第42話 長距離種目の絶対女王(2)
4月の穏やかな風が、クリタニアの首都ジェナの木々を軽やかに翻す。その木々に囲まれた、ジェナ市立スタジアムにヴァージンが姿を見せる。ヴァージンにとっては昨年の世界競技会以来となる10000mレースの場でも、普段通り取材のカメラが彼女に迫る。だが、ヴァージンはカメラよりも、視界の先に見えるライバルの後ろ姿が気になって仕方がなかった。赤い髪をその風に流しながら歩く姿に、ヴァージンは早足で近づいて行った。
「ヒーストンさん、久しぶりです。今日はよろしくお願いします」
何度もロッカールームなどで出会ってきたにも関わらず、この日のヴァージンは、これまでで一番大きな声でヒーストンに挨拶をした。ヒーストンもすぐに気が付き、ヴァージンに振り向く。
「久しぶりね、グランフィールド。10000mでこうして出会えるの、もう少し先のことだと思ってた」
「私も……、半分そう思っていました。でも、10000mの世界記録は、早いうちに叩き出そうと思っていたので……、少しでも早いレースを狙っていました」
そう言いながらも、ヴァージンは右足の足首を小さく回転させ、勝負に挑む準備を始めた。ヴァージンの右足を一目見たヒーストンは、やや間を置いてヴァージンに尋ねた。
「グランフィールドは、今日、このジェナで世界記録を出す確率、何%くらいだと思ってる?」
「……120%。トレーニングでも、サウスベストさんの記録は余裕で上回っていますし」
「分かった。グランフィールドの大記録を止めるのは、もう私しかいないみたい」
そう言うと、ヒーストンは小さくうなずきながら。ロッカールームに急いだ。ヴァージンもその横について歩くが、それからレース本番まで、二人は時折顔を合わせるだけで、それぞれレースの運び方を考えるだけだった。
(10000mで正式にどれくらいのタイムを出せるか……。ものすごく楽しみになってきた……)
スタジアムのトラックを、赤々と輝く「Vモード」で踏みしめたとき、早くもヴァージンの全身に、現在の世界記録――29分57秒29――を上回るタイムを感じ始めていた。先日、アムスブルグで5000mの室内記録を出した時と同じく、もはや今の世界記録を上回ることは最低限の目標に過ぎなくなっていた。
(少なくとも、私は何度もあのタイムを上回ってきている。本番でそれができないわけがない……)
あれこれとイメージするうちに、時間が早く過ぎていき、やがて整列場所に並ぶよう声がかかった。
「On Your Marks……」
最も内側のレーンにヒーストンが立ち、前回の世界競技会でタイムが思わしくなかったヴァージンは、それよりも4人奥からスタートすることになった。だが、その位置からのスタートであることを気にする必要すら、この時のヴァージンにはなかった。
ヴァージンとヒーストンが、ほぼ同時にお互いに振り向き、それからまっすぐ前を向いた。
(私は……、一気に世界記録を縮めてみせる……)
ヴァージンがそう言い聞かせ、一呼吸置いた後に号砲が鳴り響いた。ヴァージンは、10000m走であるにも関わらず、思わず5000mがスタートするときのようなストライドになるほど、素早く前へと飛び出した。ヒーストンのポジションを狙って、ヴァージン以外にも何人かのライバルが前に出るが、ラップ73秒のスピードで飛び出したヴァージンがその中でも一歩前に出た。
(ヒーストンさんは、ここからしばらく私に付いてくるはず……!)
ヴァージンは、少しずつ脱落しつつある集団の中から、ヒーストンの足音だけが響き続いていくのをはっきりと感じた。ラップ73秒のペースを保ちながら最初の3周を走り終えたところでも、ヴァージンの5歩ほど後ろをヒーストンが懸命に食らいついているようだ。そして、ヒーストンがヴァージンのペースに合わせる展開は、5周はおろか10周目に入っても変わらなかった。
(もう4000mを過ぎている……。それでもヒーストンさんは、私のペースに懸命についてくる……!)
4000mを12分09秒ほどのタイムで駆け抜けたが、ヴァージンは両足にまだまだ余力を残していた。「Vモード」の反発力が、これまで経験したどの10000mのレースよりも楽なレース展開を見せている。それでも、ヒーストンがここまで食らいついていくことが、この先のレース展開を考えれば脅威になりかねなかった。
(どこでヒーストンさんを振り切るか……。10000mのレースだから、まだ勝負をするのは早いし……)
次のカーブに差し掛かったとき、ヴァージンはヒーストンに小さく振り向いた。ヒーストンの足取りに少しずつ余裕がなくなっていくのが、ヴァージンの目にはっきりと分かった。
しかし、やや膠着しかけたレースを先に動かしていったのは、ヴァージンの思惑に反してヒーストンのほうだった。ヴァージンの背後から聞こえる足音がやや大きくなったことに気付いた途端、カーブで突然ヴァージンの目の前にヒーストンの影が現れた。7000mを過ぎ、まだ3000mもあるにもかかわらず、勝負に出たのだった。
(私も、スピードを上げるしかない……)
ラップ72秒~73秒ほどのペースで落ち着いた走りを見せるヴァージンは、ヒーストンがまさにヴァージンの横に出ようとするとき、ストライドをやや大きく取った。迫るヒーストンのペースはラップ71秒前後。ヴァージンは、それよりもやや速いラップ70秒ほどのペースで、一度は迫られかけたヒーストンを突き放す。
だが、ヒーストンにとって危険な賭けは、同時にヴァージンにとっても危険な賭けになりかねなかった。これまで、トレーニング中でさえ残り3000mからこれほどのペースまで上げたことがなく、レース展開としては未知数だった。高速レースにも耐えうる性能を持っているはずの「Vモード」を携えても、レース終盤で得意のスパートを見せられるか、分からなかった。
だが、この時のヴァージンは、少しずつ湧いてくる不安を逆に力に変えていた。
(ここからペースアップできるのだから、トレーニングよりももっといいタイムが出るかも知れない)
ヴァージンは、わずか1周でヒーストンを膠着していた時の差まで突き放し、8000mのラインで自らのタイムを感覚で測ってみることにした。これまでの20周のタイムを積み上げたとき、ヴァージンは心の中でうなずく。
(24分07秒……。このままラップ70秒ペースで走れば、間違いなくサウスベストさんの記録は出せるし……、この段階でこんなタイムなんか出したことがない……)
ペースさえ落とさなければ、10000m世界記録は間違いなくヴァージンのものになる。だが、それはヴァージンにとって最低限の目標に過ぎなかった。残りの周回が少なくなる中で、ヴァージンの脚は本気の力を見せつける瞬間を待っていた。
後ろから聞こえてきていたヒーストンの足音も、もはや感じられないほど遠ざかっていた。
(残り1000mで、いつも通りペースアップしていこう……!)
残り3周のラインに差し掛かる前、ヴァージンははっきりとうなずいた。そして、ラップ70秒ほどだったペースを、体でその変化を感じられるほど上げていく。足元のシューズから燃えるようなパワーが溢れ、ほとんど疲れを感じないその脚は、5000mの時のようにラップ60秒を切るようなスパートを生み出したいと、懸命にスピードについて行こうとした。
(さぁ、私はどこまでタイムを伸ばせるか……!)
残り1周の鐘と同時に、ヴァージンは一気にトップスピードでトラックを駆け抜ける。周回遅れどころか2周遅れのライバルが彼女の前に次々と現れるも、力強い走りで瞬く間に追い抜いていく。ヴァージンにはもう、ゴールテープしか見えなかった。
(きっと……、過去最高のタイムでゴールできるはず!)
29分43秒87 WR
「43秒……っ!」
ヴァージンは、心の中でそう言いかけようとしたが、思わず力強い声をスタジアムに響かせた。記録計の横までゆっくりと進み、改めてそのタイムを見る。もはやヴァージンは、その喜びを体で表現するしかなかった。
(サウスベストさんの記録を、14秒も縮めることができた……!)
ラップ73秒を意識していたはずなのに、少しずつペースを上げていっても最後までペースが落ちることはなかった。10000mの本番のレースではほとんどなかった展開にも、ヴァージンの脚は耐えたのだった。
(次は、もっと行けるかも知れない……)
そう誓ったヴァージンが、もう一度記録計に振り返ろうとしたとき、ヒーストンの汗だくの手がヴァージンの正面から飛び込んできた。
「おめでとう、グランフィールド。これで、三つもレコードホルダーになったのね」
「そう言われてみれば……」
5000mアウトドア、5000mインドア、そして10000m。ヴァージンは、それらすべての今の世界記録を思い浮かべた。そして、ヒーストンに飛びついた。
「自分でも、信じられないくらいです……!」
二人は、お互いを見つめ合った。そのどちらの目も、三つの栄冠に輝いたアスリートを祝福しているかのようだった。