第42話 長距離種目の絶対女王(4)
6月、雨上がりにかかる虹が見下ろすオメガセントラルの競技場に、ヴァージンはレースの3時間前に入った。
しかし、いつものレースと違い、今回はロッカールームでよく合わせる顔ぶれが、受付の名簿に誰一人として載っていなかった。ヴァージンはゼッケンを手渡されるときにも再び名簿を見たが、優勝争いをしているようなライバルが全くいなかった。
(ガルディエールさんから、そう言えば今回のレースは特殊だと言われていたんだっけ……)
直前にガルディエールに確認したが、今回はヴァージン以外優勝を狙える選手はいないそうだ。ライバル不在となる中、逆にヴァージンは「トレーニングのままの走りで行けば、5000mの世界記録をまた縮めることができる」とガルディエールから言い返された。
(いつもトレーニングの拠点にしているオメガなのに、完全アウェイになっている感じがする……)
世界一の経済大国とも言われるオメガで、有力な選手が集まらないレースは、ヴァージンのキャリアの中でも初めてで、それに気が付いたとき、ヴァージンの心の中で何かが崩れ落ちかけた。
そのような中で、唯一彼女のモチベーションの支えているのは、秋にメリアムが復帰するということだ。ヴァージンは、5000mでは14分04秒47の自己ベストを持っているものの、失格扱いにされたときのメリアムのタイムを上回れていないのは事実だった。ヴァージンがメリアムの戻る前にどれだけ世界記録の時計を前に進めるか、そのことだけを残り数ヵ月意識しなければならなかった。
レース本番30分前、メイントラックに足を踏み入れたヴァージンは、その目を自然と観客席に向けていた。
(アルデモードさんとか……、もっと無理だと思うけどカルキュレイムさんとか……、いないかな……)
そこまで考えて、ヴァージンは目線を正面に戻した。アルデモードは秋口から始まる来シーズンに向けてチームに合流している可能性が高く、カルキュレイムも地元ルーランドの選手権に出ているはずだ。観客まで含めても、ヴァージンは完全にアウェイの空気に浸らざるを得なくなった。
しかし、目線を正面に戻したすぐ後、ヴァージンは感じ慣れた気配を背後から感じた。その気配に誘われ、首だけを半分後ろに向ける。その向いた目線の先に、紫色の髪が観客席からヴァージンを見下ろしていた。
(あれ、もしかして……、あそこにいるのはメリアムさん……)
ヴァージンは、メリアムに手を振ろうとした。だが、メリアムはちょうど目線を反らしていて、ヴァージンが
振り向いたことにも全く気付いていない様子だ。トラックで行われている女子100m走のスタート地点で、メリアムの目線は止まっていた。
(メリアムさんが、こんなところで観戦しているの、珍しい……。たぶん、私の走り方とか調べているはず)
ヴァージンは、メリアムに声を掛けることなく顔の向きを戻し、待機場所へと急いだ。
「On Your Marks……」
スターターの低い声に促され、ヴァージンはスタートラインに立った。10000mや室内5000mの時と違って、レースの前から世界記録を上回るタイムを何度も出しているわけではなかった。アウトドアの5000mだけは、自分自身と勝負するしかなかった。昨年秋のネルスでのレースと変わっていることは、ハイスピードにも耐えうる新しいシューズと、それ以上にこの8ヵ月でヴァージン自身が成長した姿だった。
(新しい記録は、きっと狙えるはず。それも、13分台を……)
ヴァージンの目が、トラックを鋭く見つめたとき、号砲がスタジアムに鳴り響いた。他の13人が誰一人として付いてこられないストライドで飛び出したヴァージンは、最初のコーナーを曲がり切るよりも前に、ラップ69秒を上回るペースにまで加速した。このところのトレーニングで意識している、ラップ68.5秒にシューズを叩きつけるテンポを合わせたとき、ヴァージンの後ろから早くもライバルの足音が消えた。どの選手も、14分30秒より遅いタイムが自己ベストでは、2位以下の集団に1周あたり最低でも2秒以上の差をつけてしまうのだった。
その代わりにヴァージンの耳に飛び込むのは、早くも2周目から飛び出してくる客席の声援だった。
(もう、私が優勝することは、ここにいる誰もが確信している……。この独走状態のレースで、どれだけ自分の実力を出し切れるか……、みんなそう思っているはず)
ヴァージンは、客席に手を振らない代わりに、ほんの少しだけ客席の声に集中した。その声援を受けたからか、3周目に突入するヴァージンの体は、いつになく軽く感じられた。トレーニングの時にはペースにわずかながらばらつきのあった、ラップ68.5秒での走りも、この時は安定していた。
(3000mを8分35秒……。トレーニングでは見たことがないペースかも知れない)
ヴァージンは、3000mのラインに置かれた記録計を横目で見る。トレーニングの時は感覚に過ぎなかった通過タイムが、ほぼ思い通りのタイムとして表示されていることは、ヴァージンの体に、さらに前に進めるための勇気を与えていた。
(ここまで来たら、世界記録の更新は間違いないはず。でも、ここでペースアップすれば、もしかしたら13分台行けるかも知れない……)
そう思ったヴァージンは、ストライドをさらに大きく踏み込もうとした。その時、一瞬だけ観客席を見つめたヴァージンの目に、真剣そうな表情で見下ろすメリアムの顔が飛び込んだ。
(メリアムさんも、私がどれだけの走りを見せるか……、どれだけのタイムで走り切るかを見ている……!)
ヴァージンは、一度メリアムにうなずいた。ほぼ同時にメリアムもうなずき、顔を上げたわずかな時間だけヴァージンと目が合った。その後すぐにヴァージンがコーナーに差し掛かり、メリアムの表情はヴァージンの目の中では残像として消えていった。
(メリアムさんの前で、絶対いいタイムを出す……!)
トラックを軽く叩きつける「Vモード」のボルテージが、ヴァージンの気持ちとともに高ぶる。ラップ68.5秒から、次の1周で早くも67秒にまで加速し、ラスト1000mに入る前から記録を狙う体制に入った。後ろにライバルはいなくても、ヴァージンは目の前で走っている周回遅れのライバルたちをあっという間に抜き去っていく。
そして、ヴァージンの前に残り1000mのラインが現れる。
(11分26秒、27秒くらい。ここで、いつもの加速ができれば、私は確実に世界記録を2秒以上縮められる!)
ヴァージンは、その右足をさらに力強く踏み出し、体の重心を前に動かした。足元から沸き上がるパワーで、次の一歩を踏み出す。思い通りの加速を妨げる要素は、この日のヴァージンにもなかった。
(65……、31……、57……!)
ヴァージンは、懸命にその脚を前に送り続けた。単純に数字だけを足していくと、14分を切ることも不可能と言えなくはなかった。4200mで記録計を見たとき、12分に変わるか変わらないかの数字が表示されており、その数字ですらヴァージンに勇気を与えるほどだった。
このトラックに、ヴァージンのスピードと気力を緩めるようなライバルは誰一人としていない。ライバルと言えるのは自分自身。そして、未知数の記録を持って復帰するかも知れないメリアムしかいなかった。
(私は、何としても記録を縮めてみせる……!)
ラスト1周を、ヴァージンは出せる限りのパワーで疾走した。目の前に見える白いゴールラインを、ヴァージンの脚は追い続けた。そして、大記録が誕生する瞬間を高速で駆け抜けた。
14分02秒36 WR
(02秒36……。何とか2秒は縮められた……!)
13分台には手が届かなかったが、ヴァージンは記録計に表示された数字を見て、思わず体で喜びを表現した。ほとんど全ての選手を周回遅れにするほど、この日のヴァージンは圧倒的なペースと言っても過言ではなく、ヴァージンの心の中でも途中から記録更新間違いなし思いながら走っていたのも、また事実だった。
ふと観客席に目をやると、先程まで客席の上段に座っていたメリアムが、いつの間にか前のほうに出てきており、じっとヴァージンの足元を見ているようなしぐさを浮かべていた。
(メリアムさん……、私はもうこのタイムを出せる。メリアムさんが来たら、より本気になれる)
心の中でそう叫ぶヴァージンは、レース中と同じようにうなずいた。ほぼ同時に、メリアムも小さくうなずく。
(私は……、もっと速く走れる……。いや、メリアムさんが戻ってくる前に、もっと速く走りたい……!)
ヴァージンは、アメジスタのフラッグを手に取ると、早くも次の記録を夢見ていた。記録計の「14」という文字を、いつの日かヴァージン自身の体で「13」にすることしか、頭の中になかった。
だが、次の夢を見るヴァージンは、インタビューのマイクで現実に引き戻されることになった。