第45話 新たなライバル メリナとカリナ(1)
「世界競技会見たけど、やっぱり君には13分台は厳しかったかな……」
ヴァージンがオメガの高層マンションに戻ったと同時に、代理人ガルディエールから電話がかかってきた。バッグを玄関に置いて、ヴァージンは急いで電話を取ると、代理人の残念そうな声が耳に響いた。
「はい……。自分が集中できなかったのが、悔しいです」
「まぁ、そう思うでしょう……。メドゥが倒れる前に、彼女を抜いていたら、変わっていたかも知れません」
「それは言えます。世界競技会で優勝もしたかったですし……、追い抜くことは最低限の仕事だったはずです」
ヴァージンは、そう言いながらも、脳裏に最後の一周の走りを思い浮かべていた。メドゥが倒れた瞬間を、未だに忘れることができなかった。
「とりあえず、君は世界競技会やオリンピックの5000mで、デビュー以来一度も勝てていない。だから、次こそはラストチャンスのつもりで、取り組んでみようじゃないか」
「はい。私は、挑戦をやめるつもりなんて、120%ありません。今シーズンもまだ終わっていませんし、早く13分台を叩き出して、周りにプレッシャーを与えたいと思っています」
「そうこうなくちゃ!それで、今日は君にすごいニュースがあるんだけど」
一呼吸置いた後、ガルディエールはやや低い声になる。ヴァージンは耳をわずかにスピーカーに近づけた。
「姉妹そろってジュニアで好成績を残している、ローズ姉妹が、立て続けにプロデビューするようだ」
「姉妹そろって陸上選手……。なかなかいませんよね。二人とも、長距離種目ですか」
「君に言うってことは、分かるよね」
ヴァージンは、ガルディエールの声の調子からすぐに察した。少しずつライバルが離脱していった長距離種目で、新たなライバルが生まれることは、迎え撃つことになるヴァージンにとって楽しみでしかなかった。
「分かりました。負けないように頑張ります」
「5000mの世界女王、君の健闘を祈るよ」
ガルディエールは、そう言って電話を切った。ヴァージンは電話を強く握ったまま、その場で立ち尽くした。
(ライバルが増えたところで、私はもう負けてなんかいられない……。世界最高峰の戦いで勝てて……、初めて本当の女王になれる!)
ヴァージンはそう誓って、部屋の奥に積まれた書物の中から陸上選手名鑑を取りだした。そして、ジュニア大会優勝者の名前からガルディエールの言っていた「ローズ姉妹」を探す。
(これと……、これ……、かな……。国籍が違うけど、姉妹なのかも知れない)
ヴァージンが見つけた名前は、姉のメリナ・ローズ、そして妹のカリナ・ローズ。ともにジュニア大会の女子5000mで好成績を残しているだけでなく、メリナに至ってはジュニア新記録さえ叩き出している。メリナの14分13秒38という自己ベストを見る限り、少なくとも彼女に関してはヴァージンの有力なライバルになりそうだ。
(メリナさんがデビューしたら、私はもっと本気の勝負ができるかも知れない……!)
その翌日、ヴァージンはエクスパフォーマのトレーニングセンターに普段より30分早くやって来た。この日のヴァージンはレースのショックを感じさせないかのように、パフォーマンスが普段より軽く感じられた。
だが、その日のトレーニングはヴァージンが思うほど一筋縄ではいかなかった。400mのインターバルトレーニングを10本繰り返している間に、マゼラウスが突然姿を消したのだった。その間、エクスパフォーマのスタッフがトラックに立ち合図をしていたので大きな影響はなかったものの、本数を重ねるうちにヴァージンはマゼラウスを気にかけるようになった。
そして、10本目が終わったとき、ロッカールームからやや早足でマゼラウスが出てきた。その身はエクスパフォーマロゴの入ったレーシングウェアに包まれ、今にも本番のレースに出そうな姿を見せていた。
「コーチ、急にこんな姿に着替えてどうしたんですか……?」
すると、マゼラウスはかすかに笑いながら、右の人差し指でウェアを差した。
「あの辛そうな会見をテレビで見てしまったら、私も諦めきれなくなってな……」
「もしかして、メドゥさんのことですか……?」
ヴァージンは、すぐにマゼラウスの言葉の意味をくみ取った。その目の前で、マゼラウスは小さくうなずいた。
「そういうことだ。体のどこかに未練を残したまま、彼女はトラックを去ったからな」
「私もそう思います……。メドゥさんは、まだ走りたかったって……、思えてくるんです」
「そう。だからこそ、それが私自身の未練を見ているようで……、彼女から少しだけ勇気をもらったんだ」
そう言うと、マゼラウスは、同じくエクスパフォーマのシューズのつま先を何度かトラックにつけて、それから右足を何度か回した。それが終わると、少しだけ目を細めてヴァージンに告げた。
「今日は、5000mの女王と言われるお前と、もう一度レースをしてみたい。勿論、私は手加減なんかしない。13分台で、5000mを走りきるだけの力は十分あると思っている」
「コーチ……。その勝負、私、引き受けます!」
マゼラウスの口から飛び出したその言葉に、ヴァージンは迷いなく首を縦に振った。既に25年前に現役を退いているマゼラウスにヴァージンが勝ったことはなく、常に力の差を見せつけられていた。だが、女子で初めて13分台に手を掛けようというヴァージンにとって、最初に勝負したほどのハンデはなかった。
(今の私なら、コーチにだって勝てる。私は、そこまで成長したんだから……)
ヴァージンは、この日だけは敵となるマゼラウスを、やや細い目で見つめた。同時に、マゼラウスがかすかにうなずいて、9年もの間育ててきた教え子を見つめていた。
「On Your Marks……」
マゼラウスの声で、勝負前の緊張の瞬間が流れる。内側にマゼラウス、外側にヴァージンが立ち、400mトラックを二対の目が見つめた。ほんのわずかの間があり、マゼラウスがスタートの合図を口にした。
(今度こそ……、私は勝てる……!勝ちたい……!)
ラップ68.5秒ペースで飛び出したヴァージンを、マゼラウスの足がほぼ同じストライドで寄せ付けない。さらに最初のカーブを過ぎたとき、マゼラウスのペースがわずかに上がり、ヴァージンより数歩だけ前に出た。ペースとしてはほとんど変わらないが、マゼラウスのスピードは、ヴァージンの目から見てラップ68.5秒よりわずかに速いペースに見えた。
(ラップ68秒……。メリアムさんやウォーレットさんのように、そこまで速く走っているように見えないのに、先行して出ていくライバルと同じペースになっている……)
ヴァージンは、13分台で走ると告げたマゼラウスを追うかどうか、2周目で早くも作戦を練り始めた。そこまで離されるようなラップでもなく、ヴァージンがスパートさえまともに解き放つことができれば、間違いなく勝利は見えてくる。だが、もとは10000mを専門としているだけあって、走り方がゆったりしていることだけは不気味でならなかった。
(コーチがどう出てくるか、しばらく様子を見る。私は、私なりに13分台を目指す……!)
ヴァージンがそう心に誓ったとき、マゼラウスのスピードが再び上がった。今度はラップ67.5秒を目指すようなストライドだ。序盤から小刻みにペースを変えるライバルは、これまで何度もレースを経験しているヴァージンもそうそう見たことのない光景だった。むしろ、相手に振り回されてペースが乱れ、下位に沈むことになった、デビューしたてのヴァージンに似たレース展開に思えた。
4周目、5周目と、その後もマゼラウスはよく見ないと分からないほどにペースを上げていき、最初はヴァージンのストライドと全く同じだったマゼラウスが、7周目に入ったときにはラップ67秒を少し切るほどのペースにまで上がっていた。ここにきて、ついにヴァージンの足がトラックを強く蹴った。
(もう勝負をしなければいけないのかもしれない……!)
3000mの通過が、体感では8分34秒。その時、マゼラウスとは80mほどの差がついていた。強く蹴り上げた「Vモード」に、ライバルに追いつくためのパワーが宿る。
(ここでラップ67秒くらいまで上げられれば、間違いなく13分台が出る……!)
ヴァージンの足が、一気にそのスピードを上げ、前を行くマゼラウスとほぼ同じスピードに並んだ。4000mから始まるスパートも、全く疲れを知らない足を考えれば、まず間違いなく出せるはずだ。
4000mのラインを駆け抜けたとき、ヴァージンは普段通りにペースを上げた。だが、その80m前でも、マゼラウスがだめ押しのようにスパートをかけた。
(ラップ65秒までペースを上げたのに、コーチの背中が全然近くならない……!)
勝負を賭けたスパートで、マゼラウスを捕えることができない。4400mでさらにギアを上げたときから徐々にマゼラウスの背中が迫ってきたが、その姿が大きくなったときにはヴァージンも最後の直線に入っていた。
ヴァージンは、両腕を挙げてゴールに飛び込むマゼラウスを、今回も後ろから見ることしかできなかった。