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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
大記録への助走
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第44話 力尽きたメドゥ(2)

「ニューシティ陸上競技場なんて、走ったことないです」

 もう9年近くオメガにいるにもかかわらず、耳にしたことのない地名をマゼラウスの口が告げたとき、ヴァージンは思わずマゼラウスに振り向いた。だが、マゼラウスは何も言わないまま微笑み、乗ったタクシーは普段と同じように目的地に向かって走り出した。

「まぁ、付いて来れば分かる。競技場の収容人数の基準が変わって、今じゃそこで国際大会を開けないからな」

「そうですか……。だから、私が聞いたことがないんですね」

 これまでヴァージンが訪れ、そしてトラックに立ったスタジアムは、たとえ途上国であってもトラックと客席の間にトラック5レーン以上は開いており、かなり高いところからレースを見降ろすことのできる観客席があるのが当たり前だった。収容人数の都合で、ということとなると、それより小さめの競技場の可能性は否めない。

 ヴァージンがこれから訪れるスタジアムの雰囲気を頭に思い浮かべているうちに、タクシーはオメガ国の政府官庁街に入り、見るからにレースとは程遠いフォーマルな景色が車窓に広がっていた。

(いったい、どこに行くんだろう。タクシーに乗ったんだから、そこまで遠いわけないはずなのに……)

 ヴァージンがそう思ったとき、タクシーは官庁街を出て、その北側に広がる広い公園に入った。そして「P」と書かれた看板を合図に、大通りから公園の中に入り、並木道を分け入るように進んでいく。

 そして、そこから1分もしないうちに、タクシーが突然止まった。

「さぁ、着いたぞ。ここが、ニューシティ陸上競技場だ。まぁ、今となっては運動公園だがな」

 オメガセントラルの中心部とは思えないほど、緑に囲まれた空間が広がる中、マゼラウスはその中にたたずむ400mトラックを指差し、そのまま歩いて行った。トラックの周りに観客席はほとんどなく、しかもそれが工事で撤去されたような跡もなかった。

「コーチ。もしかして、現役の頃にここで走っていたとかそういう感じですか」

「まぁな。私の時代には、そこまで大きな競技場じゃなくても、普通に国際大会が行われていた。ここは、オメガの中心で、便利な場所にあったから、郊外に大きな競技場がいくつもできる前は、長いこと使っていたんだ」

「そうだったんですか……」

 レースが行われていた頃と違い、今はトラックにつながるゲートは解放されており、一般の人でも利用することができる。平日の午後とは言え、この時間でも何人かの人がトラックで軽く走っているようだ。

 しばらくトラックの様子に見とれていると、マゼラウスがヴァージンを手招いた。ゴールラインが引かれている、そのすぐ左にマゼラウスが立っていた。レースで言うところの、本当にゴール直前、自らのタイムを決める最後の数歩になりそうな場所だ。そこに立つマゼラウスの目は、まるで何かを睨みつけるようだった。

「コーチ、ここが私に見せたいところ……、ですか……」

「そうだ。ただ、私もあまりここに戻ってきたくはなかったが……、お前に私の傷を伝えるために戻った」

「傷……」

 マゼラウスは、言葉を止めたヴァージンに少しだけ首を横に振り、そして、振り向いた。

「さっき、私はお前に言ったよな。体全体が、そこで力尽きるとな。私にとってその場所は、まさにここだ」

「あと少しで、ゴールとか……、その場所で力尽きたんですか」


「想像の通りだ。私は26年前、10000mの最後30mのところで、それ以上体を前に出すことができなくなった」


(残り、30mのところで……。あと何歩か出れば、ゴールだったのに……)

 ヴァージンは、マゼラウスの告げた真実に何も返すことができなかった。ただ、マゼラウスの指差すトラックを見つめ、マゼラウスが過去に経験したことを、本人の言葉のままに感じるしかなかった。

「26年前のあの日、私は男子10000mのオメガ最終予選に臨んだ。パーソナルベストに近いタイムであれば、オリンピックに出るためにそこまで予選に出続けなければならないということはなかった」

「ここでのレースが、コーチにとって最後のチャンスだったというわけですね」

「そういうことだ。一つ前の大会で銅メダルを取っている以上、何としてもオリンピックに出なければとられ思った。ただ、その時の10000mは、私が考えているほど甘いレースではなかった」

 マゼラウスは、右手を広げて、親指、小指……と一本ずつ指を曲げていった。マゼラウスの口から、ヴァージンが聞いたこともない名前がかすかに聞こえる。それは、マゼラウスが立ち向かった、最後のアスリートたちであることに間違いなさそうだった。

「4年前に比べて、オリンピックの舞台に立てた選手の平均タイムが1分も早くなった。10000mとは言え、そこまでハードルが上がってしまうとは思わなかった。それでも、私は走らなければならなかった」

「10000mで1分も早く走るのは、結構難しいことだと思います。私だって、すぐにはできなかったです」

「ただ、それが現実だ。かつてメダルに手が届きそうだったオメガの選手が、後輩にタイムで抜かされ、みなここまで残ってしまった。その最後の予選で、代表になれるのはたった一人。難しいとは言え、たった一度の勝負から逃げるわけにはいかなった。その気持ちは、お前なら絶対に分かると思う」

「分かります」

 今でこそ、女子長距離界の「絶対女王」とも呼ばれるヴァージンでさえ、負ければ全てを失いかねないレースを何度も経験している。特に最初のジュニア大会は、たった一度きりのチャンスだったのだから。

 うなずくヴァージンの耳に向かって、マゼラウスは再び口を開いた。

「けれど、その強い気持ちが体に響かなかった。どれだけ体を奮い立たそうとしても、それ以上力にならなかった。10周、20周……。私は気力だけで、先頭集団に食らいついてきた。眠っているはずの力が、最後の最後で出せると信じて、25周目のゴールラインまで、私は戦ってきた」

「戦い続けて……、そして力尽きてしまったんですか……」

 ヴァージンの声は、26年前その場にいたかのように震え上がっていた。マゼラウスは、その声に一度、小さくうなずくだけだった。


「体が、私の気持ちを少しずつ塗り替えてしまった。『もう、勝負なんてできない』と……」


「勝負ができない……。つまり、もう戦えないっていうのと同じことですか」

「残念だが、そういうことだ。そして、私はどれだけ走ってもその気持ちを跳ね返すことができなかった。そして、ゴールの30m手前で走っていた足は止まってしまい、ガックリと首を垂れた。心が折れてしまったんだ」

 マゼラウスが、そう言いながら自らが「力尽きた」地点をじっと見つめる。その場所で、26年前に何をしてしまったのかを一つ一つ思い出しながら、マゼラウスはトラックを見続けた。

「そして私は、その場で棄権した。何のためにトラックに立っているかも分からなくなってしまった。気持ちを失った陸上選手に、トラックを踏むことなど許されるはずがないからな……」

 マゼラウスの右足が、一歩トラックに近づいては離れ、長い歳月を経た今になってもその心の傷が癒えていないことを体で表している。ヴァージンは、それを何も言わず見つめるしかなかった。

「私が引退を決めた瞬間を、こんな長くしゃべってすまないな、ヴァージンよ……」

「いえ……。メドゥさんの気持ち、何となく分かったような気がします……」

「お前らしくないな。声が死んでるぞ」

 マゼラウスの手が、ヴァージンの肩をポンと叩く。反射的に振り向いたヴァージンに、マゼラウスはかすかに笑った。

「お前はまだ、25歳。ま、だ、25歳だからな。遠い未来のことのように、考えてみろ」

「はい」

 マゼラウスは、ニューシティ陸上競技場のトラックをついに踏むことなく、外に向かって歩き出した。時折トラックに振り向くものの、その場所で失った気持ちを取り戻すには、あまりにも小さかった。

 同時に、マゼラウスは振り向きざまに何度もヴァージンの目を見つめていた。

(コーチ、もしかしたら自分の達成できなかった夢を、私に託しているのかもしれない……。まだ25歳、つまり怪我さえなければ先は長い。だから、いま私にコーチの過去を伝えたかったのかもしれない……)

 だが、そのような空気もやがて消え去るときが来た。考えながら歩くヴァージンに、急に立ち止まったマゼラウスが普段通りの声で告げた。

「ここの外周は、およそ1500mある。もし自主トレで走りたいんだったら、何周でも走っていいんだぞ」

「はい、分かりました!」

 そう言うと、ヴァージンは木に囲まれた外周のランニングコースを見つめ、右足を一歩引いた。その様子を、マゼラウスが後ろから見ているのは間違いなかった。

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