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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
大記録への助走
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第44話 力尽きたメドゥ(3)

 夏の強い日差しと、港町フェネスの心地よい海風が交わる、赤レンガの外観を見せる陸上競技場に、世界じゅうから選手が集まる。1年に一度開かれる世界競技会、それぞれの一年の成果が試されるレースだ。

(私は、今度こそ5000mも10000mも両方優勝してみせる。今の私だったら、たぶん負けるはずなんかない)

 世界記録を何度も打ち破るものの、オリンピックや世界競技会で未だに優勝できていない女子5000m。スタジアムに集う誰もが、今年こそその瞬間を信じているように思えた。

 10000mの決勝が行われる日、スタジアムに入ったヴァージンの目に、エクスパフォーマのブースが飛び込んできた。そして、そのブースに、自らのシューズと同じ色に縁どられたポスターが敷き詰められていた。

(エクスパフォーマの広告だ……。この大会専用ポスターに、私とメリアムさんが映っている……!)

 ヴァージンはあまり邪魔にならないよう、遠くからそのポスターを見つめた。その時になってようやく、ヴァージンは2週間ほど前にガルディエールから告げられた言葉を思い出した。

(ここでも、負けられない戦いになるんだった……)

 最速の「Vモード」使い――女子5000m決勝で優勝した者が、ヴァージンの履くシューズの一番の使い手となる。その現場が、まさにこれから数日後に訪れようとしている。ヴァージンは、そのポスターの中に小さく映るメリアムの姿を細めで見て、トレーニング用の「Vモード」で軽く地面を踏みしめた。


「On Your Marks……」

 10000mの世界記録、29分43秒87。4月にジェナで出した記録を、ヴァージンはスタートラインの上で思い浮かべた。その時は、ラップ73秒のペースを保ちながら「Vモード」のパワーとともに駆け抜けていった展開が、ヴァージンの記憶に残っていた。

(今回は、ヒーストンさんも、サウスベストさんも……、今まで上位に食い込んできたライバルがみんないる!)

 ヴァージンの目に、一瞬だけ赤毛のヒーストンの横顔が見え、顔を戻した時に号砲が鳴った。

(よし……!)

 最も内側のレーンからスタートしたヴァージンは、懸命に前に出てきたヒーストンの後ろにぴったりつくスタートとなった。ジェナではヴァージンが終始前を走り続けていたことを意識しているのか、ヒーストンの顔が少しだけヴァージンに向いた。ヴァージンのストライドはラップ73秒だが、その前を行くヒーストンのストライドもラップ73秒。5000mの時と違って、先を越されたとしてもほとんど差が広がっていかない。

(ヒーストンさんのペースが落ち始めたら、抜き始める。そうすれば、世界記録の更新も間違いないものになる)

 2周、3周と、ヒーストンのペースは変わらない。少なくとも、ヴァージン以上に10000mを走りこんでいるヒーストンが、この場所で突然ペースダウンするわけもなかった。逆に、この場所で一気にペースアップを仕掛けたことのないヴァージンにとっては、ヒーストンの後ろで我慢の時間を過ごすしかなかった。

(この展開を打ち破るのは、少なくとも6000mを過ぎたあたりになるのかもしれない……)

 5周を過ぎた頃には、ヒーストンに食らいついていけたのはヴァージン一人だけだった。最近まで世界記録を持っていたサウスベストですら、この日の二人には付いて行けそうにないようだ。

 ぴったりと並ぶ二人は、そのまま10周、そして15周目に入ろうとしていた。

(そろそろ仕掛けよう。たぶん、ヒーストンさんより前に出れば、18分13秒くらいで6000mを通過できそう)

 勝負を仕掛けると決めたヴァージンの足が、突然軽くなった。コーナーを曲がり切った後、ヴァージンは一気にヒーストンの横に並び、ペースを上げながらヒーストンを後ろに追いやった。そして、近づいてくる6000mのラインと、その横に置かれた記録計の奏でるタイムを重ね合わせる。

(思った通り、18分13秒……。ここからもっとペースアップして、引き離していくか……)

 ジェナでのレースでは、7000mあたりからヒーストンが仕掛けてきたため、自然とレース全体のペースも速くなっていったが、抜かれたヒーストンがいつどこで仕掛けてくるか分からない。その前に突き放しにかかった。

(このスピードでも、全く痛みを感じない……)

 ラップ71秒まで高めたヴァージンの足は、それでもなお軽かった。普段5000mをラップ68.5秒でトレーニングをしているヴァージンにとって、最初の水準から1、2秒ペースを上げるのは全く苦にならない。それどころか、足に携える「Vモード」からより一層パワーを感じるようになった。

 もっと速く走れるかもしれない。そう思った8000mで、ヴァージンはついにラップ70秒のペースまで高めていった。早くから勝負を仕掛けた分、初めての世界記録を手にしたジェナのときよりも、数秒だけ余裕がある。1周ごとに、ヴァージンは体感のスピードと一瞬で通り過ぎる記録計の文字とを重ね合わせた。

(残り1000mで、体感では27分08秒……。スパートさえ成功すれば、記録更新できる……!)

 残り1000mでヴァージンが見せるスパートは、もはや10000mでも5000mでも同じストライドになっていた。距離が長い分10000mでの高速スパートが負担になるが、高速でトラックを駆け抜けるために生まれた「Vモード」のパワーは衰えることを知らない。ほとんど足や膝に痛みを感じることなく、ヴァージンは思い通りのペースでトラックを駆け続ける。

 残り1周で28分42秒という文字を見たとき、予感は確信に変わった。さらに1段ギアを上げ、周回遅れのライバルたちを追い抜いていくヴァージンを、スタジアムの誰もが立ち上がりながら見ていた。

 ゴールを駆け抜けた。同時に歓声が上がった。


 29分41秒32 WR


(2秒縮められた……!)

 世界競技会、この種目では2度目の金メダルの瞬間を、周りの声で感じた。ヴァージンは、記録計の前に行き、新しい世界記録をその目で確かめた。5000mでは何度も経験したはずのことなのに、10000mのレース後では慣れない動作だった。

 ジェナのレースと違い、6000mでヒーストンを追い抜いた後に一気にペースを上げた分、全力を出し切ったような感触がヴァージンの体を駆け抜けた。足だけは十分パワーを残しているが、少なくともジェナの時のように楽に世界記録更新までたどり着けたわけではないのは、間違いのないことだった。

「おめでとう、グランフィールド……。今日もまた世界記録を出せるなんて、10000mでも天才ね……」

「あ……、ありがとうございます……!」

 ヒーストンに抱きかかえられながら祝膨れたヴァージンは、短い返事に微笑みを重ねた。だが、ヴァージンの目には、その時ヒーストンの髪の向こうに、見慣れた女子アスリートの姿が飛び込んでいたのだった。

(あれ……、メドゥさん……)

 レーシングウェアではなく、全くの私服で観客席の上段に座っている金髪の女性を、ヴァージンは即座にメドゥだと判断した。5000mの予選が行われるわけでもないのに、メドゥはスタジアムで行われている全ての競技に目を通しているようだった。

(私の走り方でも、見たのかもしれない……。でも、この前もそうだったけど、どうしてメドゥさんはずっとスタジアムで行われている競技を客席から見ているんだろう……)

 サウザンドシティの時も、メドゥは早くから来て短距離走のレースを見ていた。逆に、それより前のメドゥにはそのような動きはなかった。

 そこに、ヴァージンはマゼラウスが言っていたメドゥの状態を、頭の中で思い浮かべた。

(メドゥさん、落ち着いてレースを見ているようだけど、本当は気持ちが追い込まれているのかもしれない……)

 マゼラウスが最終予選までオリンピックを決められなかったとき、彼が心の中だけで追い込まれていたのは、ニューシティ陸上競技場で言葉としては聞いている。だが、その顔をヴァージンが実際に見ることなどできなかった。その代わり、今まさにメドゥがその表情を浮かべているのだと、即座にヴァージンは思った。

(当日、どこかで聞いてみるか……。何のために、何もない日にスタジアムに来ているんだろうって)

 ヴァージンが頭の中にそう思い浮かべて、ふと客席を見るとメドゥはヴァージンの視界から消えていた。それから数秒後、ヴァージンも何事もなかったかのように客席まで歩いて行き、その手で高く掲げるアメジスタ国旗を受け取った。


 数日後、女子5000mの予選がやってきた。朝早くからスタジアムにやってきたヴァージンは、多くの報道陣に囲まれる中、選手受付に急いだ。そこにあった出場選手の名前を見て、思わずうなずいた。

(私とメドゥさんが、同じ1組で走る。メリアムさんとは決勝でしか戦えない)

 ヴァージンの心の奥には、既に予選でメドゥを追い越して、決勝でのメリアムとの一騎打ちにしようという計算ができていた。だが、その計算がメドゥの体によって大きく狂わされるとは、その時のヴァージンには考えられるはずもなかった。

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