第45話 新たなライバル メリナとカリナ(4)
「メリナ・ローズをよく振り切ったとは言え、あと一歩だったな、ヴァージンよ」
スタジアムの出口で落ち合ったマゼラウスが、ヴァージンに開口一番で告げた。ヴァージンは、そこで小さくうなずくことしかできなかったが、ヴァージンが首を戻すよりも少しだけ早く、マゼラウスがうなった。
「コーチ、どうしたんですか……」
「いや、それにしても、お前の前には中距離走のような走り方をするライバルが次々と現れるな、と思ってな」
「中距離走のような走り方……。たしかに、メリナさんもそのように走っています」
「お前なら、すぐ分かったと思う。これで、ウォーレット、メリアム、それにメリナの3人。中距離走の走り方で序盤からレースを引っ張れば、記録を伸ばせると思っている人が、結構増えてきてしまった」
そう言って、マゼラウスは再び唸る。その唸り声に、ヴァージンは首を小刻みに横に振った。
「それでも、私はフォームを変えるつもりはありません。私は、それでも追いつけるんですから」
「そうだな。私は何度も中距離走のフォームを教えようとしたが、お前は常にそれを拒否した。その結果が、おそらくお前とウォーレットの辿ってきた道の違いなのかもしれない……」
ウォーレットは、中距離走的な走り方に変えた結果、世界記録と引き換えに膝に負担をかけることとなった。かたやヴァージンは、自らの走り方を貫いた結果、彼女の記録をも破ることができたのだった。
「たしかに、時代は5000mイコール中距離走、になりつつあるのかもしれない。男子と同じように。けれど、お前が長距離走の走り方で成功している以上、少なくとも私は、完全に中距離走になったとは言えないだろう」
「つまり、私のやり方でよかったということですね……」
「そういうことだ。ただ、お前も……、いつかは走り方で困るときが来るはずだ。その時は、トレーニング中だろうが、私に声を掛けて欲しい。……長い付き合いになるが、私のお前に対する想いは、変わっていない」
「ありがとうございます……」
ヴァージンはマゼラウスに小さくうなずき、それから数秒の間を置いて、しっかりとした声で告げた。
「私も、この機会だから……言おうと思います。この前言ってたことをチャレンジさせてください。アスリートとしての、私の本当の限界を知りたいんです」
「そうか……。なら、トレーニングセンターに戻った日に、早速ラップトレーニングに反映させるとするか」
そう言って、マゼラウスは軽く笑った。ラップトレーニングという普段から取り入れているメニューの中に、再びプラスアルファの要素が加わることを、ヴァージンはすぐに悟った。
いよいよ、そのトレーニングが行われるという日、トレーニングが始まってすぐにマゼラウスはヴァージンに声を掛けた。数日前に告げたときと、同じように笑っていた。
「お前の限界を、測定してみようじゃないか。ラップ68.5秒からどれだけ速くできるかを……」
「はい。つまり、ラップを意識的に速くするという感じなんですか」
「そういうことだ。ラップを切れなかったら、また前のようにそこで最初からやり直しとなる」
ヴァージンは、はっきりとうなずいた。オメガセントラルの室内練習場で何度も走ることを止められた、あの時の記憶が蘇ってくるが、今となっては怖く感じなくなっていた。
「まずは、2000mからいくか……。トラック5周を、5000mを走っているつもりで、ラップ68.2秒で走れ」
「はい」
ヴァージンは、通常の5000mではありえない、ゴールライン側に立ってマゼラウスの合図を待った。しばらくして、マゼラウスがストップウォッチを手に取り、腕を高く上げた。
「Go!」
ヴァージンの脚が、ラップ68.2秒に向けて加速を始める。ストライドを変えることなく、シューズをやや速いペースでトラックに叩きつける。体感的には、68秒を切るようなペースを意識しつつ、68.5秒にはならないほどのペースで進むことにした。
だが、1周目を終えようとしたとき、マゼラウスの強い声がヴァージンの耳に響いた。
「5……、4……、3……、2……」
マゼラウスはしっかりとストップウォッチを見ながら「.2」の部分まで数えているようだった。その声に、ヴァージンの足もやや焦らなくてはいけなかった。
(これは……、ラップ68.5秒になりかけてしまっている……。1周ごとにペースを一気に速めないといけない)
ヴァージンは、一瞬だけラップ67秒ほどのペースに上げた後、再び意識的にラップ68秒ほどのペースに戻した。だが、2周目を終える時もまた、コーチの声に焦らされてしまう。
そして、5周が終わり、ヴァージンは5分41秒という最終的な壁を何とか破ってゴールした。それでも彼女はゴール上で首を横に振った。すぐにマゼラウスが近づいてくるが、マゼラウスの表情も曇っていた。
「やっぱり、急に68.2秒まで持っていくのは厳しいかな……。68.5秒とか68秒とかは、心の中で数えることができても、.2はストップウォッチなしでは厳しいのかもしれない……」
「コーチの言う通りかも知れません……。コーチの声でペースを掴むことしかできませんでした」
「そう言われなくても、走り方がはっきりとそれを証明している。もちろん、あの走り方でいいわけがない」
そう言うと、マゼラウスは一呼吸置いてヴァージンに近寄った。
「とりあえず、今はシーズンオフで、もう少しすると室内練習場でのトレーニングを始めることになる。それまでの間は……、毎回一度は68.2秒のラップにチャレンジしてみよう。慣れてくると、走り方も変わるはずだ」
マゼラウスの提案に、ヴァージンは小さくうなずいた。
それから1ヵ月で、ラップ68.2秒を意識したトレーニングは計23回に上った。その中には、800mで止められたり、最後に5分41秒で走り切れず再び2000mを走ることになったりなど、回数以上に走りこんでいた。
いよいよ室内練習場でのトレーニングが始まる前日のこと、マゼラウスはヴァージンに告げた。
「20回以上、2000mを走り切ったんだから、もうそのラップでの走り方に慣れたはずだ。だからこそ、今日というこの日に、お前の本当の限界がどこなのかを知りたい。今までのは、その序章だ」
マゼラウスは、そう言いながらヴァージンを通常の5000mのスタート位置まで案内する。何度も立ってきた5000mのスタートラインで、マゼラウスはヴァージンに告げた。
「4000mまで、ラップ68.2秒以内で走り続けてみろ。そこから先の運びは、お前が得意としているはずだ」
「分かりました」
そう言って、ヴァージンはスタートライン上で手足を軽く回す。その先に見えるトレーニング用のトラックに、彼女の目に一瞬だけ希望が光った。
(もし、ラップ68.2秒で走り続けられたら……、10周でマイナス3秒。夢の記録も……、夢じゃなくなる!)
マゼラウスの手が上がり、ヴァージンはラップ68.2秒のペースで走り出した。そのラップを保った上での2000mから先の世界は、彼女にとって未知数でしかなかったが、何度も意識してきたペースがその脚を前に動かす。
(68.2秒……。今の私には、決して無理なペースなんかじゃないかもしれない……!)
マゼラウスに止められることなく、あっという間に2000mが過ぎ去り、次の2000mが始まっていく。ペースを上げ下げすることなく、心の中で68.2秒という時間を刻みながら、ヴァージンは周回を重ねた。
(あと1周走って……、私は得意のスパートに賭ける……!)
3600mを過ぎたあたりから、ヴァージンは残り1000mでのスパートを意識して、体を前に出した。意識的にペースを上げながら、4000mへのラインへと続くコーナーを回り、直線に入ったあたりから加速を始めた。
だが、その時、右足の裏が少しだけ重くなるのを感じた。「Vモード」の靴底からパワーを受け取るが、それでも足裏の疲れを取り除くことができない。ペースを上げる力が湧いてこないのだった。
(スパートさえうまくいけば……、13分台で走れるのに……!)
4000mの通過タイムが、体感で11分21秒。普段のスパートが決まれば、楽勝で13分台をクリアできるはずだが、彼女の脚が徐々に悲鳴を上げ始めていた。ラップ66秒あたりまでスピードを上げたが、右足がさらに重くなってくる。ついに、それ以上ペースを上げることができなくなってしまった。
結果、ヴァージンのタイムは14分07秒89。想定外に遅いタイムに、彼女は小さくうなずくしかなかった。その表情を見て、マゼラウスがそっとヴァージンに告げる。
「長距離走を意識するお前でも、ラップ68.2秒は限界なのかもしれない……。長距離走のような、ゆったりとした走り方で、ラップをより速くするのは……、私だっていつか限界が来ると思っていた」
首を横に振るマゼラウスを、ヴァージンはじっと見続けるしかなかった。
「私は、やっぱりフォームを変えないといけないんですか……」
「いや、そうではない。数年もすれば、68.2秒でもスパートが決まると思う。あくまでも、私が知りたかったのは、68.5秒から上に今のお前の限界があるということだ。それがどこだかは、お前自身の経験で学ぶことだ」
そう言うと、マゼラウスは唸った。その唸り声は、インテカ選手権の後に見せた唸り方よりも深いものだった。