第44話 力尽きたメドゥ(4)
「女子5000m、予選1組に出場する選手の方は、こちらに集まってください」
予選の招集がかかると、ヴァージンは軽く手首を回しながら係のところに向かった。だが、数歩歩いたとき、ヴァージンはすぐに違和感に気付くのだった。
(メドゥさんが……、いない……?どこに行ったのだろう……)
ヴァージンは、首を左右に動かし、係に近づいてくるライバルたちを目で追った。そこに、最も見慣れたはずのメドゥの姿がない。受付には予選1組と書いており、集合時刻にこの場所にいないということは棄権の可能性だって否定できない。
だが、時間は待ってくれなかった。係が出場選手を番号順に読み上げ、点呼を取り始めたのだ。一人一人名前が読み上げられていく中、ヴァージンはあまり目立たないように目を左右に動かし続けた。
(あれだけ私と走りたかったメドゥさんが、この場所にいない……。この前は、すごく元気そうだったのに……)
レース前で気持ちを落ち着かせなければならないにもかかわらず、ヴァージンの鼓動は少しだけ早く動いていた。ついにヴァージンの名前が呼ばれ、そのすぐ後に係まで異変に気付いた。
「クリスティナ・メドゥ選手。2893番、クリスティナ・メドゥ選手、いらっしゃいませんか」
(まずい……。メドゥさんの名前が呼ばれているのに、集合場所にいない……)
ヴァージンは、ついに首を入口のほうに大きく回し、祈るような目で入場通路を見つめた。その時だった。
「すいません!もう集合時間だったんですね……」
やや高い声が集合場所に鳴り響くと同時に、通路からメドゥが早足で飛び出してきた。2893番のゼッケンをつけ、金色の髪を輝かせながら、かつて5000mの頂点に立った彼女は集合場所に向かった。
「メドゥさん……。ものすごく心配しました……」
「ヴァージン、ごめん。10分勘違いしてて……。もう長いこと陸上選手やっているのに、こんなの初めてよ」
メドゥはその言葉を言い終わると同時に笑うものの、目は既に勝負に挑む光を解き放っていた。その目を間近に見ながら、ヴァージンも目を細めた。
(メドゥさんは、予選から勝負に出ようとしている……。予選だから全力で走らなくてもいいはずなのに、なんかメドゥさんの目を見てると、走りたくなってくる……)
ラップ68.5秒まではいかなくても、ラップ70秒で走りだしたらメドゥに予選1位の椅子を間違いなく取られてしまう。レース直前にして、ヴァージンにはある程度の覚悟はできていた。
予選1組でともに戦う16人が、スタートラインに立った。号砲を高く上げ、瞬く間にそれが鳴った。
(さぁ、予選のメドゥさんはどう出てくるか……!)
ヴァージンは、ラップ70秒を少しだけ上回るストライドで最初の一歩を踏み出す。すると、ほぼ同じストライドが、ヴァージンの右目に映った。力強そうな右足から、それがメドゥのものだと分かった。
だが、メドゥがそのストライドを見せた直後、そこから瞬く間に次の一歩をトラックに叩きつけたのだった。
(ペースが速い……。テンポが、まるで中距離走のようになっている……)
サウザンドシティで見せたようなラップ68秒程度のスピードよりを、この日のメドゥは少しだけ上回っていた。最初の直線でヴァージンの前に飛び出した時、ラップ67秒台を伺うかのようなペースをメドゥは見せる。
(メドゥさん、ずっと後半伸ばすような走り方を続けてきたのに、最近メリアムさんと同じような走り方だ……)
サウザンドシティのとき以上に、メドゥは専門外のトラック競技の走り方をじっくり見ていた。それによってメドゥが走り方を変えたというのは、ほぼ間違いのないことだった。
(でも、私はメドゥさんのように最初から飛ばすことはできない。今まで自分の積み重ねた記録が、いつもそれを証明しているはず……)
メドゥから1m、また1mと離されても、ヴァージンはある程度のところまでペースを上げないことに決めた。だが、そう決断したところで、メドゥの予選らしからぬ走り方に、ヴァージンの体は少しだけ緊張感を覚えた。
(メドゥさんは、今日ですら私に勝とうとしている……。さっきからほぼ同じペースで走っている……)
そう思ったヴァージンの脳裏ですら、先頭を行くメドゥが彼女らしくない走りを見せ、そこでがき苦しんでいるということも、また思い浮かべていた。マゼラウスから言われた言葉が、その走りに重なってくる。
そして、3000mを過ぎたあたりで、メドゥのもがきはパフォーマンスとなって表れる。ペースを維持しようと、体をより前に傾け、何とかラップ68秒ほどのペースを守ろうとしているようにヴァージンの目に映った。その時、ヴァージンとメドゥの差は80m近くまで開いていた。
(メドゥさんが、いよいよペースを保てなくなり始める。少しだけ本気を出せば、追い抜けるはず……!)
ヴァージンは、「Vモード」を軽く踏みしめ、ラップ70秒近くのペースから、ひとまず68秒ほどのペースに上げてメドゥの様子を伺うことにした。おそらく、メドゥはそれ以上スピードを上げられない、と踏んだ。あとは4000m近くになったら普段のようにスパートを見せ、メドゥとの差を一気に詰めるだけだ。
しかし、その目論見は、決して正しいものではなかった。3500mあたりから、メドゥの姿勢が徐々に戻り、もがき苦しんでいたはずの体は何事もなかったかのように走り続けていた。4000mを11分28秒ほどで通過したメドゥが、5000mの自己ベストを伺う走りになっているのは、ヴァージンが見ても明らかだった。
(本気で走らないと、先にゴールされてしまう……!)
ヴァージンは、普段から見せるようなスパートを4000mのラインを過ぎたあたりで繰り出した。その差は12秒ほど。足をトラックに激しく叩きつけ、ヴァージンは一気にギアを上げていった。
だが、メドゥのほうも決してスピードを落とすわけではなく、わずかながらペースを上げている。最後の一周の鐘が鳴り響いても、ヴァージンの手の届きそうにない場所で、メドゥは独走を続けていた。
(メドゥさんは、予選で勝たなきゃいけない相手なのに……!)
心の焦りが、逆にヴァージンの体を苦しませようとしていた。ヴァージンはスパートをかけるものの、メドゥの衰えることのない走りを前にして、それほどスピードに乗れない。メドゥが目の前に迫るような感触すらなかった。
(あと30m……。少しでも、体を前に……!)
ゴールラインを駆け抜けたヴァージンの目に、メドゥの右肩が輝いていた。予選ではメドゥに敗れたのだった。
「ヴァージン……。なかなかいいレースだったわね……」
予選の順位が次々と現れる大きな電光掲示板から目を離し、メドゥがそっとヴァージンに声を掛けたのは、それから1分後だった。メドゥの体は、予選にも関わらず疲れ切っている様子だった。
「はい……。でも、メドゥさんに負けるとは思わなかったです……」
「私も・・…、勝ちたいと思ってたけど……、最後まで勝利を……確信できなかった……。最初、あのペースで飛び出し……、それが最後まで生きた感じね……」
メドゥの声には、時折苦しそうな呼吸が入り込んでいた。全力を出し切った体をその声で吐き出すかのように、レース後でもメドゥはもがいているようだった。
「そうですね、メドゥさん……」
そう言うと、ヴァージンはメドゥの肩に右手をそっと寄せて、無意識に微笑んだ。
「メドゥさんに、今日は負けてしまいましたけど、決勝では抜き返します。世界記録と、13分台のタイムをこの場所で出したいですから……」
「私だって、決勝でも勝ちたいし……、ヴァージンが狙っているのなら……、私も世界記録を取りに行く……」
メドゥは、決して笑わなかった。苦し紛れの声で、メドゥの凛々しい顔もかき消されてしまうようだった。それでも、メドゥの足だけは、二日後の本番に向けて、まだまだ走り足りないかのようだった。
「メドゥは、間違いなくもがいているな……」
スタジアムから出たヴァージンに、マゼラウスが真っ先に告げた。
「はい。私が走りながら見ていてもそんな感じだったので、ちょっと心配にはなります……」
「メドゥは、もともとそんな走り方をしないからな……。ただでさえ、中途半端にランニングフォームを変えれば体が付いてこなくなるということを、ウォーレットで証明されているからな……」
「ウォーレットさん……。あの日までは、また世界記録を賭けた勝負ができると思っていましたね……」
「ただ、メリアムだけはもともとが中距離走だっただけに、あのペースでも全く苦にならない。いま走っているだろうけど、メリアムのペースに決して油断するな」
マゼラウスがそう告げると、ヴァージンはうなずいた。彼女の目には、既に決勝で行われそうな展開を見つめていた。