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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
大記録への助走
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第43話 世界で戦うアメジスタ人の姿を見たい(5)

 サウザンドシティ選手権当日の朝、ヴァージンがホテルまでビルシェイドを迎えに行くと、ホテルの入口のところでビルシェイドがフォトブックを高く上げて待っていた。空港で買った服をこの日も着ており、フォトブックと財布、それに陸上競技場の特別席のチケット以外は特に持ち歩いている様子ではなかった。

「お待たせしました。こんな早くからビルシェイドさんが待っているなんて思わなかったです」

「グランフィールド選手の走っている姿を見たくて、僕はここに来たんです。ワクワクして寝られなかったです」

「それくらい、楽しみにしていたんですね……。もう、今日はその期待に必ず応えます」

 そう言うと、ヴァージンはビルシェイドを連れて、バスターミナルへと向かうタクシーに乗った。

(私が走るだけで、ここまで寝られないって言う人、初めて見たような気がする……)

 ヴァージンは、タクシーに乗り込んだビルシェイドの瞳をほんの少しだけ見た。それは、どこか輝いていた。


 サウザンドシティのスタジアムは、やや薄い雲に覆われて、照りつける真夏の日差しも多少は和らいでいた。普段から数時間前には会場入りするヴァージンだったが、今回はビルシェイドを連れていることもあり、彼に数多くのドラマを見せようと、普段より早めに会場に入った。

 二日間で全ての競技を行うこともあり、二日目のこの日は、男女200m走、110mハードル、走り高跳びなど一瞬で結果が分かる競技が続き、最後に男女5000mを行うことになっている。ビルシェイドにそのプログラムを告げると、最後まで楽しみなことを取って置いてくれるんだ、と彼は返した。

(でも、今の女子5000m、注目度は相当高いはずだから、きっと私目当てで来ている人が多いはず……)

 そうヴァージンが心の中で呟きながら選手受付に向かうと、そこにメドゥの後ろ姿が見えた。

(メドゥさん、普段こんな時間には来ないはずなのに、今回ものすごく早い……)

 金色の髪を空調の風に静かに揺らしながら、メドゥは体を起こす。そして、ヴァージンの気配に気が付いたのか、すぐに顔をヴァージンに向けた。

「ヴァージンじゃない。こんな時間に来ているなんて思わなかった」

「こっちこそ……。私、今日は一人レースを見たいって言う人が来ているので、早い時間に案内したんです」

「なるほど……。私は、ちょっと別の理由があって、早くこのスタジアムに来たの」

 ヴァージンの言葉に、メドゥは首を小さく横に振った。その目は、レース直前とは思えないほど穏やかだった。

「もしかして、メドゥさん。5000m以外のレースにも出るんですか」

「そうじゃない。なんか、自分を見つめ直したくなってきた。ヴァージンを見て、すごく気持ちが高まってきたけど、もう少し気持ちを高めようと、他の種目をトラックの外から見ようと思ってね……」

 そう言うと、メドゥはかすかに笑顔を見せ、ヴァージンに微笑んだ。そして、一足先にバッグを抱え、ロッカールームへと消えていった。

(メドゥさん、何かあったのか……、それとも今までとは違う方法でレース前に落ち着こうとしているのか……)

 続けて選手受付を済ませたヴァージンは、そのようなことを頭に思い浮かべながらロッカールームに向かった。ロッカールームではメドゥの近くに向かったものの、メドゥとそのことについて特に話すこともなかった。


「女子5000mの招集を行います。呼ばれた方は、返事をお願いします」

 いよいよ、5000mのレースが始まろうとしていた。数分前にメイントラックに向かったヴァージンは、ビルシェイドの座る特別席を何度か振り返った。ビルシェイドは、それほど興奮している様子ではなく、目の前で行われている競技を静かに眺めているようだった。

(アメジスタの人々は、スポーツ観戦なんかしたことがないし……、応援の仕方もここで学ぶしかなさそう……)

 ヴァージンは、特別席から目を離すと、数日前に家電量販店でテレビに釘付けになっていたビルシェイドの後ろ姿を思い返した。相当期間が開いてからの録画放送だったが、彼はじっと試合を見ていたのだった。

(私が走るのを間近で見ることで、彼はどう思うんだろう……。レースの後が楽しみになってきた)

 心の中でそう言うと、ヴァージンはスタート位置へと向かう選手たちに付いて歩き出した。


「On Your Marks……」

 今や「絶対女王」という言葉まで出回るようになったヴァージンが最も内側からのスタート、すぐ外側にはかつてそのように呼ばれていたと思われるメドゥが並んでいた。二人の目線は、ここでぴったり合った。

(メドゥさん、やっぱりレース前には本気の目を浮かべている……)

 選手受付で会ったときの落ち着いた雰囲気は、そこにはなかった。その後メドゥが、レースに向けて気持ちを高めていったようにさえ、ヴァージンには思えた。

(でも、私はメドゥさんに負けるわけにはいかない……。アメジスタに、私の走りを見せるためのレースだから)

 ヴァージンが正面を向き、一呼吸置いて号砲が鳴った。その瞬間、メドゥが体を前に出し、大きなストライドでヴァージンの前に迫ってくるのが、ヴァージンの右目にはっきりと映った。

(メドゥさんが……、飛び出した……!こんなこと、メドゥさんはほとんどやったことないはずなのに……)

 ラップ68.5秒のペースで駆け出すヴァージンに対し、メドゥのストライドは明らかにラップ68秒を切るほどのペースだった。先行逃げ切り型のレースに持ち込むのは、これまでウォーレットかメリアムぐらいだっただけに、メドゥがその走り方をすることに、ヴァージンの中では違和感しかなかった。

(もしかして、スタートダッシュの感覚を掴むために、わざと短距離種目の時間からスタジアムに来てた……?)

 ヴァージンがそう思ったとき、二つ目のコーナーを回ったメドゥがヴァージンに顔を向けた。様子を伺うような目をしているが、スタートダッシュのペースを落とす気配はなかった。

(これは、今までにないくらいのタイムでメドゥさんは走りきるかも知れない……!)

 ヴァージンは、メドゥの後ろ姿を見るしかなかった。だが、それと同時に右目には特別席に座るビルシェイドの姿を捕えていた。彼は、フォトブックを広げたまま、口を開けて何かを言いたそうな顔をしていた。だが、その口の形が何を伝えようとしているのか、アメジスタ人のヴァージンでさえも分からなかった。

(ビルシェイドさん、それでも今までより何かを思ってトラックを見ている……!)

 ビルシェイドがトラックに釘付けになる目――何かを祈っているようにも見える目――は、ヴァージンにとってこれまでにないくらいの追い風になろうとしていた。


 その後、メドゥのペースは落ち着いてきたが、ラップ68.5秒で走り続けるヴァージンと50mほどの差を付けたままメドゥがトップを走る展開は3000mを過ぎても変わらなかった。

(そろそろ仕掛けた方がいいかも知れない……)

 メドゥがこのままのペースで走りきるとも思えないが、この地点までこのペースを維持できていることがヴァージンにとって不気味でたまらなかった。ヴァージンは、右足を強く踏み込み、素早く次の一歩を踏み出す。「Vモード」から溢れるパワーが、ヴァージンの足を軽くスピードアップさせた。

(私は、こんなところで負けてられない……!世界記録と、女子初の13分台を、この脚で掴みたい……!)

 ラップ68.5秒だったペースが、わずか1周で68秒を切るまでに上がっていく。じわじわとメドゥとの差を詰めれば、ラスト1000mでも早い段階でメドゥを捕えられるはずだ。かたや、メドゥはラップ68.5秒ほどのペースを保っているが、その脚はやや苦しそうに見えた。

(これは、意外と早くメドゥさんを捕えることができるかも知れない……!)

 ヴァージンは、4000mのラインを越える直前から一気にスパートをかけた。それまでじわじわとしか縮まらなかったメドゥとの差が、まるでメドゥが止まっているようなアングルで迫ってきていた。4200mを過ぎたあたりのコーナーで、一瞬背後につき、コーナー出口で外側からメドゥを抜き去った。

(あとは、自分との勝負……。メドゥさんがハイペースでレースを進めたおかげで、タイムは狙えるところまで来ているかも知れない……!)

 4400mを過ぎたあたりで、ヴァージンのタイムは体感的に12分32秒。自慢のラストスパートさえ見せられれば、次の世界記録は間違いない。あとは、それがどのタイムで着地するかだった。

 その時、一気にラストスパートまで加速を始めるヴァージンに、大きな声が響いた。


「ヴァージン・グランフィールド……!グォ、レコルドブラッカ!」


(アメジスタ語……!)

 ヴァージンは、反射的に特別席に目をやった。そこで彼女の目に映ったのは、大きく身を乗り出して、叫ぶビルシェイドの姿だった。観客席がヴァージンの次の世界記録を待ち望む中、ヴァージンと同じ故郷を持つ一人の青年が、彼女の挑む姿に一体となって声を送っていた。

(私は……、アメジスタのために……、そしてみんなに夢や希望を与えるために……、最高の走りを見せる!)

 ヴァージンのラストスパートが、薄青のトラックを駆け抜ける。その背中に強い追い風を受け、全員の目がそのタイムを見守る中、ヴァージンは懸命にゴールラインを駆け抜けた。

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