第42話 長距離種目の絶対女王(3)
「10000mでの大記録、おめでとう。次は5000mのあの壁を破るのを期待してますよ」
オメガに戻って最初の夜、代理人ガルディエールから早速ヴァージンのもとに電話がかかってきた。シャワーから出てきて髪の毛をタオルで吹いているときに電話がかかってきたため、ヴァージンは電話口を耳元からやや遠ざけたが、それでもガルディエールの声はヴァージンの耳に大きく聞こえた。
「ありがとうございます。私も、あれだけの記録が出るとは、半分思っていませんでした」
「そうは言うものの、それが君の実力じゃだと思う。それに、10000mには何度も優勝を争ってきたライバルがいたから、というのもあるかも知れないけど」
「そうですね……。ヒーストンさんが、7000mくらいまでかなり粘っていたような気がします」
ヴァージンは、ガルディエールに答えながら、ジェナでのレースのことを思い返していた。特に、ヒーストンがスパートをかけ始めた7000mのところは、ヴァージンが鮮明に覚えているところだった。そして、そのレース後に覚えた喜びのまま、ヴァージンは次への意気込みを語りだした。
「5000mは、必ず今年中に13分台を叩き出します。ガルディエールさんも、見ててください」
「そう言ってくれると、こちらも助かるよ。13分台を出せる女子、というだけでものすごい宣伝だから」
次のレースは、6月のオメガセントラルと告げられ、ヴァージンは電話を切った。
だが、電話を切った途端、ヴァージンはガルディエールの何気ない言葉が胸に引っ掛かり始めた。
(そう言えば、ガルディエールさんはライバルっていう言葉を言ってたような気がする……)
ヒーストンが10000mに専念するようになった今、5000mには14分10秒を切れるようなライバルが一人もいなかった。自己ベストで測れば一目瞭然だった。
(トレーニングでは一人で走っているから、逆に集中できるのかもしれない。レースでも、当然自分のペースで走るけど……、私がいい記録を出すときには、だいたいは私と肩を並べるくらいのライバルがいた……)
あと4秒と少しで、ヴァージンが5000mを13分台で走り切った初めての女子という、何にも代えられない栄光を掴むことになる。レース前から世界記録を大きく上回るタイムを出し続けていた室内5000mや10000mのように、いまトレーニングで5000mを走っても、もしかしたら13分台を叩き出せるかもしれない。だが、一つだけ不安に感じるのは、そのペースについて行けるライバルが、トラックに誰もいないということだった。
(私は、少なくともメリアムさんが帰ってくるまで、絶対女王とか呼ばれるようになるのかな……)
誰もそのスピードに付いて行けない。その意味で、今のヴァージンは絶対女王だった。
だが、その姿は、遠くから見れば孤独に他ならなかった。
(とりあえず、絶対女王なんて言葉を考えるのはやめよう……)
翌朝、いつものようにエクスパフォーマのトレーニングセンターに向かうヴァージンは、何度も自分にそう言い聞かせた。下手に悩んでタイムが伸びなくなるのなら、最初から考えないほうがよかった。
足取り軽やかにトレーニングセンターに入ると、ちょうどロッカールームでヒーストンが着替えをしていた。彼女も同じ時間、トラックでトレーニングを始めるようだ。
「ヒーストンさん、先日はお疲れ様です」
「こちらこそ。この前のレース、グランフィールドのおかげで、私にだって新しい目標ができたと思う」
「新しい目標……。それは、もしかして29分台を出したいということですか」
「決まってるじゃない。サウスベストだって、一度や二度しか出したことのない29分台を、グランフィールドがあれだけ深く踏み込んじゃったんだから、私だってそれに向けて頑張るしかないと思うの」
ヒーストンの目は、じっとヴァージンを見つめていた。あと12秒自己ベストを伸ばせば29分台を叩き出せるその体は、ヴァージンの目の前で心に火を灯しているかのように見えた。
しばらくヴァージンの顔を見つめたのち、ヒーストンは再びバッグに手を伸ばした。
「そうそう。私も、エクスパフォーマにお願いして、グランフィールドのシューズを使っていいことになったの」
「それは……」
ヒーストンは、ヴァージンの目にはっきり見えるように、バッグから真新しいシューズを差し出した。その全てが見えなくても、ヴァージンにはそれが見慣れ過ぎたシューズであることが分かった。
「『Vモード』。さすがに、グランフィールドのレース用に作られたものは使っちゃダメだけど、市販されたものもものすごくパワーがありそうだし、今に女子長距離走のスタンダードシューズになると思う」
「もしかして……、市販されるようになったんですか……」
たしかに、ヒルトップから製品化の話は聞いていたものの、このところヒルトップとは全く連絡を取っていなかった。だが、ヴァージンがヒーストンの持っていたシューズに手を伸ばすと、「ヘルモード」のような他社が模倣して作ったものではなく、ヴァージンがトレーニング中に履いているものと同じ重さ、同じ触り心地が、そのギアを操るヴァージンにも感じられた。
ヴァージンがヒーストンにシューズを戻そうとすると、ヒーストンがヴァージンにそっと告げた。
「本当は、今週末から売り出されるものを、エクスパフォーマが送ってくれたの。序盤から飛ばすメリアムにも、昨日私のと一緒に送ったみたい」
「そう言えばメリアムさん、そろそろ出場資格停止が明けるんですね」
ファーシティのレースで、メリアムがドーピングに引っ掛かったのが一昨年の10月だった。そこから2年と考えれば、あと半年もすればメリアムがトラックに戻ってくる。今でもエクスパフォーマとスポンサー契約を結んでいるので、1ヵ月に一度はその姿を見かけるものの、その復帰時期が具体的に伝えられると今にもこの場所でメリアムが遠くから走ってくるような印象さえ受ける。
「だから、グランフィールド。シューズでのアドバンテージは小さくなった。あとはもう、実力次第ね」
「私だって、負けないです。たぶん、世界競技会の10000mでも世界記録を出すと思います」
ヴァージンがそう言うと、ヒーストンは右手を差し出し、ヴァージンの手を強く握りしめた。
その後のトレーニングでは、前の晩に抱いていたような不安は完全に消え去っていた。いや、消さざるを得なかった。5000mのタイムトライアルに挑むヴァージンの目に、遠くでメリアムが走っているような空気さえ漂っていた。
(ライバルがいないと言って立ち止まっていたら、すぐに抜かれてしまう。そうなる前に、私は13分台を目指すしかない……!)
ヴァージンは、力強い足取りでトレーニングセンターのトラックを駆ける。ラップ69秒ではなく、常にラップ68.5秒を意識して、ヴァージンは周回を重ねていく。その先に見えるのは、これまで序盤からレースを引っ張ることの多かったメリアム、そしてまだ見ぬライバルの存在だった。
(このペースを維持して、最後もいつもの1000mで走り抜けば、間違いなく13分台は出せるはず)
4000m、ちょうど10周が終わるところで11分25秒。そこから65・31・57の「いつものペース」を貫けば、単純に計算すると13分58秒ということになる。ラップタイムをほんの少し変えるだけで、13分台か14分台かがはっきりと分かれることに、ヴァージンは頭の中ではっきりと感じ始めていた。
だが、実際は68.5秒のラップがやや遅れることもあり、心の中で11分25秒を刻んだときには、まだ4000mのラインより少しだけ手前を走っていた。
(最初から13分台を目指すのは、難しいか……)
それでもヴァージンは、4000mを過ぎた瞬間「Vモード」を激しくトラックに叩きつけ、懸命に前へと進んだ。加速は思った通り、自らの脚が出せるだけのスピードへと駆け上がることができた。そして、懸命にゴールへと飛び込む。
「14分03秒00!」
マゼラウスから力強い声でタイムを告げられると、ヴァージンは早足でマゼラウスのところまで歩いた。
「自己ベスト、また更新できました。13分台は無理でしたけど……」
「何を言ってるんだ、ヴァージン。もう、カウントダウンじゃないか。残り3秒の」
「たしかに……、あと3秒で13分台ですものね」
ヴァージンがうなずきながらそう言うと、マゼラウスはやや腰をかがめて、優しそうな表情でヴァージンを下から見上げた。それから、そっとヴァージンに告げた。
「ヴァージンよ。大記録へのカウントダウンが始まったな。もう、手が届いたと言っていい」
今すぐにでも13分台で走れそう、とその時ヴァージンははっきりと感じた。タイムトライアルで力を使い切ったはずの脚が、今にももう一度トラックに飛び出していきそうな、そんな感触さえしていた。