる……。特に、前にペースメーカーがいると……、本気で追いたくなるのかもしれない……)


――グランフィールドにだってついてく……!


 カリナがロッカールームで言い放った言葉が、ヴァージンの脳裏に思い浮かんでくる。その勢いのまま、追いつかれてしまう可能性だって考えなければならなかった。

(私は……、カリナさんに追いつかれるなんてあってはいけない……。世界記録を持つ身として……!)

 ヴァージンは、4000mのラインを駆け抜ける前に勝負を仕掛けた。ラップ65秒のペースまで上げると、次のコーナーで目だけを後ろにやる。すると、カリナも同じようにスピードを上げ、10mほどの差を保っている。

(それでも食らいついてくる……。でも、いつかはついてこれなくなる時が来る……)

 ヴァージンは、スパートさえ成功すればあと2段はギアを上げることができる。それが、ヴァージンにとって唯一の強みだった。いや、ヴァージンにしかできないことだとさえ思っていた。

(4400mより少し前で、ラップ62秒まで上げていく……。そこで、カリナさんを振り切り、壁と勝負する……)

 直線のうちから再びスピードを上げ、ヴァージンはカリナを振り切りにかかった。そのスピードに達した時、それまですぐ近くで感じていたカリナの息遣いの音が、徐々に遠くなっていった。

(カリナさんを振り切った……。あとは……、13分台との勝負……)

 4600m、最後の1周を告げる鐘が鳴り響く時、トラック横の記録計には、インテカ選手権と同じく13分02秒から03秒に変わろうという景色が刻まれていた。勿論、勝負するしかなかった。

(あと0秒36……。それさえ縮めれば……、夢の記録が形になる……!)

 ヴァージンは「Vモード」の燃えるようなパワーを両足に受けながら、懸命に走り続けた。もはや、ヴァージンの目に映るには、自らが乗り越えられるはずの壁しかなかった。

(出せる……!今の私には……、壁だって打ち破れるはず……!)

 ヴァージンの力強いストライドが、スタジアムを一気に駆け抜け、ゴールラインに挑んでいく。夢の記録――女子5000m初の13分台――と、世界女王との勝負は、その決着が付こうとしていた。


 14分00秒09 WR


(あと0コンマ……、09……。いけたと思ったのに……!)

 WRの文字に湧くスタジアムの空気に背を向けるかのように、ヴァージンは記録計の「14」という文字の前で疲れを一気に吐き出した。少なくとも、夢の記録を達成できなかった彼女に、その目で何度も見てきた「WR」の2文字で喜ぶことはできなかった。

 ほとんど直視することができなかった記録計から目を離すと、ヴァージンは下を向こうとした。だが、次の瞬間、ゴールを駆け抜けたライバルの姿がそれを忘れさせてくれたのだった。

「グランフィールド、優勝……と、新しい世界記録おめでとうございます……!」

「カリナさん……、ありがとうございます……。カリナさんのほうが、すごかったです……」

 それまでの自己ベストを30秒以上上回る、14分10秒78のタイムを出したカリナに、今度はヴァージンのほうから抱きしめた。カリナはヴァージンを優しく受け止め、ロッカールームでヴァージンが見せたように、その肩を優しく叩いた。ヴァージンの目に映る、ゴール後のカリナの表情も、また明るかった。

「私は……、グランフィールドをずっと追い続けただけ!なんか、追ってみたくなったの!そうしたら、最後まで食らいつくことができたので、本当に嬉しい……!グランフィールド、最高!」

「でも、それでタイムを伸ばせるのって……、本当にすごいです。カリナさんが本気で走ったら、どれくらいのタイムになるか……、楽しみな記録を出しましたね」

「楽しみって言われると、なんか照れるなぁー。ホント」

 そう言って、カリナはヴァージンから顔を離し、首を何度か縦に振る。やがて、ヴァージンを見上げるような姿勢になって、この日一番の声でヴァージンに告げた。


「私は、競い合える仲間がいるから頑張れるの!強い相手が誰もいないレースじゃ、走っててつまんないもん!」


(たしかに……、一人のレースは……、トレーニングだと割り切らないと、つまらないと感じてしまう……)

 ヴァージンは、若き18歳のカリナが言い放った言葉に、心の中でうなずかなければならなかった。一人きりでも世界記録に近いタイムを出せるヴァージンであっても、本番のほうが本気で走れることは間違いなかった。

(そして、今日の私を本気にさせてくれたのも、カリナさんのものすごい追い上げがあったからかもしれない)

 ゴールしたライバルの何人かに声を掛けてゆくカリナを、ヴァージンはやや目を細めて見た。その後、彼女の脳裏に、姉妹であるはずのメリナとカリナを並べてみせた。何もかもが180度違う存在のローズ姉妹だが、二人の言葉を並べれば、この姉妹がともに女子5000mの舞台を目指した理由が、すぐに分かるのだった。


――追いつけるものなら、追いついてみなさい!

――ずっとお姉ちゃんについてく!


(きっと、メリナとカリナは、お互いがお互いを刺激し合って、ここまで成長してきたのかも知れない……。そして、ともに、5000mの世界記録を持つ私を、二人揃って追いかけている……)

 ヴァージンは、その二つの言葉の背後に嫌な予感すら感じた。それは、実現して欲しくない予感ですらあった。


「あと0.09秒だけ……、速く走りたかったです……」

 レースの後、マゼラウスからは13分台を意識するような言葉は出なかったものの、高層マンションに戻ってガルディエールに電話を入れたとき、ヴァージンは素直にそう言ってしまった。

「まぁ、君が言いたいことも私にはよく分かる。早く、歴史にその名前を刻みたかったはずでしょうね……」

「本当に、そう思います……。00秒を1回出したら、次は絶対に59秒が出るって思うんです……」

「まぁ、今まで20秒以上5000mの世界記録を縮めてきた君からすれば、そう思うだろう……。ただ、焦るんじゃない。君の実力を考えれば、出ると思う……。ある程度の時間だけは、君に期待するよ」

 ヴァージンは、ガルディエールのその言葉に、かすかに息を止めた。聞き間違えただけかも知れないと信じたかった。しかし、姿の見えないガルディエールであっても、もう一度聞きなおすことはできなかった。

(私は……、もうそろそろ結果を出さないといけないのかもしれない……。ガルディエールさんの中では……)

 それほど強い口調で言っていないものの、この時のガルディエールの言葉が、セントリック・アカデミーに入りたての頃、事あるごとに言われていた「使えないアスリート」という言葉に重なってくる。

(今の私は……、世界中から応援されているのに……)

 その後、今後のスケジュールを告げられたヴァージンは、特にガルディエールに確認することなく電話を切った。そのまますぐにメールを開き、自らに吹いている風向きを確かめる。幸いにして、届いたメールは、この日も大半が世界記録の更新を喜ぶものばかりだった。稀に13分台のことについて触れていても、どれも「あと少しだから頑張って」というような、励ましの文面でしかなかった。

(スポーツエージェントは、やっぱり私が輝いてくれないと……、商売にならないのかな……)

 ヴァージンはフェアラン・スポーツエージェントに契約料を払っているが、かれこれ7年にもなる付き合いの果てに、特殊な費用を払っている実感すら薄れ始めていた。だが、珍しくガルディエールが強く言ったことで、ガルディエールがあくまでも「一人のアスリートを支える大きな存在」であることを、改めて思い知った。

(せっかく私に未来を感じてくれたガルディエールさんに……、13分台という最高のプレゼントをあげなければいけない……。いや、もう私は13分台を出せるのだから……、今すぐにでも大会で記録したい!)

 次のレースは、オメガ国内で5月に行われるリングフォレスト選手権。移動距離が少ないことを生かして、早くもそこで大記録を打ち立てようと、ヴァージンは意気込んだ。

(夢の13分台……。私は、この次のレースできっと出せる……!壁を打ち破ってみせる……!)


 だが、5000m世界最速の女子アスリート・ヴァージンに待っていたのは、その壁に何度挑んでも跳ね返される現実だった。

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