第44話 力尽きたメドゥ(6)
(最後の1周、トラックを走っているような気がしなかった……)
ゴールまでそのことを全く意識せず走り続けたメリアムに、ヴァージンは食らいつくことすらできなかった。ゴールラインを駆け抜けると、自らのタイムを確かめることもせず、メドゥが力尽きたコーナーへと向かうしかなかった。メリアムも、ゴールした足でそのまま同じ場所に向かっていた。
スタッフに囲まれ担架に載せられたメドゥの顔を、ヴァージンはほとんど見ることができなかった。分け入って入ることもできず、ただスタッフたちの動きを遠目で見つめるしかなかった。
(メドゥさん……。あんな走りしたから……、膝を痛めてしまったのかも知れない……)
残り1000mで、メドゥはヴァージンとほぼ同じペースまでスピードを上げていき、懸命にメリアムを追っていた。かつて女子5000mの世界記録を掴み、ヴァージンがその記録を破るまで間違いなく「女王」であったメドゥは、その最後の意地を見せ、トラックに散ってしまった。
「……っ、……っ!」
ヴァージンは、クールダウンをすることも忘れ、荒い呼吸のままメドゥの体を目で追った。彼女の怪我の程度すら見ることができないまま、担架が担ぎ出され、メドゥの体は戦いの舞台を後にした。
ヴァージンの結果は、14分16秒88。2位。
今回もまた世界競技会で金メダルを取れなかったことを、彼女は現実を前に感じることすらできなかった。
報道陣からのインタビューで何を答えたかも記憶にないまま、ヴァージンはロッカールームに向かい、時折メドゥの表情を思い出しながら着替えた。メドゥの顔が思い浮かぶたびに、この日動きを止めたときの彼女の表情が覆いかぶさってくるようだ。しかもそれは、いつの時代のメドゥの顔を思い浮かべても、同じだった。
(初めて「ワールド・ウィメンズ・アスリート」のグラビアで見たときのメドゥさんは、すごくたくましくて……、初めて同じトラックに立った時のメドゥさんは、雑誌で見るよりもずっと強そうに見えた……。あの日から、私の走りをずっと見てくれて……、時には支えてくれて……)
メドゥの顔を何度目かに思い浮かべたとき、ヴァージンは首を横に振った。全てのことを思い出したい気持ちを振り切ろうとした。それでも、思い出そうとする気持ちと、彼女の引退が間近に迫っていることを隠すことはできなかった。
(私は……、メドゥさんがいなかったら、アスリートを目指してなかったかも知れないのに……)
ヴァージンはバッグを肩に掛け、出口へと向かった。だが、選手以外立入ができないエリアから外に出ようとしたとき、通路の奥にある医務室のドアが開き、右手で杖をついたメドゥがゆっくりと出てきた。
「メドゥさん……!大丈夫ですか……!」
ヴァージンの声に、メドゥは杖を軽く振りながら反応した。それでも彼女の表情は険しく、辛そうな表情を浮かべている。トラックの上で抑えつけていた右膝には氷が巻かれているが、それでも足を辛そうに動かしていた。
「辛そうじゃないですか……。膝の氷が、痛々しく見えます」
「痛いというか……、もう壊したってと言う感じ……。痛くてたまらない。でも……、その前に私の心が折れた」
「折れた……、って……」
ヴァージンは、近づいてくるメドゥを出迎えることもできず、そのたった3文字の言葉に立ち尽くした。その前でメドゥが何度か、首を横に振る。
「私が、メリアムに食らいついたとき、体が思った。もうダメって。それで私はもう、再び『女王』にはなれないんだって思ったら……、膝がその声に反応してしまったわ……」
「ダメじゃないです……。メドゥさん、予選の時もそうでしたけど……、強そうに走っていました……」
(もがいていたけど……、それがメドゥさんの意思だと思っていました……)
言いたい言葉を半分心の中で言うことしか、ヴァージンにはできなかった。何を言おうとしても、彼女の口からメドゥの辛さに答えてあげることができなかった。
そして、メドゥはヴァージンの前までやってきて、ほんのわずか杖の動きを止めた。そして、告げた。
「ヴァージン。私、明日会見を開くことにする。今日まで、ヴァージンと一緒に走れて……、楽しかった……」
「メドゥさん、辞めちゃうんですか……。諦めちゃうんですか……」
ヴァージンの声に、メドゥは目線を少しだけ反らした。そして、杖を再び前に出した。
「辞めないでください……!いつかまた、メドゥさんと走りたいです……!」
一歩、また一歩と離れていくメドゥを、ヴァージンは歩きながら追いかけた。だが、メドゥに追いつこうとしても、そのスピードを上げることはできなかった。その背中が、あまりにも小さく見えた。
スタジアムの外周まで出て、ヴァージンは最後に叫び、そこで足を止めた。
「メドゥさんは……、いつまでも憧れの存在でした……!出会ったときから……、今の今まで……、メドゥさんは私にとって……、偉大なアスリートでした……!」
泣き叫ぶように言った後、ヴァージンはその場で首を垂れた。もはや、メドゥの後ろ姿を見ることもできなかった。肩を落とし、涙を拭おうとしたとき、ヴァージンは一人の人間の気配を感じた。
「メドゥは、言葉に出さないだけで、本当はもの凄く辛い想いをしてるはずだ」
「コーチ……」
涙で覆い隠された目を開くと、そこにはマゼラウスが立っていた。決してヴァージンの行動を咎めるような様子ではない。だが、その目は決してヴァージンを褒めているわけでもなさそうだった。
「一度折れてしまった気持ちは、どれだけ肉体的に強いアスリートでも変えることはできない。彼女が何を言ったかは分からないが、あの後ろ姿を見ている限り、ニューシティでの私に重なるところがある」
「つまり、引退を決める瞬間ってことですか……」
「そうだな。あの心が折れたカーブで、メドゥの体は、たしかに止まってしまった……」
「そうですか……」
ヴァージンはそう言って涙を拭った。すると、マゼラウスの手がヴァージンの肩を軽く叩く。
「長いこと目指していた存在だからな。応援したい気持ちは、私にだって分かるよ。それだけは忘れるな」
翌日、メドゥはサイアール共和国のホテルで、会見に臨んだ。テレビに映る彼女の表情は険しく、入場の際にもまだ氷を膝に巻き付けていた。そして、深く頭を下げると、マイクに向かってこう言い残した。
お集まりいただき、ありがとうございます。今日は、私、クリスティナ・メドゥからお伝えしたいことがあります。それは、陸上競技の世界から、今日限りで引退をするということです。
私は、この数年悩み続けていました。30歳を超え、少しずつパフォーマンスが落ちていく中で、それでも自己ベストを出したくて……、少しでも仲間を追い抜きたくて……、私は正直、もがき苦しんでいたと思います。それでも、昨日のレースまで続けてこれたのは、私の後に育った、素晴らしい実力のある選手たちがいたからです。
昨日のレースで、私が途中棄権したことは、世界中に映像が流れているかと思います。あと一人追い抜いて、そのままゴールまで走れれば、私は世界競技会2連覇になるところでした。でも、メリアム選手に食らいついたとき、私は体の声を聞いてしまいました。「もうダメ」って……。
一瞬、そんなことはないって言い聞かせました。けれど、一度でもその言葉を受けた体には逆らえません。膝が突然破裂したように痛み出し、そこで私の競技生活は終わったんだ、って思ったのです……。
たった一夜で、多くの方から励ましのメールをもらいました。スタジアムで、温かい声も掛けられました。それでももう、「ありがとう」って言うだけで、体は復帰に向けて動こうとしませんでした。次にレースに出ても、前と同じ気持ちで走れないって……、思いたくないのに思ってしまうのです。それはとても、陸上選手を名乗るには恥ずかしい気持ちです。
私は、今日で陸上選手を引退します。長いことプレッシャーになっていた「女王」の肩書からも、やっと解き放たれます。私の後に、女子5000mの未来を切り開くと信じているのは、ヴァージン・グランフィールド選手……、彼女しかいないと思っています。最初に、私を憧れの存在って言ってくれた時から、必ずヴァージンに抜かれると思っていましたが……、ご存知の通り、彼女は18歳で私の世界記録を破り、それから何度も5000mの世界記録を塗り替えています。彼女は、そんな素晴らしい……「女王」なのです。
最後になりましたが、今日まで支えてくれたコーチやスタッフ、応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。もうプロとして走ることはありませんが……、私の走りを、築いた道を……これからも忘れないでください。
(メドゥさん……。今までありがとう……)
会見をテレビ越しで見ていたヴァージンは、ところどころで涙を拭った。ヴァージンの名前が告げられた時、思わず泣き崩れそうになった。そして、彼女が今までその目で見続けた、いくつものクリスティナ・メドゥが会見に臨む彼女に重なった。
(私をこの世界に動かしてくれた、偉大な「女王」のこと……、私は絶対に忘れません……)
女子5000mの未来を切り開くと言い聞かされたヴァージンは、大きくうなずき、そして再び涙をこぼした。