第42話 長距離種目の絶対女王(1)
(フォトブックが届いてる……!)
図らずもマゼラウスからフォトブックの完成を告げられたヴァージンは、その日トレーニングから一目散にマンションへと戻った。ポストに手を伸ばすと、そこには茶封筒が入っていた。そして、その封筒の中に手を入れると、アメジスタで出版されたものとは思えない、滑らかな触り心地の本が入っていることに気付いた。その奥に、手紙らしきものも一緒に入っているようだ。
(父さん、こんなにも早く私のフォトブックを作ってくれたんだ……)
ヴァージンは、それ以上中身を取り出すことはせず、封筒を手前に寄せて、まるで抱きしめるようにして部屋まで運んだ。そして、部屋の机の上にゆっくりと置くと、そこでようやく中身を取り出し始めた。
(さぁ、どういう本に仕上がっているのか楽しみ……!)
フォトブックで使った画像のほぼ全てを一度は目にしたはずのヴァージンだったが、この時ばかりは脳裏にその全ての画像を思い浮かべていた。レース中やそれ以外で、様々な人が撮ってくれた画像は計り知れず、一つ一つ思い出すには時間が足りそうになかった。
ヴァージンは、思い切って封筒の中から完成品を取り出した。
――フォトグラフ ヴァージン・グランフィールド アメジスタを背負い、戦うアスリート。
(すごい……。なんか、表紙だけ見ても私のフォトブックって感じがしそう……!)
文字だけは今やアメジスタ国内でしか見る機会がない写植文字だが、その下にある画像はどれも鮮明に映っていた。それらの画像は、ヴァージンが与えたビッグニュースのものばかりで、そのセンターには一昨年7月、ケトルシティ選手権のゴールの瞬間が飾られていた。すぐ左には、「WR」の文字の横でヴァージンが自らの新記録に喜ぶ画像が添えられ、さらにその二つの画像を囲むように、ヴァージンが初めて世界に飛び出した時のレース、トレーニング風景など、5枚ほど画像が表紙に使われていた。
さらに中身を開くと、長い説明文はなく、どのページも画像と簡単な解説でまとめられていた。表紙に載るようなビッグイベントは見開き2ページにわたる大画像で紹介され、ヴァージン本人が目を丸くするほどだった。
(すごい……。全部カラーで紹介されているし……、どの画像もものすごく迫力がある……)
画像中心の本なので、簡単に流すこともできたはずのヴァージンの手は、いつしかゆっくりとページをめくるようになっていた。9年近くになろうとしているプロの陸上選手としての生活が、画像を見るたびに蘇る。
そして、手を進めていくと、最後の10ページほどのところで画像のほとんどない、文章ばかりのページが目に飛び込んできた。ヴァージンは、ようやくそこで中身を飛ばそうと思いかけたが、その文章こそ最もヴァージンが見覚えのあるものだということに気付き、すぐに目を凝らした。
(私の論文が、全く修正されずに載っている……。しかも、一部じゃなくて、最初から最後まで……)
アメジスタのことを想い、本当に必要なものを心に常に抱いてきたヴァージンの論文を、アメジスタの人々に紹介したい。ジョージは論文の前にそう書き残していた。決して、ヴァージンに許可を取ったわけではなかったものの、見た瞬間にヴァージンは心の中で「ありがとう」の5文字を残していたのだった。
(これこそ……、私がアメジスタのために戦っている理由だもの……。アメジスタに、夢を与えるための施設が必要って思ってくれる人が……、これできっと増えるはず……)
ヴァージンは、気が付けば1時間以上フォトブックを眺めていたにも関わらず、思わず目に涙を浮かべて、見慣れた論文をもう一度読み返した。次に出てくる言葉が分かっていても、一字一句読み返す。
(アメジスタに……、私の想いが届いて欲しい……!)
そう誓って、ヴァージンはフォトブックを閉じた。裏表紙に映える、アメジスタの大地をハイスピードで駆け抜けるヴァージンの画像をも、彼女はその目に焼き付けた。ジョージが撮ったものであることに間違いなかった。
フォトブックを閉じたとき、ヴァージンは脱力感の一つも感じることはなかった。見慣れたものもある内容であるにもかかわらず、体の底から勇気があふれ出るような瞬間が彼女に流れていた。
そして、そのままの勢いでヴァージンは同封されていた手紙にも手を伸ばした。
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ヴァージン・グランフィールド選手へ
父さんは、いつもそんな呼び方はしないけど、今回だけは世界で戦う「選手」で呼びたいと思います。
フォトブックを作るとき、たくさんの画像に胸が躍りました。
今までほとんど画像を見たことがない、その走る姿を見て、
娘がこんな素晴らしい瞬間を与えているということに、改めて気付かされました。
このフォトブック、グリンシュタインの書店に無理を言って平積みで置かせてもらいましたが、
手に取る人はいても、買ってくれる人は見たところいないようです。
でも、見るだけでも……このように紹介するだけでも、きっとその姿に感銘を受けるものだと思います。
次の世界記録を、父さんは待っています。いつか、アメジスタの人々にも、想いが届いて欲しいです。
ジョージ・グランフィールド
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(父さん……。私も、これまで以上に頑張るから……!)
アメジスタ国内では、決してよい売れ行きではないらしい。未だにアメジスタで知られていない証拠なのかもしれない。だが、手に取ってくれる人がいるということだけは、確実な進歩だった。
フォトブックで勇気をもらったからか、その翌日からヴァージンは信じられない数字を連日見続けることになった。ジェナでのレースに向け、10000mのタイムトライアルを連日重ねるヴァージンに、マゼラウスがストップウォッチを何故か裏向きに差し出した。マゼラウスが裏向きに持ってくることなど、これまでほとんどない。
「さっきのタイムトライアル、手ごたえはどれくらいあったか?」
「はい、今日はサウスベストさんの世界記録ギリギリのところまでいったと思います」
「世界記録ギリギリということは、57秒とか58秒とかいうことだな……。お前は、手ごたえすら感じないほどすごいタイムを出した」
そこまで言って、マゼラウスはストップウォッチを表向きに返す。そこには29分45秒83という数字が書かれていたが、ヴァージンは思わずストップウォッチの上下をひっくり返してみようとしたのだった。
そして、すぐに元に戻して息を飲み込む。
(29分……45秒台……。55秒切ってないような気がしたのに……、こんなタイムが出てたなんて……)
メルティナ・サウスベストの持つ、女子10000mの世界記録は、29分57秒29。ヴァージンがその壁を破り続けている5000mとは違って、10000mではかれこれ8年間、その記録で止まっている。自己ベストが世界記録まであと2秒と迫っているヴァージンでも、なかなか10000mのレースに出場する機会がないため、止まった記録を先に進めることができないでいた。
「なんか、10000mをラップ73秒で走っていても、ゴール近くまで全く足が疲れなくて……、思うように走れたと思います。それでも、こんな速いタイムだと思わなかったです」
「ヴァージンよ。それが、実力だ。5000mでさえ13分台に手が届くお前なら、おそらく10000mでも30分を何度でも切り続けるだろうな」
「ありがとうございます……!」
ヴァージンと肩を並べるタイムのライバルが少なくなった5000mと違い、10000mにはそのサウスベストをはじめ、いつ優勝してもおかしくないレベルのライバルが数多くいる。誰も並走しないこともあるトレーニングよりも、本気で戦える本番のほうがタイムが伸びるということを考慮すれば、止まった世界記録をかつてない幅で前に進めることができるだろう。
ヴァージンも信じることができなかったタイムは、その日だけではなかった。その後10回連続で世界記録を5秒以上上回るタイムを、10000mのタイムトライアルで叩き出した。さらに、感覚を忘れないようにするために入れている5000mのタイムトライアルでも、自身の持つ世界記録を上回る14分04秒37を叩き出した。
(なんか……、いろいろな不安要素が消えて……、自分の足が何の躊躇もなく踏み込めるようになっている……)
ヴァージンは、両足で赤く輝く「Vモード」を一目見た。その脚は、早く正式な大会で勝負をしたいとヴァージンに言い聞かせているようだった。
(大丈夫。私は、次のジェナ選手権で、初めて10000mの世界記録を叩き出すの、間違いないんだから……!)
ヴァージンは、右手に力を入れて歩き出した。