第43話 世界で戦うアメジスタ人の姿を見たい(6)
14分01秒98 WR
(私は、力を出し切った……)
電光掲示板に刻まれる、女子5000mの新たな世界記録。そのタイムに溢れかえる歓声。その全てを感じながら、ゴールラインを駆け抜けたヴァージンは、肩で呼吸をする。そして、一度顔を下に向けた後、すぐに顔を戻し、特別席にいるビルシェイドに振り向いた。
(ビルシェイドさん……、すごい楽しそう……。ずっと体を乗り出している……!)
ビルシェイドは、先程ヴァージンに大きな声援を送ったときのように、特別席から大きく身を乗り出していた。その姿は、スタジアムにいる誰よりも興奮しているように見え、また誰よりも喜んでいるようにも見えた。
(世界で戦うアメジスタ人が打ち立てた新たな世界記録を、同じ国で生まれた人間として祝福している……)
ヴァージンは、ビルシェイドに一度うなずいて、それから大きく手を振った。すると、ビルシェイドも立ち上がって両手を大きく振り、大きな声とともにヴァージンに居場所を伝えた。
「グランフィールド選手……!新しい世界記録おめでとうございます……!アメジスタ人として、これほどまで自分の国を誇りに思ったことは……、ありません……!」
(どうしてだろう……。全力を出し切ったはずなのに、ビルシェイドさんの目を見ていると泣きたくなりそう)
スタッフからタオルを受け取ると、ヴァージンはそのタオルを涙で濡らした。これまで何度となく世界記録を更新し、何度となくスタジアムじゅうから称えられた彼女だったが、ビルシェイドのその言葉は、これまでとは比べものにならないほど、ヴァージンの胸を強く締め付けていた。
(今まで、アメジスタ人からここまで喜ばれたこと、一度もなかったはずなのに……)
ジョージやアルデモードを除けば、自らの出したタイムに対してアメジスタの人々から褒められたことはなかった。未知の世界で戦う一人の少女、一人のアスリートの姿を誰も見たことがなく、どれだけのことをしているかすら評価されなかったヴァージンは、ここでようやく小さな支えをもらったように思えた。
そしてヴァージンは、観客席にいるマゼラウスへとゆっくりと歩んでいった。マゼラウスはアメジスタの国旗を待っていたが、マゼラウスはその国旗をすぐに手渡さなかった。
「ちょっと国旗は待とう。今日は、私なんかよりもずっと適任者がいるはずだ」
(もしかして……)
マゼラウスは、左手でビルシェイドを手招いた。4段上にいたビルシェイドが、まるでそのことをマゼラウスから聞いていたように駆け下りていった。そして、ビルシェイドがマゼラウスからその国旗を受け取った。
「二人は、同じ国、同じ国旗で繋がってるんだ……。今日はそれを、力いっぱい掲げていいんだぞ……!」
「おめでとうございます……!こんな貴重な体験ができるなんて、僕は本当に幸せです…!」
ヴァージンは、ビルシェイドから赤と紺に彩られたアメジスタ国旗を差し出され、目に溜まった涙を拭って、それから抱きしめるように国旗を受け取った。まるで、二人が握手するかのような感触さえその手に覚えた。
(私がずっと誇りにしてきた……、生まれ故郷のフラッグ……。アメジスタ人から初めて手渡された……)
国旗を持つヴァージンの手は、そこに映る、燃えるような赤色のように熱かった。そして、国旗を力いっぱい掲げながらトラックを走り、ヴァージンはこう誓わざるを得なかった。
(この気持ち……、誰かに伝えたい……。アメジスタから出た私は、一人じゃないんだって……!)
表彰式が終わると、ヴァージンはスタッフから声を掛けられメディアルームに招待された。レース直後のインタビューがほとんどなかった段階で薄々感づいていたものの、ヴァージンは決して緊張感を覚えなかった。レース前、レース中、そしてレース後の出来事と、言いたいことはこの日のどこからでも見つけることができた。
トレーニングウェアのままテーブルを前にすると、そこには10社以上がカメラやマイクを向けていた。そして、メインインタビュワーと思われる男性がゆっくりと登場し、記者会見が始まった。
「本日は、私どもグローバルキャス主催の記者会見にお集まり頂き、ありがとうございます。私は、グローバルキャスの副営業部長、ディック・ディファーソンと申します」
(グローバルキャス……。スポーツ中継で、世界最大のシェアを誇るテレビ会社……)
ヴァージンは思わず、ディファーソンの胸にあるグローバルキャスのマークを見ようとするほどだった。これまで記者個人からインタビューされることが多かったが、テレビ局の営業から声を掛けられることは少なかった。
ヴァージンは、一度うなずいて、ディファーソンからの質問を待った。
「それでは、インタビューを始めます。まず、ヴァージン・グランフィールド選手。優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「タイムが、ついに14分01秒まで来ました。今日の走りは、全力を出し切ったと思いますか?」
「出し切ったと思います。夢の記録まで、あと1秒98ですが……、世界競技会で必ず打ち破ります」
雰囲気を除けば、普段のインタビューと何も変わらない中、ヴァージンはディファーソンの問いかけに淡々と答えていった。だが、ディファーソンが予め用意していたメモに目をやったとき、彼女は息を飲み込んだ。
「以前、各社から報じられたように、今日はグランフィールド選手がアメジスタからレースに招待したということでした。その方はレースに来て頂けましたか?」
「はい。彼にとっては、右も左も分からないオメガなので、私がホテルまで迎えに行きました」
「そのアメジスタ人は、レース中どのような目でグランフィールド選手を見ていたと思われますか」
(あれ……、アメジスタ語で叫んでいたの、インタビュワーが気付いていないような気がする……)
ヴァージンは、少しだけ考えるしぐさを浮かべながら、報道陣にこう告げた。
「レース中、声が聞こえたんです。私が慣れ親しんだ、アメジスタ語で『グォ、レコルドブラッカ!』と。私は、その声を聞いて、彼が必死に同じ国の私を応援しているんだって思いました」
「その叫び声が、いつも以上のパワーを生み出した。そんな感じですか」
「そうですね。パワーというか、追い風に近いような、不思議な力のように思えました。最後の一周、アメジスタの私がひとりぼっちで戦っていないって気付いて、全力で戦えたと思います……」
「そうなると、今日の勝利と世界記録は、アメジスタから招待した彼に捧げるつもりですか」
「おそらく、私が捧げるより前に、初めて私の走りを見た彼が……、私の想いを受け取ったと思います」
ヴァージンは、そこまで言うと軽く涙を拭う。決して涙を出そうとしていなかったにも関わらず出てきた涙は、報道陣たちの一人ひとりにもはっきり伝わっているように見えた。
そして、しばらく間を置いた後、ディファーソンがヴァージンに次の質問を告げた。
「先程、初めてグランフィールド選手の走りを見たとおっしゃいましたが、アメジスタにはインターネットどころか、テレビもありません。新聞も、ほとんどアメジスタ国外のニュースが伝えられず、グランフィールド選手の活躍を、ほとんどの国民に知る機会がないと聞いております。それは今でもそうでしょうか」
(アメジスタのこと、この記者は知っている……)
ヴァージンは、マイクに乗らないように息を飲み込んだ。その言葉に反応するように小さくうなずくと、ヴァージンの心の内に様々な想いがこみ上げてきた。
「おっしゃるとおり、アメジスタには何もありません。アメジスタはあまりにも貧しくて、テレビも見ることができません。今日招待した彼は、アメジスタにはないテレビに、ずっと釘付けになっていました」
(言ってしまった……)
ヴァージンは、こみ上げてくる想いを止めることができなかった。頭の中にビルシェイドの顔を浮かべながら、ヴァージンはさらに言葉を続けた。
「せめて、私が走る姿を見る機会があれば、私に対する評価ももう少し変わったと思います。だからこそ、先日私の父が、私のフォトブックを出版し、写真という形で私を紹介してくれました。今日招待した彼も、フォトブックに映る私を見て、レースを見に行きたいって言ってくれたんです」
ヴァージンが力強くそう言った瞬間、すすり泣くような記者が数人現れた。ディファーソンも一度すするような声を浮かべていたように思えた。
「そうでしたか。ですが、アメジスタから見ることができない中でも、グランフィールド選手はアメジスタの国旗を掲げて走っています。普段から、どんなことを思って走っているのでしょう」
「私は、アメジスタに……、アメジスタの人々に、勇気や希望を与えたいと常に思っています。世界中の人々に対してもそう思っています。私の走る姿に、みんなが勇気を持って欲しいって……、そう思って走っています」
「そうですか……。今日は、インタビューにお付き合いありがとうございました。……私たちも、陸上女子のスーパースターのいるアメジスタに、できる限り応援しようと思います」
(うそ……)
グローバルキャスが、何か支援をしてくれる。それが何かは分からないが、事実上の確約とも言える言葉に、ヴァージンはテーブルの前で一人戸惑った。
「素晴らしい滞在になりました。グランフィールド選手のおかげで、あの地区で生きていく希望が持てました」
グリンシュタイン行きの飛行機が飛び立とうとしているオメガセントラルの空港で、ビルシェイドは喜びいっぱいに感謝を告げた。服は結局そのままだったが、ホテルの中で洗濯機の使い方は学んだようだ。
「こちらこそ、ビルシェイドさんに夢の力を見せられて、本当によかったです。オメガでの生活に慣れると、帰ってから大変かも知れませんが、また希望を失いそうになったら、フォトブックを見て下さい」
「分かりました。あと……、もしアメジスタにテレビが来たら、全力で応援します!」
ビルシェイドは、そこまで言ってしっかりと握手を交わした。アメジスタ人として生まれたお互いの夢が、そう遠くない未来に叶うことを信じて。