第5話 遠いメドゥの背中(5)
薄青のトラックにしゃがみこんだヴァージンは、次々と動く気配を感じた。全力を出し切ったアスリートたちが歩きながらクールダウンを続ける足音、メドゥを追いかける報道陣の喧騒、今回もメドゥに及ばなかったグラティシモを抱きしめるフェルナンドの声、どよめく観客席……。
15人中14位で終わってしまったヴァージンの名を呼ぶ声は、耳に届かない。
自分で言い放ったあれだけの自信が、いま重くのしかかる。
(メドゥさん……)
――こんなタイムじゃ、勝負にならない。
あのバスの中で、グラティシモが教えてくれた言葉が、ヴァージンの耳を蝕み始めていた。自らの堅い意志でそれを否定し、本番も強気の姿勢で臨んだ。しかし、その実力で出すことができたタイムでは、到底勝負にならなかった。
(……私、言い過ぎたかも知れない)
次第に、胸が締め付けられる。メドゥに、そしてグラティシモに何と言えばいいか、言葉も出てこない。アメジスタから世界に挑み、こうして散ってしまった一人の少女は、その場を離れることができなかった。
だが、悲しみに更ける時間はあまりにも短すぎた。聞き慣れた靴音が、観客席の最前列に近づいてくる。ヴァージンは顔を上げた。目の前に飛び込んだ顔は、滅多に見ない鋭い目つきだった。
「コーチ……」
「立て!立ってくれないか!」
「……っ」
マゼラウスは、ヴァージンを抱きしめることができない代わりに、しゃがむヴァージンを腕組んで見つめていた。
「早く立て!君は、そのままでずっといるのか!勝負に負けて、それじゃみっともないだろ!」
「……分かりました」
後ろから押されたように立ち上がり、ヴァージンはマゼラウスを見つめる。しかし、その目に映ったマゼラウスの顔は、とても注視できないほど壊れていた。
異様なほどの静寂と、こちらから何を言うことも許されない雰囲気が、ヴァージンを包み込む。観客席からのどよめきも急に耳に入らなくなってしまった。何をされるか、ヴァージンには見当もつかない。
やがて、マゼラウスはふぅとため息をついて、再び口を開いた。
「恥ずかしい。本当に恥ずかしいよ……」
(私も……です……)
ヴァージンは、そう言いかけて、再び首を垂らそうとする。だが、彼女の首すら感情の思うことを聞いてはくれなかった。
「ヴァージン。なぁ、私と一緒にやってきた半年間は、いったい何だったんだろう」
「力は……、ついて……」
「たしかに、私が君と初めて出会った時と比べると、タイムは伸ばせていると思う。だが、それを君は、本番で何一つ発揮できなかった」
「……はい」
ヴァージンは、そう言いながらも、首を横に振ろうとした。不意にマゼラウスの目がさらに細くなるのを感じ、首の動きも止まってしまった。
「それじゃ、意味ないんだ!君の記録は、ジュニア大会よりも落ちているとしか、みんな思わないんだ……」
メドゥの今回のタイムは、14分36秒23。風の動きのない室内とは言え、彼女にしてはスローペースだ。
対するヴァージンの練習での自己ベストは、14分40秒台。大会では14分57秒38。けれど、今日はそれよりも遅い。
ヴァージンは、メドゥを意識した。結果、それが全ての失敗であるかのようにさえ思えた。
またしばらく間が開いて、マゼラウスは口を開いた。まだ、腕を組んでいた。
「どうするんだ……。君は、これから……」
「……っ」
ヴァージンは、両手を握りしめたまま、言葉を言いかける。しかし、張りつめた胸からは何一つ言葉が出てこなかった。
「どうするんだ。君の意思は!今ならまだ、トップアスリートへの道に戻れるっ!」
「……コーチ」
ヴァージンは、思わずそう言いかけた。同時に、その右足を力いっぱいトラックに叩き付ける。
「こんな自分なんて、もう見たくないっ!」
レースが終わってしまってから、これまで決して声を出すこともできなかったヴァージン。しかし、その欲求を一気に吐き出すかのように、やや強い声で叫んだ。
マゼラウスは、黙ってヴァージンを見る。
「自分の実力を出せなかったことが……、私はとても悔しい……。ヴァージン・グランフィールドの実力が、この程度なのかって思われるの……、私は聞きたくなんかない」
「ヴァージン……」
「今回のレースはもう終わった……。けれど、私は自分の失敗を、自分自身の足で取り返すことができる……。悔しさを、力に変えることができるはず!」
ヴァージンは、力任せに言った。マゼラウスの唇が一瞬だけ動いたように見えたが、やがてマゼラウスは、よかろう、という言葉だけを残してヴァージンから一歩ずつ遠ざかってしまった。
(……コーチ)
マゼラウスが遠くに行ってしまっても、ヴァージンはその場に立ち尽くしていた。これまで聞き取ることすらできなかった5000mの表彰式の音がようやく耳に入り、ヴァージンは表彰台の中央に立つ世界王者に目をやろうとした。そこに、見慣れた顔が映った。
「シェターラさん……」
「ヴァージン?」
表彰台に上ることができなかったシェターラの表情は、どことなく浮かない表情だが、ヴァージンの声が聞こえるとその表情をさらに曇らせた。ヴァージンは、思わず体を少しだけ後ろにのけぞった。
「どうしたの……」
「何でもない」
ヴァージンは、マゼラウスの時と比べると幾分穏やかな表情で言葉を返す。しかし、その目に映るシェターラの表情が、マゼラウスと重なるような感じがし、慌てて首を振った。
「……何でもないわけ、ないと思う。ヴァージン、いまとても辛いんじゃない?」
「……たしかに辛い」
ヴァージンは、そこまで言うと後ろに手をやり、縛った金髪を撫でる。これ以上刺激されれば、再び同じ言葉を言わなければならない。ヴァージンには、嫌な予感しか出てこなかった。
そして、その嫌な予感が的中する。
「だって、ヴァージンらしくない。最後、全く伸びないなんて」
「あれは……」
そこまで言いかけて、ヴァージンは唇を噛みしめる。
「私は、ヴァージンを一流のアスリートだと思った。でも、なんか、今日の走りを見る限り、間違ってるかもしれないって思った」
「そんな……」
再び、右足でトラックを叩き付けようとしたが、足が動くことはなかった。
「ヴァージン。次一緒に戦うときは、私に力を見せて。信じてるから。そうじゃないと……」
「そうじゃないと……」
ヴァージンは、思わず聞き返した。シェターラの瞳から、わずかながら涙がこぼれているのが分かった。
「そうじゃないと、私の中で、女子5000mのライバルが一人減っちゃう……。そんなことになったら、つまんないじゃない」
初めての一般でのレースに緊張していたはずなのに、ヴァージンはむしろその後の方がずっと緊張していた。
今すぐにでも走りたかった。
メドゥやグラティシモ、シェターラを一度でいいから追い抜きたかった。
シェターラも遠くに行ってしまうと、それができないことに、ヴァージンは軽く右足を叩き付けた。
(私は、気持ちだけの人間じゃないのに……。感情だけの人間じゃないのに……)
「ヴァージン!」
何度となく立ち竦んだトラックを抜け、ようやく一歩ずつロッカーへと向かおうとするヴァージンに、聞き覚えのない、優しい口調の声が届いた。後ろから聞こえた声に振り向いたヴァージンは、その場で息を飲み込んだ。ヴァージンが何度もその後ろ姿を見た人物だ。
「メドゥ……さん!」
白いウェアの上に、輝くような黄緑色のパーカーを纏い、メドゥは軽く微笑みながらヴァージンを見つめていた。レースになるとその圧倒的なパワーを見せつける世界記録の持ち主は、「ワールド・ウィメンズ・アスリート」で見るよりもずっとたくましく見えた。
ヴァージンは、思わず右手をメドゥに差し出す。すぐにメドゥも右手を差し出し、二人は握手をする。時折胸の締め付けられる時間が続いていたヴァージンは、その緊張が解けていくような爽快感を感じ始めていた。メドゥの右手に、ものすごい力があるかのように思えてくる。
メドゥは、何回か首を縦に振って、唇を開いた。
「今日のレース、お疲れ様」
「お疲れ様です。優勝、おめでとうございます」
素直に言ったヴァージンの口は、ようやく普段の大きさに戻っていた。一方、メドゥの口はさらに微笑んでいた。ヴァージンを好意的に見ているようにさえ思えた。
「そう言ってもらえると嬉しい。でも、今日は優勝することも大事だけど、むしろあなたに会いたかった……」
「えっ……。本当ですか」
「だって、すごいアスリートだって聞いたから」
「すごくないですよ……。メドゥさんのほうが、ずっとずっと素晴らしいアスリートだと思います」
ヴァージンは思わずそう言ったが、メドゥは軽く首を横に振った。その目は、じっとヴァージンの瞳を見つめているかのようだった。
「たしかに、今は私の方が速いタイムを出せる。けれど、私はグラティシモからあなたのことを聞いて、そして今日のレースを見て思ったの。私には真似できないほど、熱い心を持って走っているって」
「心……」
「そう。あなたは、強いと思う。他のどのアスリートよりも、熱いハートで、レースに臨んでいる」
「そんな……」
「だから、あなたはずっと私を追い越そうとしていたんでしょ?」
たしかに、言われてみればそうだった。それが、この大会での唯一の目標だった。
ヴァージンは、思わず涙を零し始めた。
「……はい。でも、今日は無理でした」
「ううん。それは、気にしちゃダメ。私にはまだ、タイムで及ばないんだし……。けれど……」
メドゥは、そこまで言うと微笑んでいた表情を一転させ、目を細めた。
「あなたのその頑張りは、絶対にいつか私を苦しめることになると思う」
「メドゥさん……!」
ヴァージンは、思わずメドゥの胸に飛び込んでいった。メドゥは、ヴァージンを我が子のように抱きしめた。レース中は、彼女の背中はあまりにも遠かったはずなのに、ヴァージンは今、メドゥの一番近くにいた。目からは涙があふれ、それを世界最速の長距離走者の腕にこぼしていく。
(いつか……、その背中に追いつくから!)
熱い涙を全身で受け止めたメドゥは、この時悟った。
自分の世界記録を破るのは、ヴァージン・グランフィールドしかいない、と。
そして、それが現実になるまで、そう時間がかからないことを。