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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
そしてプロとしての現実が始まる
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第5話 遠いメドゥの背中(4)

 身を凍えさせるような冷たい風にアムスブルグの街が包まれた頃、インドアアリーナの中は世界中から集ったアスリートたちの情熱で焼けつくような暑さに達していた。アムスブルグ室内大会、女子5000mが行われる日だ。

「いよいよ、勝負の時……」

 ヴァージンは、その日に手渡された出場選手一覧の表を右手に握りしめながら、バッグを手にロッカーから薄青のフィールドへと飛び出した。既に、マゼラウスやグラティシモから情報は聞いているが、この出場選手一覧に載っている名が正式な大会出場者となる。

 ヴァージンは、トラックの最も外側のレーンに足を踏み入れて、改めて自らの出場する女子5000mの出場選手を見る。数日前に現地入りしてから何度も目にしているものの、未だに直接会話をしていないクリスティナ・メドゥ。同じアカデミーでのライバル、ヘレン・グラティシモ。また、昨年のジュニア大会で最後までヴァージンと争ったシュープリマ・シェターラ。他にも、ヴァージンがまだ知らない選手も多数出ていた。

(私は……、今日までやってきた。初めてとなるライバルに、私は恐れない)

 ヴァージンは、選手一覧の紙をバッグにしまい、遠くに目をやる。万国の国旗が連なっているが、今回はアメジスタの赤とダークブルーの国旗もこちらを見つめていた。ヴァージンは、大きく首を振り、上着の袖を引っ張る。白い上着を身からほどくと、その国旗と全く同じ配色のレース用ウェアが現れた。

(私は、トップアスリートになる夢を、今叶える……)

 ヴァージンは、右手の拳を丸めて胸に当てた。彼女の決意だった。


 本番前の最終調整として、マゼラウスとともに軽い練習に取りかかろうとしたその時、ヴァージンは遠くの方から誰かが近づいてくるのに気が付いた。グラティシモだ。

「グランフィールド、おはよう。今日はよろしく」

「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

 インドアアリーナで練習を初めて数日、ヴァージンは同じアカデミーに属する彼女ともほとんど顔を合わさなかった。この場所に来ても、二人の練習時間がかみ合わず、しかも宿泊先も異なっていたので、会話らしい会話をしてこなかったのだ。それだけに、あと数時間で勝負が決するこの時間に声を掛けられると、かえって不気味にさえ思えてきた。

「この前話していたこと、もう一度聞くけど、いい?」

「この前……、もしかして、私が強く言っちゃったことですか」

「そうね。今も、優勝を狙いに来ているわけよね」

「勿論です。メドゥさんや、グラティシモさんに力を見せつけないと、ここに参加した意味がないです」

「なるほどね……」

 グラティシモは、軽く首を振り、左右に一度だけ体をひねって、再度口を開いた。

「あなたの本気、見させてもらうわ。それが、口だけでないということを」

「分かりました」


 ヴァージンは、わずかながら心に氷の柱を入れられたような身震いを感じた。

 練習では、自己ベストを上回る14分40秒台で5000mを走りきることもあるが、勿論それは一人で走った時のタイムであり、かつ本番という多少の緊張感の上で行われるべき場で出しているタイムではない。

 世界で認められている、ヴァージン・グランフィールドというアスリートの記録は、14分57秒38というただ一つの数字しかない。

 この大会で、アメジスタの少女が優勝できるわけがない。誰もがそう思っている。それが現実かも知れない。

 それを打ち破りたい。ライバルの言葉と共に、決意は緊張感になり、気持ちに火が付く。

 あとは、体がその緊張感の元で力を発揮できるかどうかだった。


 女子5000mの選手の招集が近づき、軽くストレッチをしていたヴァージンはマゼラウスに手招きされた。

「ヴァージン、もう時間だな。体は慣れたか」

「えぇ。大丈夫です」

「そうか。君は、今日まで私のもとで一生懸命やってきた。そのことを忘れるな。自分を信じさえすれば、君の力は最大限まで発揮されるはずだ」

「分かりました」

 マゼラウスは眉間にしわを寄せていたが、目だけは優しくヴァージンを見つめていた。ジュニア大会の本番前に、誰一人として声を掛けられなかった時とは状況が違う。マゼラウスに支えられ、いま初めて一般のアスリートに挑む。ヴァージンは、右腕をマゼラウスに伸ばした。

「おう!」

 マゼラウスは、力強く伸びた教え子の右腕を軽く叩き、何度も首を縦に振った。そして、ヴァージンは勝負のフィールドへと力強く飛び出した。


 女子5000mは、今回出場人数が15人のため、予選なしですぐ決勝に入る。つまり、一発勝負だ。そのため、スタートラインに並ぶどの選手も、ヴァージンには目の色が違ってみせた。その上、ヴァージンをはじめとして何名かの選手はこの大会がオフシーズンの練習の成果を発揮する最初の大会となるため、ヴァージンから見てもそういった選手の表情ははっきりと分かった。

 世界記録を持つメドゥは、レーンの一番内側に立ち、その横にグラティシモ、そしてヴァージンは初出場ということもあり、最も外側のレーンに立っていた。この室内競技場は、スタート場所が二つに分かれており、外側のレーンに並んでいる選手は内側のレーンに並ぶ選手よりも前にスタートラインがあるため、メドゥの姿は後ろを振り向かないと分からなかった。

 ヴァージンは、もう一度自分の真横を見る。誰もいなかった場所にシェターラが準備を整えていた。時間がないと分かっているものの、ヴァージンは思わず口を開いてしまった。

「シェターラ……さん」

「ヴァージン、久しぶりじゃない!17歳でここに出てるとは思わなかったから、名簿を見てびっくりした」

「私、ジュニアだけじゃ物足りなかったから」

「そう……。でも、今日は負けないから」

「分かった」


 そう言って、二人の若きアスリートの首は正面へと向けられた。ヴァージンにとって、一度大差をつけて勝利を収めているシェターラなど眼中になかった。真のライバルは……。


 号砲が鳴る。少しずつトラックの内側にポジションを移動させるうちに、内側レーンのメドゥやグラティシモが高速で近づいてくる。後ろで縛った薄金髪に短めの白のウェアを着たメドゥ、黒のツインテールに有色肌、真っ赤なウェアを着たグラティシモ。身長の高い二人が、ヴァージンよりも前に一番内側に陣取っていった。

(やはり、速い……)

 しかし、二人がぴったりとついているのであれば、アカデミーの中でグラティシモと走った時と何一つ変わらない。後半失速しないように、かつある程度離されないようにスピードを調節するだけでいい。それは、グラティシモに勝負を挑んだ次の日からヴァージンが取り組んでいることで、何も難しくなかった。

 だが、メドゥを数歩差で追うグラティシモのペースが、少しずつ上がってくるのをヴァージンは感じた。それと同時に、ヴァージンのストライドも不必要に大きくなる。

(この走りを続けると、途中でじりじりと引き離されるのに……)

 ヴァージンは、はやる気持ちを押さえようとした。しかし、すぐ後ろから複数の選手たちがぴったりとヴァージンにくっつき、やがてヴァージンはその集団の中に紛れ込んでしまった。


「……っ!」

 ヴァージンは、一度首を横に振った。

 爆発的な走りを見せた、強い時の自分を信じたかった。

 けれど、メドゥは遠くへ、遠くへと消え去っていく……。

 ヴァージンは、何度もギアを上げたが、100mほど前を行く二人のスピードまで上げることができないばかりか、序盤から飛ばし過ぎたのが災いし、そのスピードも長続きしなかった。足に負担をかければ、ヴァージンの最大の武器と言えるラストスパートにも影響が出てしまう。


(メドゥさんに、追いついてみせるっ!)


 しかし、ヴァージンの気力は勝負の世界の空気を動かすに至らなかった。やがてヴァージンは、これまで何度も経験を積んでいるライバルたちに少しずつ遅れをとるようになっていた。後ろを振り返ると、そこにはもう数名の選手しかいなかった。

(……まずい!)

 ヴァージンを軽く追い抜いてしまった中位集団の中に、シェターラの茶髪がはっきりと見えた。彼女は、半年前のジュニア大会をはるかに上回るペースで、その集団を引っ張っていた。

(……やるしかない!)

 残り5周からトップスピードに乗せて、最後までペースが落ちなかったことは、練習でも一度しかない。そうと分かっているものの、この場面でヴァージンはそれしか戦いようがなかった。だが、ほんのわずかメドゥとの距離を縮めたトップスピードも長続きせず、シェターラにあと少しで追いつこうとしたあたりで失速し始めた。そして、力の尽きたヴァージンは、初めて最後の1周でライバルたちに追い抜かれていった。

 それが、ヴァージン・グランフィールドの実力だった。


 結果は、15人中14位。15分17秒27。

 ゴールラインを通り越した瞬間、ヴァージンは力なくトラックを歩き、ある程度呼吸を整えると、首を垂れてしゃがみこんでしまった。

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