第45話 新たなライバル メリナとカリナ(3)
号砲が鳴り、メリアム、そしてその走りを知らぬ新しいライバル、メリナらとの勝負が始まった。最も内側からポジションを確保しようと、ラップ68.5秒より少しだけ速いペースで前に出ようとするが、最初のコーナーを出たところで今度もまた右からメリアムの体が割って入ってくる。だが、その見慣れた光景は、直線からコーナーに入ろうというときに、瞬く間にワインレッドの風に飲み込まれていった。
(メリナさんが、大股でメリアムさんの前に出ようとしている……!)
コーナーで外から抜くというだけでも難しいシチュエーションであるにも関わらず、メリナはそれをやろうとしている。それも、一度も戦ったはずのない相手に対し、容赦なく勝負を仕掛けたのだ。
(メリナさんも……、やっぱり先行逃げ切り型……。それに、足の踏み出すペースが完全に中距離走……)
メリナのフォームは、ちょうどウォーレットが怪我する前に見せていたフォームであるかのように見えた。しかも、それを作戦としてやっているのではなく、普段からたたき込まれている走り方であるかのように、自信を持って足を前に踏み出していた。
(メリナさんは、思った以上に強敵かも知れない……)
だが、これまでほとんど顔ぶれが変わることのなかった女子5000mで、実力のあるライバルが現れることは、ヴァージンにとって逆に喜ばしいことでもあった。足下から、不思議と力が湧いてくる。
(逆に、メリナさんを抜けば……、あの記録にも届くかも知れない……)
これまでのレースよりもやや早いペースで、ヴァージンと先頭との差が広まっていく。だが、ヴァージンはラップ68.5秒よりも少し速いペースを保ったまま、3000mあたりから徐々にその差を詰めていくこととした。
メリナのペースは、ヴァージンの目からはラップ67.5秒に迫ろうかという走り方のように見える。少なくとも、ラップ68秒を超えるペースであることは間違いなさそうだ。メリアムも何度かメリナの前に出ようとするが、直線の中で追い抜くことができず、コーナーで再びポジションを取られてしまう。
(メリアムさん、もしかしたら怯えているのかも知れない……)
なかなか前に出られないメリアムの足が、徐々にもがき始めていることに、ヴァージンは気付いた。メリアムもヴァージンと同じ「Vモード」を履いているが、足に宿るパワーがどこかに消えてしまっているようだ。それは、単純にやや速めのペースを維持していることだけではなく、少し見上げなければ表情も確認できないほどの、一つ飛び抜けた頭も原因であるように思えた。
(でも……、私はまだ戦える……。本気のスパートを見せれば、まだ追い抜けるだけの差だと思う)
2800mを過ぎたあたりで、ヴァージンと先頭のメリナとの差は40m近くある。徐々にその差は広まっており、しかもメリナのペースはいっこうに落ちない。
(勝負を仕掛けるとしたら、3000mちょうどで行かないと、メリナさんにかわされるかも知れない……!)
その瞬間に、ヴァージンの右足がやや強くトラックを叩きつけた。前を行く二人と、そしてその先にある13分台の壁を捕えるための力が、その脚に湧き上がる。ヴァージンと「Vモード」の、勝利への加速が始まった。
(まずは、メリアムさんを早い段階で追い抜いてみせる……)
3000mのラインを過ぎた瞬間には、ヴァージンのペースはメリナと同じラップ67.5秒まで高まっていた。遠くに見えていたメリアムの後ろ姿が、わずか1周で大きくなる。メリアムが勢いを盛り返さなければ、4000mまでには追い抜くことができるはずだ。
だが、ヴァージンに迫り始められたメリアムは、後ろを振り向いてもそのペースが上がることはなかった。これまで懸命にメリナを追い続けたことで、その走りは重くなっていた。ヴァージンが見るからに、ペースが少しずつ落ちているように思えた。
(中距離から長距離に転身したはずなのに……、ハイペースのレースでメリアムさんがスピードを狂わされている……。メリナさんは……、それほどまでにすごい走り方をしているのかも知れない)
メリナのランニングフォームは、カーブに出るか、メリアムを抜くかしなければヴァージンには分からない。そのことを悟ったヴァージンは、3800mを待つことなく右からメリアムを追い抜いていった。それと同時に、背の高いメリナの後ろ姿が見えたが、それでもまだ30m以上の差はあった。
(これが……、メリナさんの走り方……。やっぱりストライドが大きくなっている……)
最初にメリアムを抜いたときに見た、大きなストライドが、3800mを過ぎてもまだその体を前に動かしていた。次の足を踏み出すまでの間隔はヴァージンと同じだが、ストライドが大きい分、より前に体を進めることができる。それは、身長が高いことで生じる、メリナなりのアドバンテージと言ってよいほどだ。
(でも、ラップは……、そこまで速くない……。だから、私がここから追い抜くことは、決して難しくない!)
4000mを駆け抜ける前に、ヴァージンはトラックを踏む足に力を入れた。シューズの裏に彩られた赤い炎が、それを操る彼女のボルテージを上げていく。
(メリナさんを追い抜けば、そこには間違いなく13分台が見えてくるはず……)
ヴァージンは目を細めて、挑むべき相手の頭を見た。だが、その瞬間、メリナが首をヴァージンに向けた。その唇からは、声には出さないものの、かすかな動きでこう言ったようにヴァージンには見えた。
――追いつけるものなら、追いついてみなさい!
(背の高い分だけ……、明らかに有利だとメリナさんは思っている……。でも、それだけがトラック競技の勝ち負けを決めるわけじゃない……)
ヴァージンは、唇の動きを見た瞬間だけ体を前に出すことができなかったが、すぐに体を奮い立たせた。そう勝負を仕掛けられた以上、世界記録を持つ者として引き下がるわけにはいかなかった。
(私は、まだスピードを上げられる……。それに、トラックで勝負した回数は……、私のほうがずっと上……!)
ヴァージンの体は、軽くなっていた。体が感じるまでもなく、ヴァージンのスピードは一気に上がり、メリナの背中が一気に大きくなった。メリナも再びヴァージンに振り向くが、今度は首を横に振るだけで、何も言わずに懸命にその足を前に出すだけだった。
4400mを過ぎたあたりで、ヴァージンはコーナーの外から素早くメリナに並び、コーナーを出るところで背中に追いやった。ヴァージンが再びトラックの最も内側に戻るとさらにペースを上げ、メリナをあっさり突き放す。
そして、最後の1周に入ろうというとき、ヴァージンは記録計に刻まれるタイムを見た。
(13分02秒から03秒になろうとしている!もう、行くしかない……)
ヴァージンにとって、最後の勝負は勿論「GO」だった。トップスピードまで高めたヴァージンに、残り57秒で駆け抜けることは、決して難しいことではなかった。できるだけ体を前に出し、後ろを気にすることなく、ヴァージンは力強くゴールへと挑んでいった。
駆け抜けた。その直後、その目を記録計に向けて、タイムを見た。
14分00秒36 WR
(あと、0秒36……!)
「WR」の文字に歓声が上がるものの、ヴァージンの目はじっと自らの「達成できなかった記録」を見続けていた。悔しい表情は見せなかったものの、一度だけ首を横に振り、ライバルのゴールを待った。
すると、ヴァージンがゴールラインに戻りかけようと振り向いた途端、目の前にメリナがやってきた。メリナは、2位で喜んだ表情も見せなければ、またヴァージンに対して悔しい表情を見せることもなく、ただじっとヴァージンの目を見るだけだった。
「あなたは……、本当に世界女王ね……。その力、十分見させてもらったわ」
「ありがとうございます。メリナさんも……、ものすごいスピードでレースを引っ張っていたと思います」
ヴァージンは、メリナに向けて笑おうとしたが、背の高いメリナに対して表情を変えることはできなかった。
「私は、もともと新しい時代の走り方を真似しただけよ。あなたのような、最後にスパートを掛けるやり方では勝てないって思ったのよ」
「そうだったんですか……」
小さな声でヴァージンがそう返すと、すぐにメリナの口が開いた。
「ヴァージン・グランフィールド。私も、ここでもがいているわけにはいかないの。すぐ後には妹が迫っている」
「それは……、カリナさんのことですか」
「分かっているようね。私たちは、大会に出やすくするために、わざと違う国籍にしたけど、カリナはメドゥの引退でオメガの枠が一つ空いたと言って、すぐにプロ登録したわ」
そう言うと、メリナは鼻で笑い、すぐにヴァージンを見下ろすような視線に戻した。
「私もカリナも、あなたにだけは絶対に負けないわ。あなたの時代を、終わらせるために」
「分かりました。また勝負できる日が、楽しみです」
ヴァージンは、手を差し出すことなく、メリナを見送った。メリナの後ろ姿に、早くも闘志が湧いているように見えた。