第44話 力尽きたメドゥ(1)
「いよいよまた、メリアムとの勝負が始まるな」
サイアール共和国の港町フェネスのスタジアムで行われる世界競技会まで、残り2週間と迫ったある日のこと。ヴァージンのもとに代理人ガルディエールから電話がかかってきた。
「はい。メリアムさんが戻ってくると知って、ずっとワクワクしています」
「それならよかった。そんな君に、エクスパフォーマからこんな話が来たんだけど、聞いてみたいかな」
「エクスパフォーマ……ですか。聞いてみます」
エクスパフォーマと言えば、ヴァージンのシューズ「Vモード」が市販された話と、アメジスタ製の超軽量ポリエステルを取り入れたレーシングウェアがようやく軌道に乗りだしたという話を、このところ立て続けに聞いている。彼女に、それ以外に思い当たる節はなかった。
ヴァージンが次の言葉を待っていると、ガルディエールが軽く咳をして、それからそっと告げた。
「世界最速の『Vモード』使いは誰だ!エクスパフォーマ、女子長距離シューズショー。そういう祭りだ」
「祭り……。私と、周りの『Vモード』履いた人がレースをするとかいう話ですか」
「そうじゃない。エクスパフォーマが、今回の世界競技会に合わせて、世界各国で1分のCMを流すんだ。君がメインで、それに立ち向かおうとしているメリアムを時々映す。どっちも『Vモード』を履いて走っている姿を映像にしてるんだ。そして、勝負の日付を女子5000m決勝に合わせている」
「ガルディエールさん。つまり、5000m決勝でメリアムさんと戦うときが、エクスパフォーマにとっても最速の『Vモード』使いを決める戦いっていうことになるわけですか」
「そういうことだ。この話を聞いて、君自身のモデルを履く身としてはもう後には引けないよな。勿論、負けたからと言ってエクスパフォーマのモデルアスリートから落ちることはないだろうけど、勝つしかない」
「もちろんです。『Vモード』を履いて、私が誰よりも前に出ないわけがないです」
ヴァージンは電話でそう言いながら、バッグに目をやり、シューズ袋の中で赤く輝いている「Vモード」を見つめた。世界最速の走りを生み出せるパワーを秘めたシューズを「操る」者として、その目の先にプライドを感じずにはいられない。
「メリアムは、2年間何もしなかったわけではない。トレーニングでは14分03秒台を出せたとも聞いている。だから、君自身がその走りを上回って、『Vモード』のパワーを見せつければ、間違いなく13分台は出るだろう」
「期待できそうですね。もう、次で13分台を出せるって、私は思ってますから!」
「君の健闘を祈るよ」
そう言うと、ガルディエールは軽く笑って電話を切った。ヴァージンの目には、まだシューズが映っていた。
だが、世界記録まで1秒98に迫ったヴァージンも、トレーニングでそれ以上速いタイムを出すことは、どれだけ気持ちが高ぶっていてもできなかった。14分02秒台に突入するのがやっとで、メリアムの非公式の自己ベストを上回れない時も何度かあった。
「メリアムが03秒台というのが、お前をかなり焦らせる原因になってしまってるんだろうな……」
ガルディエールからエールをもらった翌日、ヴァージンは14分09秒89と最近にしては遅いタイムで5000mのタイムトライアルを終えてしまった。マゼラウスがストップウォッチを軽く見て、ゆっくりと彼女に近づく。
「それは言えるかも知れません。気持ちは焦っていないはずなのに、体が焦っているのかも知れません」
「私にもそう見える。お前の本来の走りから少しだけ遠くなっていて、もがいているようにしか見えない」
マゼラウスがヴァージンのフォームを撮影するようなことは、この数年行っていない。それでもマゼラウスは、ある種の感覚で彼女のストライドや踏み出し方を見ているのだった。
だが、マゼラウスはそこまで言うと、突然穏やかな表情になり、ヴァージンの目を落ち着いた表情で見た。
「もっとも、今のお前なら十分元に戻せるレベルだ。お前のライバルよりも深刻な状況にはなっていない」
「私のライバル……。それって、誰のことですか?」
「クリスティナ・メドゥ。お前の前に、女子5000mのスーパースターだった存在だ」
「メドゥさん……。この前、サウザンドシティで一緒に走りましたけど……」
ヴァージンの脳裏に、先日のサウザンドシティ選手権での走りが思い浮かんだ。メドゥが珍しく先行逃げ切り型の勝負を仕掛けてきたのは間違いなかった。そのために、メドゥの一度も走ったことがない短距離走のフォームまで目で見ていたことも、何となくは推測できる。
「4200mぐらいで、お前がメドゥを抜かしていた。その時、メドゥの表情は苦しかったが、それよりも苦しかったのは、彼女の脚だった。ものすごくもがき苦しんでいた。気付かなかったか」
「いえ……。あの時は、世界記録を出せるって確信していたので、メドゥさんまで気が回りませんでした」
「まぁ、お前が後ろを振り返らなければ分からないことだから仕方のないことかもしれないが、あのフォームはもはや気持ちだけで前に出ようとしている、そんな感じだった。全盛期のメドゥなら、そうはしなかった」
マゼラウスは軽くうなずいた。そして、頬に右手を当てながら、さらに静かな声でヴァージンに告げた。
「たぶん、その体が止まってしまう日も、遠くはないのかもしれない」
(あの時のメドゥさんと同じ匂いがする……)
ヴァージンは、マゼラウスの言葉を聞いた瞬間に、その声が、今年2月のアムスブルグ選手権の前日に聞いたメドゥの落ち着いた声に重なっていることに気付いた。勝負の前とは思えない寂しげなその声は、そう遠くない未来のメドゥ自身を暗示したものに他ならなかった。
――アスリートのパフォーマンスは少しずつ落ちていく。今の私は、それを体で感じる。
「お前も、私の言おうとしたことが、ほぼ全て分かったような目をしているな……。お前も、メドゥの心の声を、同じトラックで戦った身として感じているんだろうな」
「はい。たしかに、メドゥさんは……、私に悩みを打ち明けてくれました」
「ただな、口で何と言おうとも、体は正直だ。引退の近いアスリートは、ボロボロになってでも走り続けようとする性格を、ほとんど誰もが持っているからな……」
「ボロボロになってでも走る……。それが、もがき苦しんでいるように見えてしまうんですね」
「そうだ。ただ、もがいているということは、まだ戦う気持ちがあるということだ。だが、戦う気持ちもやがては現実に打ちひしがれて、小さくなる。そして、たった一つの瞬間をもって、その体は止まってしまう」
マゼラウスの声が、さらに低く小さくなる。トラックを走り始めた400m走の選手の足音で時折かき消されてしまいそうなくらい、その声はしんみりとしていた。
「ヴァージンよ。いま私の言った、たった一つの瞬間。お前はそれを、いつだと思っているか」
「たった一つ……。引退の瞬間……。ちょっと、言葉では想像できないです」
「そうか……。それが分からないうちは、まだお前は幸せだと思うし、未来だってある」
マゼラウスが腕を組んで、じっとヴァージンを見つめる。一度青空を見つめ、マゼラウスの口は再び開いた。
「その体で勝負したいという気持ちが、その体で勝負できないという気持ちに負けたとき、そこで体は止まる。決して、足が止まるわけじゃない。体全体が、そこで力尽きてしまう。それくらい大きなターニングポイントだ」
「気持ちを失って、それ以上進むことができない……、ということですか」
「まぁ、平たく言えばそういうことにはなるな。ほとんどのアスリートが、人生でたった一度しか経験しないはずのことを、やっぱりお前も察してくれるのか」
「はい」
すると、マゼラウスは小さくうなずき、考えるしぐさを浮かべながらヴァージンに告げた。
「ヴァージンよ。この話をした以上、お前にどうしても見せたいところがある。クールダウンが終わって、着替えが終わったら、タクシーでその場所まで行こうと思うんだが、何も予定は入ってないか」
「はい。今日はとくに、自主トレぐらいしかその後は何も決めてないです」
「分かった。なら、その場所までついて来い。場所を変えてのトレーニングではないから、安心しろ」
そう言うと、マゼラウスは先にトレーニングセンターの出口に向かって歩き出した。その後ろ姿が、ちょうどアムスブルグで見せたメドゥの後ろ姿に重なった。
(コーチは、私をどこに案内しようとしているんだろう……)
トレーニングウェアを脱ぐヴァージンは、そのことが気になって仕方がなかった。トレーニング後のドリンクを飲むことすら忘れてしまいそうだった。
そして、二人を乗せたタクシーのドアが閉まると、マゼラウスはやはり低い声で、短くこう言った。
「ニューシティ陸上競技場まで」