第43話 世界で戦うアメジスタ人の姿を見たい(2)
「少し、悩んでるような声だね。何か、今日のトレーニングでうまくいかないことでもあったのか」
ガルディエールは、ヴァージンの「もしもし」という声を聞いただけで、すぐに心配そうな返事を見せた。
「トレーニングは、今日も結構なタイムで走れました。ただ、私が悩んでいるのは、違うことなんです」
「どういう悩みなんだ。もし言えるような悩みだったら、私に言って欲しいんだが」
ガルディエールにどう言えばいいのか、ヴァージンは電話を前に言葉を組み立てようとした。だが、何度か口を動かしているうちに、たまった言葉を待たせることができなくなった。
「一人のアメジスタ人が、私の走ってる姿を見たいって……、言ってるんです……」
「それはまた、難しい話だな……。あまり飛行機もないだろうから、アメジスタから出ることも一苦労なのに」
「はい……。アメジスタは、オメガに飛ぶ飛行機が週に1便しかありませんから……。往復だけでも1週間になってしまいますし……、オメガでのレースもこの前終わったばかりなので……、悩んでしまったんです」
「君としては、行かせてあげたいと思ってるわけなんだな」
「もちろんです。アメジスタから初めてこんな手紙を受け取って……、やっとアメジスタにも私の想いが届いたところなのに……、アメジスタ人の夢に私が応えられないって思うと、すごく胸が苦しくなるんです」
その声が次第に強くなっていることに、ヴァージンはここで気が付いた。その時には、電話を握りしめる力が強くなっており、相手が見えないはずの目も細まっていた。
強い声が回線を駆け抜けた後、しばらくガルディエールの声が止まった。何かを言いたそうな声だけは聞こえるが、ガルディエールも懸命に悩んでいるようだ。
(ガルディエールさん……、ビルシェイドさんの夢を叶えてくれるよう……、動いてください……)
ヴァージンが祈るように叫んだ時、ようやくガルディエールが電話の向こうで口を開いた。
「もし、君がもう1レース走れるのなら……、オメガでのレースを組めないことはない」
「本当ですか……!もしかして、世界競技会の前とかですか……?」
「そう。夢を叶えてあげようとするのなら、できるだけ早いほうがいいだろう。この機会を逃せば、おそらく来年のインドアシーズンまで、トップ選手の出るオメガでの大会が見当たらない」
ヴァージンは、その声を聞きながら、かすかにほほ笑んだ。ガルディエールの口から、7月下旬にオメガ国内のサウザンドシティでのレースがあると告げられた時には、今すぐにでも電話を抱えたまま走り出そうとした。
だが、直後にガルディエールは低い声でヴァージンに告げた。
「ただ、それでも1週間オメガに滞在しなければならなくなる。そこまでは、エージェントも面倒は見れない」
(そうだった……)
レースのことだけを思い浮かべていたヴァージンにとって、それ以外の予定は完全に眼中にないものだった。世界競技会までに13分台を叩き出せる機会が一つ増え、その増えたレースに初めてアメジスタ人が応援に来る。それだけで彼女には十分すぎた。
しかし、現実はその先のことを考えなければならなかった。
「すいません。レースだけ予約してください。その先のことは、これから考えをまとめます」
「分かった。君がそこまで強い想いを持って、夢を叶えさせてあげたい気持ちは、伝わったよ」
ガルディエールがそう言うと、彼が言いたかったことも言わないまま電話が切れた。直後に、ヴァージンの首がガックリと垂れた。
(時間……。生活費……。「僕」って書いてるから、おそらく若い男子なのかも知れないけど……、オメガにずっといなければいけないのは、逆に大変なのかな……)
状況は、ヴァージンが最初にジュニア選手権に挑んだときに似ていた。だが、その時のヴァージンはホテルの中でトレーニングマシンを操って、当日のレースまでトレーニング以外のことにあまり時間を費やさなかった。しかし、今回のビルシェイドには、その1週間を埋めるものが何一つなかった。
(どうやって1週間、彼をオメガに案内しよう……)
そうヴァージンが思ったとき、不意にビルシェイドの書いた文字が再び目に飛び込んできた。
――グランフィールド選手が走っている姿を見たいって夢を、僕は諦めることはできません。
(夢を叶えてあげたい……。アメジスタのみんなに少しでも希望を届けたい……)
語りかけてくるようなビルシェイドの声に、ヴァージンは何度も心の中でそう言い聞かせた。その言葉を5回繰り返した時、ヴァージンは何かを思いついたように顔を上げた。
(「アメジスタ・ドリーム」がある……。滞在資金も、渡航費用もそこから使えばいい!)
アメジスタに夢や希望を届けるための資金として、ヴァージン自身が開設した口座「アメジスタ・ドリーム」。荒れ果てた陸上競技場を再建するための資金として、使おうとしていたものだった。だが、今回のビルシェイドの話も、一人ではあるがアメジスタ人の夢を叶える大事な機会であることは間違いなかった。
(1週間で、2000リア。飛行機と滞在費は、私が世界に挑んだときから分かっている)
その1週間で、世界で最も進んだ国オメガを見ること、そしてその中で戦うアメジスタ国民の姿を見てもらうこと。ヴァージンがもし初めての国外旅行に出るのなら、あまりにも満足の行くメニューのはずだ。
「これで、ある程度の目途はついた!ビルシェイドさんの夢を、叶えられるはず……!」
それから数分後、ヴァージンは再び電話を取り、ガルディエールに報告した。
「もしかして、アメジスタ人が君のレースを見たいという話がまとまったのかな」
「はい。こっちに来て、いろんなものを見てもらうことにしました。あとは、返事をアメジスタに送るだけです」
「そうか。やっぱり、君がそんな話をするということは、本気だったようだね」
ガルディエールが優しい声でそう告げると、ヴァージンは電話を片手に上下にうなずいた。
「最初から、見せてあげたいと思っていました。フォトブックを出したら、その先に待っているのは、私が実際に何をしているか伝えることじゃないですか」
ヴァージンは得意げになって、言葉を続ける。その目の先で、未だその表情すら知らないビルシェイドの姿が、シルエットのような形で動いているかのようだった。
「アメジスタは、今まで陸上のレースを見ることもできなかったんです。だから、今回の招待がアメジスタ人にとって私たちを知ってもらう大事な機会になるし……、もしかしたらそれが、世界の人々にアメジスタをより知ってもらう、またとない機会になるかも知れないんです……!」
「たしかに。君の言っていることは、何一つ間違ってないし、故郷アメジスタを愛する何よりの気持ちだな」
ガルディエールは電話をどこかに置いて、ヴァージンの言葉に何度も手を叩いた。拍手の音が聞こえるたびに、ヴァージンの表情は緩んでいく。電話の向こう側は見えるはずもないのに、彼女は作れる限りの笑顔を作った。
「ありがとうございます……。私、そう言ってもらえると……、招待に力が入ります!」
そう言うと、ヴァージンはガルディエールに礼を言い、そっと電話を切った。そしてすぐに机に向かい、ビルシェイドへの感謝状と、現地での滞在費はオメガセントラル国際空港で手渡しする旨の一文を書いた。さらに、大会の行われる週にオメガにいられるような飛行機のチケットも忘れずに手に入れた。
(これでよし。あとは、この返信が無事にビルシェイドさんのところに届いてくれれば……!)
全てのものを封筒に入れ、ヴァージンは祈るような気持ちで、アメジスタへの国際郵便を投函した。
「ヴァージンよ、今日の新聞を見たか」
「見てないです。もしかして、私がニュースに出たとかそんな話ですか」
「それは、今から新聞を見せる。お前の推測は、間違ってない」
ガルディエールと話をしてから数日後、トレーニングを終えたヴァージンはマゼラウスに手招きされ、トレーニングセンターの隅に置かれたマゼラウスのカバンのところに案内された。
「……っ!」
ヴァージンは、マゼラウスの広げた面を見て、思わず手で口をふさいだ。そこには「故郷アメジスタに届け 1枚の手紙からアメジスタ人は陸上レースを目の当たりにする」というタイトルの記事が、紙面の上半分を割いて書かれていた。
「これは、ガルディエールがお前の勇気ある行動に動かされて、新聞社に送ったものだ。アメジスタ人がテレビもなく、お前のレースを見られないことが何より辛いことか、はっきりと書いてある」
「むしろ私のほうが……、この手紙の差出人に動かされたくらいです。おそらく、本当にオメガに来てくれたら……、アメジスタ人に私をより知ってもらえるようになるんじゃないかって期待しているんです」
そう言って、ヴァージンはマゼラウスに笑顔を見せた。