第45話 新たなライバル メリナとカリナ(5)
26歳になったヴァージンは、代理人ガルディエールに次のシーズンのレースを多めに入れてもらうよう頼んだ。言うまでもなく、13分台を叩き出すチャンスを多く取りたかったからだ。アウトドアシーズンに入ってから8月の世界競技会まで、月1か月2で本番になるが、過密日程にもヴァージンは決して動じなかった。
(ラップ68.2秒でのレースができれば……、13分台だって間違いないレベルまで達するはずなのに……)
2月のオメガセントラル室内競技場の室内5000mで、インドア初の14分10秒切りとなる14分08秒73にまで上り詰めたヴァージンにとって、夢の記録はそう多くない回数で必ず掴めるもののはずだった。
アウトドアシーズンの初戦となる、4月のセルティブ・ラガシャ選手権の会場に、集合の3時間前に入ったヴァージンは、時折取材のカメラに顔を向けながら、そのままロッカールームに入った。
ロッカールームに入ったヴァージンは、その最も奥に、普段見慣れない色の髪がなびいているのを見つけた。
(あの髪の色……、何と言うんだろう……。赤でもなく、ピンクでもないし……、そもそもそんな色の髪の女子を見たことがない……)
プロでのレースに挑んでもうすぐ10年になるヴァージンは、これまで様々な肌の色や髪の色の女子と一緒に走ってきた。だが、目の前に見えるその女性は、薄い赤の髪で、その色のヘアカラーがオメガでも売られていないようなものだった。その神秘的ともいえる色に、ヴァージンの足は吸い寄せられていく。
やがて、ロッカー1列分ほどの近さまで、彼女は近づいた。すると、トレーニングウェアに着替えていたその人物がヴァージンに振り向いた。それと同時に、ヴァージンを指差したのだった。
「あー、グランフィールドだーっ!すっごい実力のあるー!」
(えっ……、こんなライバル……、見たことない……。声もものすごく高いし……)
ヴァージンは困惑しながらも、近づいてきたその人物を受け止めた。髪の色のことを忘れるほど唐突な展開だったが、相手の体とヴァージンの目の間にできた、かすかな隙間からサーモンピンクの色をした髪が揺れるのが分かった。そして、何度か相手の肩を叩いた後、ヴァージンは尋ねた。
「ありがとうございます。すいませんが……、そちらも名前……、教えてください」
「私?カリナ・ローズって言うよ!5000mで……、みんなを追い越すために頑張ってる!」
(カリナ……。つまり、この元気そうな女子が……、これから私のライバルになるってこと……)
ヴァージンは、歯を見せながらしゃべるカリナに向かって笑顔を見せた。だが、次に言う言葉が出てこない。
(どうしてだろう……。姉妹なのに、メリナさんと全然雰囲気が違う……。身長も、話し方も、性格も……)
しばらくヴァージンが、ローズ姉妹のことを考えていると、逆にカリナのほうが話しかけてきた。
「そうそう、グランフィールド。お姉ちゃんと会った?」
「はい……。去年の10月に初めて一緒に走りました。なかなかのレベルだったと思います」
「やっぱり……、世界記録を持ってると、見る目が違うねー……」
そう言って、カリナは苦笑いを浮かべた。その表情のまま、カリナは右手を頭の上に挙げ、ちょうどメリナの身長ほどの高さで止めた。メリナとカリナでは、身長に15cmほど開きがあるようだ。
「今、お姉ちゃんとの勝負で諦めているのは、背丈と、2歳離れた年齢だけ!私は、今までも……、もちろんこれからだって……、ずっとお姉ちゃんについてくし……、グランフィールドにだってついてく……!」
そこまで言うと、カリナは何回かうなずいた。元気そうだが、どこか子供のような言葉の数々にカリナなりの本気をヴァージンは見出していた。手を振ってロッカールームを出るカリナを、ヴァージンはその目で追った。
(カリナさんも……、今はまだかも知れないけれど……、いつか私の本当のライバルになるかも知れない)
メリナと同様、カリナもこのレースが始まる前の走り方は未知数だった。特に、カリナはジュニアでのレースもほとんど経験しておらず、これまでの最高のタイムが14分42秒88と、メリナに比べれば遅いほうだった。
だが、初めて同じトラックに立ったヴァージンには、その元気さも手伝って、異様な光景のように見えた。
(ああ見えて、レース中は本気で勝負しそうな気がする……。ギャップが大きすぎる選手かも知れない)
待機場でヴァージンと隣り合わせになったカリナは、ヴァージンに振り向くことなく、ゆったりとジャンプをしたと思えば、足を大きく前に出してストレッチをし、最後に起き上がって腰を大きく回した。他の選手の邪魔になるというほどではないが、一連の動きが奇妙なダンスのようにも思えて仕方なかった。
(私は、カリナさんの動きで気が散らないようにしなければならない……。この先も……)
一連のカリナの体操が終わると、ヴァージンはすぐにカリナから目を反らし、目の前に広がるトラックに全てを集中させることにした。メリアムもメリナも出ていないこのレースで、ペースを作るのは自身だけのようだ。
(よし……。今度こそ13分台を叩き出せる……。私なら、きっと……)
やがて、スタート位置まで移動し、そこでようやくカリナと顔が合った。カリナは真っすぐにトラックを見つめ、先程までに見せていた元気そうな動きは鳴りを潜めていた。
「On Your Marks……」
スタートを告げるその声に、ヴァージンは小さくうなずいた。
(今日の私は、13分台という壁と戦えばいいだけのはず……。そう信じて、自分の全てを出し切る……)
号砲が鳴ると、ヴァージンは普段以上に体を前に傾け、ラップ68.2秒のペースを作り出した。厳密に68.2秒のラップで走れば失速しかねなくなるが、意識としてそのラップを守り続ければ、あの記録が一気に近づく。
ヴァージンの思った通り、最初の直線、さらに400mを過ぎても、ヴァージンの前に出てくるライバルはいなかった。それどころか、2周が過ぎたところで、どのライバルの足音も聞こえなくなった。
(私は、完全に独走態勢に入っている……。ラップ68.5秒より少し速いペースを意識して走ろう……)
ヴァージンにとっては、中距離走のような走り方をするライバルの存在は、かえって世界記録へと導くペースメーカーになることが多かった。だが、この日のレースのようにペースメーカーがいない状況でも、トレーニングを再現すれば、スタジアムの雰囲気と混ざり合って、練習より速いタイムが出ることもあった。
1000mのタイムが2分51秒。普段はもう1秒ほど遅いタイムになるヴァージンにとって順調な滑り出しだった。もはや夢の記録まで0秒36にせまっているヴァージンが、この時点で普段より1秒縮められることは、11分後への期待をも感じさせるのだった。
(このペースで走れば……、きっと私はうまくいく……)
しかし、その時、ヴァージンの耳にそれまで聞こえなかった足音が、かすかに聞こえてきた。さらに、スタジアムを包み込んでいきそうな独特な気配が、ヴァージンを包み始めていた。
(誰か……、ノーマークだったライバルが……、私を追っている……)
コーナーを曲がるとき、ヴァージンは目線だけをかすかに後ろにやった。その瞬間、ヴァージンの目に、束ねられたサーモンピンクの髪が飛び込んできた。カリナだった。
(カリナさんが……、私に懸命に食らいつこうとしている……)
カリナの自己ベストだけを考えれば、単純計算をすればラップ71秒近くで走ることになる。だが、ヴァージンの目に映ったカリナのストライドは大きく、ほんのわずか見ただけでもラップ70秒は切っているようだ。それどころか、完全にヴァージンのペースに合わせているとも言えなくもない走り方だった。
(でも……、カリナさんは私のペースを見て、無理をしているだけ……。きっとそう……)
ヴァージンは、直線に入ると目線を元に戻し、再びラップ68.5秒を上回るペースで前に進み始めた。それでも、背後から漂ってくる気配が消えないことは、周回を重ねるヴァージンにとって、小さな恐怖だった。
3000mを8分33秒ほどで通過すると、ヴァージンは「Vモード」を叩きつける感触を確かめていた。この時点で足の裏に疲れはなかった。
(これなら、私のスパートはうまくいくはず……!)
あと2周もすれば、いよいよヴァージンにとって13分台に向けたトップスピードを見せる時間に突入する。彼女の意識は、それまでのレースを忘れ、早くもゴールへと向いていた。やがて3800mを過ぎ、コーナーに突入すると同時に、ヴァージンは少しずつ加速を始めた。
だが、その瞬間に再びあの気配がヴァージンの背後に迫っているのを感じた。
振り向いた。カリナが10m後ろにまで迫っていた。
(どういうこと……!)