第44話 力尽きたメドゥ(5)
――さぁ、「絶対女王」ヴァージン・グランフィールドは、今度こそ5000mで優勝できるのか!そして夢の13分台を叩き出せるのか!今夜7時30分、世界中が注目する女子5000m決勝が始まります。
世界競技会を中継する、サイアール共和国の国営テレビが街のあちこちで鳴り響く中、勝負の始まる6時間も前であるにもかかわらず、当のヴァージンは決勝の舞台に急いでいた。時折映るヴァージンの顔と、この大会で最大のライバルになるはずのメリアムの顔に、ヴァージンは徐々に目を細めていく。
(私は、このレースのためにトレーニングを積んできた。初めての優勝、次の世界記録、そして13分台……)
トレーニングでは、自らの世界記録14分01秒98を上回ったことはなかった。だが、目標まで残り2秒足らずであることが、ヴァージンにとって常に追い風になっていた。
(たった2秒、今までの私よりも前に出るだけで、女子で初めて13分台を叩き出すことができる……)
トラックの上でどのように走れば、その目標にたどり着けるのか。ヴァージンは、頭の中でラップタイムを思い浮かべていた。それを思い浮かべていると、体と足が前に出てくるのは、彼女にとって宿命だった。
だが、スタジアムの入口から軽く走ろうとしたとき、ヴァージンの背後から声が響いた。
「グランフィールド、やっと会えたようね」
ヴァージンが振り向くと、そこに立っていたのは紫の髪をなびかせるメリアムだった。
「メリアムさん……。一昨日は全く話せなかったから、こうやってスタジアムで会うの、久しぶりです」
「こちらこそ、久しぶりね。もちろん、グランフィールドが目指しているのは、世界記録よね」
「勿論です。できれば、13分台を叩き出して……、女子5000mを新しい時代へと動かしていきたいです」
ヴァージンが力強くそう言うと、メリアムは一度うなずき、それから軽く笑った。そして、ヴァージンの目の前に立ち、右の人差し指で空を切るように、大きく「13」という文字を書いた。
「13ね……。今のグランフィールドは、もうそれしか目標にないようね……」
「そう言うってことは、メリアムさんも、13分台を目指しているわけですね……」
ヴァージンは、そっとメリアムに尋ねた。すると、メリアムの表情がすぐに緩んだ。
「目指している……?もう、私にその言葉は似合わない。目指しているどころか、もう出したから」
「出したんですか……」
ヴァージンは、メリアムに見せていた表情を一気に曇らせた。世界記録を奪われた話こそ聞いたことはないが、ヴァージンにとってはそれに匹敵するくらいの重い言葉だった。
「非公式だけど、出した。それも、たった1週間前、あのトレーニングセンターで……。ニュースに出るといろいろ私が注目されてしまいそうだから言わなかったけど、グランフィールドにだけは言ってあげるわ」
「メリアムさん。トレーニングで出したそのタイムは、13分……」
「13分59秒76。あの時、トレーニングセンターにはスポンサー契約を結ぶ選手が一人もいなかったから、こういう時こそ勝負をかけようと思ったら、夢の記録が出てしまったの」
「そうだったんですね……。でも、今日は私の番です。公式には、まだ私が世界記録を持ってます」
そう言って、ヴァージンはメリアムにゆっくりと右手を近づけ、軽く握手した。だが、それが終わるとすぐに顔を背け、スタジアムの周りを一周してから選手受付に向かうことにした。
(メリアムさんに……、13分台を出されてしまうわけにいかない……)
ヴァージンの脳裏に、自らの世界記録を目の前で5秒も縮められてしまった、グロービスシティでのオリンピックがかすかによぎった。ウォーレットの圧倒的なスピードを前に、節目の14分05秒をあっさりと切られてしまい、それに追いつくだけでもヴァージンには1年以上の歳月を要した。もし、この世界競技会の舞台でメリアムがそれ以上の大きな壁を打ち破るのであれば、その屈辱もさらに大きくなる。
そう心に言い聞かせたヴァージンだったが、その最後にこうひっくり返した。
(でも、13分台の壁を破るのは私しかいない。メリアムさんにだって、できるわけない……!)
世界記録を破ることの重みを、メリアムよりもはるかに思い知るヴァージンは、そう笑ってみせた。
そして、勝負の時はやってきた。ヴァージンの一つ外側にメリアムが並び、予選でヴァージンに打ち勝ったメドゥが一つ内側に並んでいる。メリアムもメドゥも、決してお互いの顔を見る様子はなく、ただこれから駆け抜けていくトラックをじっと見つめるだけだった。
その二人に挟まれるように、女子5000mのスーパースターが勝負の瞬間を待つ。
(真の女王は私のはず。この二人の、誰のものでもない……)
「On Your Marks……」
響くスターターの声。高く上がる号砲。夢の記録を待つ世界中の人々。その中で、勝負がいま、始まる。
(よし……!)
号砲と同時に、ヴァージンはラップ68.5秒のストライドで踏み出した。だが、彼女の左右にそれよりもやや大きめのストライドが映った。メリアムが普段通りスタートダッシュするのに呼応するかのように、メドゥもまた予選をも少し上回るペースを作り始めた。
(メドゥさんが、完全にラップ67秒台を意識し始めている……!)
メリアムが集団より一歩前に出るものの、メリアムに食らいつくメドゥの足からは、力強さすら見えた。その後ろを、ヴァージンがぴったり付くものの、1周で5mほどその背中を離される。
(でも、私は私なりに、13分台を目指すのだから……!)
ヴァージンは、2周、3周と周回を重ねていくうちに、出るべきタイミングを思い浮かべていた。ラップ68.5秒で走り続ければ4000m時点では11分25秒になるが、これまでそれを多少下回るタイムになることが多かった。そこで3000mあたりからラップ68秒超えを意識すれば、4000mでそのタイムになれる。そして、その先で普段見せている「65・31・57」のスパートを見せられれば、14分ではない記録を出すことができる。そう信じた。
(前の二人のタイムなんて、気にしない……。その走りをすれば、必ず私は追い抜けるんだから……)
そして、メリアム、メドゥ、そしてやや遅れてヴァージンが3000mを駆け抜けた。記録計には8分34秒と書いてあるように見えた。
(ペースを上げる……!)
ヴァージンは、右足に軽く力を入れ、スピードを少しだけ上げた。40m近くついたメドゥとの差が、徐々にではあるが狭まってきている。しかし、その時ヴァージンの目に飛び込んだのは、メドゥの疲れ切った体だった。
(まだ3000mなのに……、メドゥさんがこの前以上にもがき苦しんでいる……)
予選の時も、3000mを過ぎたあたりでメドゥが苦しそうな姿勢を見せていた。だが、この時のメドゥは予選以上に体を前に傾け、苦し紛れにメリアムを追いかけているようにしか見えなかった。ペースを上げながらメドゥを追いかけるヴァージンに、それが痛いほど伝わる。
(メドゥさん……、きっとまた息を吹き返すかも知れない……)
ラップ68秒を保つのがやっとのメドゥ。そこからペースアップする気配すら見せない。逆に、メリアムが緩やかにペースを上げ、4000mに入る手前で3mほどメドゥを引き離そうとしていた。それでも、予選の時のようにメドゥが再びペースを上げる可能性だってある。
(決勝で同じ負け方は許されない……!)
「Vモード」のボルテージが、靴底に彩られた炎のように燃え上がり、ヴァージンの脚をスパートへと動かす。夢の記録へのスピードアップが始まった。
(4000mで、11分25秒、26秒あたり……。きっと私には、記録を達成できるはず……!)
ギアを上げたヴァージンは、目の前に迫ったメドゥを抜こうと、少しだけ外側に飛び出した。その時、それまで体を前に傾けていたメドゥが、突然フォームを元に戻し、一度ヴァージンを振り返って力強く右足を出した。そして、ラップ65秒を意識するヴァージンとペースを合わせるように、ヴァージンのすぐ前で食らいつく。
(メドゥさんが、懸命にメリアムさんを追っている……。それも、私と同じラップで……!)
これまで、ヴァージンがメドゥの前で何度も見せつけてきたスパートを、メドゥも完全に意識していた。この場所からメリアムを追いかけるには、それしか方法がないと分かっているかのように。そして、4400mを過ぎると、メドゥもヴァージンと同じようにさらに一段階ペースアップし、4600mに向かう直線で、ついにメリアムをメドゥが捕らえた。
黄色く彩られたメドゥのシューズと、メリアムの「Vモード」が、ヴァージンの目の前でトラックを激しく叩きつけ、どちらが抜け出すか分からないほどのデッドヒートを繰り広げていた。
(メドゥさん、なんか……、メドゥさんらしくない……)
自らと同じようなスパートを今まで見たことのなかったヴァージンにとって、メドゥの見せるスパートはそれまでのヴァージンを映すような鏡であり、驚きであり、そしてわずかな不安だった。残り1周、トップに躍り出ようとするメドゥと、懸命に逃げ続けるメリアムを一気に追い抜くだけという計算こそ出来上がっているものの、その目に映るメドゥの走りに、次第にヴァージンの心に不安が襲い掛かろうとしていた。
(それでも、私はラストスパートを見せなければ、夢の記録に届かない……!)
ヴァージンは、4600mのラインを駆け抜けようとした瞬間、一気にペースを上げた。だが、前を行く二人を外側から追い抜こうとしたとき、ヴァージンの目の前でフラッと何かが揺れた。
(えっ……、ここは……、海……?)
そこにいる全ての者が、這いつくばうか流されるかの瀬戸際に立つ。空気も届かない深海だ。そのような異次元の世界がヴァージンを包み込み、彼女はトラックを走っているような感触を失った。
(私はまだ、勝負を終えていないのに……)
ヴァージンは、その場所から戻ろうと、懸命に足を動かした。すると、ヴァージンの少し先で、一人の女性が深海の中を流れていた。それは、紛れもなく、ヴァージン自身が憧れにし続けた一人のアスリートの姿だった。彼女はもう、流れに逆らうこともできず深海に吸い込まれていく。
いや、逆らう意思すらなくなってしまったように見えた。
(メドゥさん……)
その世界こそ、一人のアスリート、クリスティナ・メドゥが力尽きる、最後の時だった。
ヴァージンが我に返ると、コーナーを回る途中でメドゥは止まっていた。メドゥを何とかよけて、ヴァージンが振り返ると、そこにいたのは全てを出し切った表情と、そのまま膝を抑えながら崩れていくメドゥだった。
係員に抱きかかえられながら、メドゥがトラックを去ろうとしている。
「メドゥさん……!」