第43話 世界で戦うアメジスタ人の姿を見たい(1)
(8月の世界競技会を含めて、あと2レース。13分台は、私にとってもうすぐそこ……!)
6月も終わりに近づいてきたある日、この日も自らの世界記録に近いタイムでトレーニングを終えたヴァージンは、高層マンションの1階にあるポストに手を伸ばした。このところ、手紙が入っていない日が続いているため、ヴァージンの伸ばす手の動きも、日に日に形だけになっていった。
だが、この日だけは、手を伸ばしたとき、右の人差し指にあまり触れたことのないものを感じた。
(なんか、入っている封筒がザラザラしているような気がする……。どこから届いたんだろう……)
このポストに入ってくる封筒と言えば、陸上機構からの封書がメインで、他には代理人から届くものがいくつかあるくらいだった。だが、封筒の触感と言い、大きさと言い、差出がオメガ国内ではなさそうだった。
(もしかして、アメジスタで流通している封筒……?)
しばらく考えた後、ヴァージンの手は次第にアメジスタ時代に触れた封筒を思い出し始めていた。就職活動用のダイレクトメールが、ヴァージンの家にも何通か届いていたが、まさにそのようなものだ。だが、既に陸上選手という「職」を手に入れているヴァージンにとって、今更そのようなメールは届きにくい。
気が付くとヴァージンは、ポストの前に1分以上立っていた。
(取り出そう……。何が入っているか、それだけは見ないと先に進まないのだから……)
封筒の差出人の字は、予想外に父ジョージが書いたものだった。だが、ポストから取り出したその時、ヴァージンはその封筒の中にもう一つ、小さめの封筒が入っているのが、手で触れて分かった。中に小さな封筒を入れているために、どうしても一回り大きめの封筒に入れなければならないということだろうか。
(じゃあ、このなかにあるものが本当に私宛のものっていうことになるのかな……)
ヴァージンは、すぐに部屋に戻って、まず外側の封筒を開けた。そこには、小さめの封筒と、父からの簡単な手紙が添えられており、ヴァージンはまずその手紙のほうから手に取った。
「父さんのところに、ハイボリ書店から封筒が……届いた……。それは、ハイボリ書店に持ってきた一人のアメジスタ人の手紙だった……。書店しか出す場所がなかったらしい……。だから、こうやって今送っている……」
父からの手紙を声に出して読むにつれ、ヴァージンの脳裏には、これから開こうとしている小さめの封筒に何が書いてあるか想像できた。アメジスタ人からもらう、アルデモードを除けば初めてのファンレター、という可能性はある。それも、先日アメジスタで出版されたフォトブックを読んでから、ということになる。
(そうだ……。私の住所は、あの本の中には書いてないし、父さんの住所も書いてない。でも、出版社の住所に送らなかったのはどうしてだろう……)
そう思って、ヴァージンは何気なく机の引き出しを開き、グリンシュタインの地図を取り出した。ちょうど、街が分断されてしまったのを見たとき、実家からもらってきたものだ。
(これ……、ハイボリ書店は、ボーダーのすぐ近くに移ったんだ……)
ヴァージンは、ハイボリ書店の場所を地図の上で指差した。書店の名前と、かつての場所はヴァージンの記憶にあったが、もはやその場所にはなかった。貧民層の暮らすエリアにある商店が一掃された、そのほとんどが体制支持派の暮らすエリアに移転させられたからだ。だが、このハイボリ書店は、体制支持派の暮らすエリアに移ったものの、二つの街を分けるボーダーから通りに出てすぐのところで踏みとどまっていたのだった。
(だとしたら、この手紙を出してくれた人は、書店までは行けるけど、そこから遠く離れた出版社まで行くことができない……、分断されてしまった人なのかもしれない……)
そうヴァージンは心の中でイメージし、それから小さめの封筒を取った。封筒はボロボロで、もう何年前に買ったか分からないほど古ぼけていた。そして、その中にはチラシの裏に書かれた、丁寧な字の手紙があった。
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ヴァージン・グランフィールド選手へ
日々トレーニングをしている中で、突然こんな手紙を送りつけて失礼します。
僕は、アメジスタ・グリンシュタインの貧民街に暮らすことになった、ジーン・ビルシェイドと言います。
この前、外の世界を見ようと書店を眺めたとき、グランフィールド選手の載ったフォトブックが偶然目に留まり、思い切って1冊買ってみました。
生まれたときから貧しい生活を強いられ、陸上のことなんて何一つ分からないのに……、グランフィールド選手が走っている画像を見るだけで、強さを感じました。
同じ国に生まれたグランフィールド選手が、世界のライバルを追い越すために、懸命に戦う姿。そして、その先にある、世界記録に立ち向かっていく力強い脚。
その何もかもに、僕は感銘を受けました。
それでも、世界で戦うグランフィールド選手は、僕たちアメジスタ人にとって近くて遠い存在です。
同じアメジスタ人なのに、僕たちはフォトブックを通じてじゃなければ、見ることもできないんです。分断された、より貧しいほうの人間なので、アメジスタから出てレースを見に行くことも、今のままじゃかないません。
だから、一度でいいから、アメジスタ人の前で、レースをやって欲しいんです。フォトブックで見たあの姿を、この目で見たいっていう人は、間違いなく僕以外にもいるはずです。
勿論、陸上競技場が荒れ果てた中で、そんなのはできないって分かっています。
でも、この前、グランフィールド選手が聖堂の周りを走ったって聞きました。そういうようなレースでもいいんです。
グランフィールド選手が走っている姿を見たいって夢を、僕は諦めることはできません。
ちょうど、グランフィールド選手が、夢を捨てることなく……、世界に旅立っていったように、僕だって夢を実現させたいです。
やっとの思いで書店に出せたこの手紙と、僕の気持ちが、グランフィールド選手に届くと信じて……、どうか、僕の、僕たちのその夢を……、グランフィールド選手の力で叶えてくれませんか……?
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(ビルシェイドさん……)
ヴァージンの目からこぼれた涙が、手紙の角を潤した。ビルシェイドの表情は分からなくても、手紙に書かれている文字からですら、次々と痛々しい気持ちが込み上がってくるのだった。
(初めて……、私の走ってる姿を見たいというアメジスタ人に出会えた……。この夢を、叶えてあげたい……)
手で涙を拭うヴァージンの決意は、一つしかなかった。だが、それは短い言葉だけで返せるほど甘くないことも、ヴァージンは分かっていた。
(私だって、アメジスタのあの陸上競技場をもう一度復活させたいって夢はあるし……、勿論そこで、私はアメジスタのみんなに走ってる姿を見せたい……。でも……、それは今すぐにはできないこと……)
ヴァージンは、そこまで思いつくと、頭を抱えてしまった。今すぐにでもその姿を見たいと言っているビルシェイドに、「いつかアメジスタの陸上競技場で走る」と返していいはずがなかった。
(ビルシェイドさんを勇気づけられる、私にできることは何だろう……)
最も手軽にできることは、ヴァージン自身が再びアメジスタの聖堂の周りでタイムトライアルを行うことだった。だが、エクスパフォーマのヒルトップがアメジスタに背を向けた今、セスナでアメジスタに向かうことはできず、オメガから週1便の飛行機に乗ることしかなかった。シーズン真っ盛りの今それをしようとすれば、レースに影響が出てしまう。
残された手段は、一つしかなかった。
(ビルシェイドさんを、私が出るレースに招待しよう。たぶん、私の走ってる姿を見ることが、ビルシェイドさんにとって一番大きい夢だと思う)
だが、そこまで考えたヴァージンは、それすらも無謀でしかないことに気付いた。ちょうどオメガセントラルでのレースを終えたばかりで、7月のケトルシティも、8月の世界競技会も、オメガからさらに乗り継ぎが必要だった。アメジスタから、オメガ国以外に飛び立つ便はなかった。
(あと少し早かったら、オメガでのレースに招待できたのに……)
ヴァージンは、ついにその手紙を強く握りしめた。
「どうにかして、夢を叶えてあげたいのに……!」
ヴァージンの手の中で折り目が付いてしまった手紙を、その目でじっと見るしかなかった。
次の瞬間、張り詰めた空気を切り裂くような電話が鳴りだした。
(ガルディエールさんからだ……。私のこの気持ちを……、分かってもらうしかない……)
ヴァージンは、助け船でも来たかのように、その電話にしがみついた。