第41話 伝えたい アスリートの鼓動を(5)
5000mを走る11人の選手が、勝負のトラックに立つ。トラックの最も内側でスタートを待つヴァージンは、横目でメドゥの表情を見る。以前はヴァージンのほうが全くかなわなかったそのライバルが、今はヴァージンよりも3レーン奥からスタートする存在になっていた。そして、先を走り続けたライバルの口が漏らした「次」という言葉に、トラックに立つ姿を重ね合わせてみる。その二つは、明らかに似合っていなかった。
(メドゥさんは……、トラックに立てば本気で戦ってくる……。そんな目をしている……)
「On Your Marks……」
室内競技場の壁に、スタートを告げる声が幾重にも響き渡る。ヴァージンは、初めて公式の勝負に挑む「Vモード」と、より強くなった自らの右足に目をやった。不安は、何一つなかった。
(よし……!)
号砲に誘われるように、ヴァージンの右足がトラックを叩きつける。軽々と蹴り上げていきながら、普段のトレーニングで見せるストライド――400m69秒――を意識する。先頭集団こそできるものの、200mトラックの最初の半周までに一人、また一人とヴァージンの背後からライバルの足音が消え、1周を過ぎたときには、彼女の耳には早くも数人の足音しか響かなくなった。
(この中に、間違いなくメドゥさんはいるはず……。新しいシューズで、本気の勝負がしてみたい……!)
そう思いながらも、ヴァージンは室内でのトレーニングで慣れ親しんだペースを保ち続ける。数人と思われたライバルの足音は、3周を過ぎた頃に二人、そして1000mのラインを通り過ぎたときに一人になった。その時には、直線に出てきたヴァージンの目に、最も後ろを走る選手の姿まで飛び込んできた。
(室内で……、この場所に周回遅れの人を見たことなんて、これまでなかったはずなのに……)
ヴァージンはそのペースに嬉しい意味で違和感を覚えざるを得なかった。体感的には、1000mで2分53秒ほどだが、これでも以前このアムスブルグのトラックを走ったときと比べれば数秒速くなっている。その分だけ、周回遅れの選手を見るタイミングも早くなっているのは、当然のことだった。
そう思い知ったとき、頭に片隅にメドゥのことが思い浮かんだ。そして、コーナーに差し掛かったときに、目線だけを後ろに流した。金色の髪を揺らしながら、メドゥは懸命にヴァージンを追いかけている。
(このペースまで上がっても、メドゥさんは……、しばらく後ろに付いてくる……)
その差は、まだ7~8m。1000mを過ぎたときのヴァージンが、メリアムやウォーレットにそれ以上の差をつけられているのが当たり前だったことを考えれば、油断してはならない差だった。
(私のほうが、今は速いのは間違いない……。だから、走り終えるまで力を緩めてはいけない……!)
ヴァージンが目線を正面に戻した瞬間、次の足を踏み出すのが少しだけ軽くなった。室内世界記録に挑むアスリートの鼓動が、シューズへのパワーをさらに高めていく。
(3000m。8分41秒……。そろそろメドゥさんを引き離したほうがいいかな……)
ヴァージンとメドゥの差は、その後もほとんど離されることなく、レースは中盤まで進んでいった。400m69秒のペースを意識するヴァージンに、メドゥが意地で食らいついているような足音が響き続ける。その表情は、決してヴァージンには見えないものの、背後から伝わってくる。そして、その張り詰めた空気は、本気のスパートを見せつけようとするヴァージンの意思を確実に高めていた。
(メドゥさんが仕掛けても、仕掛けなくても、3800mあたりから一気にペースアップしよう)
ヴァージンの目に見えるのは、周回遅れの選手ばかり。追い抜くべき相手は、もはやウォーレットの持つ室内世界記録だけだった。しかも、トレーニングでは何度もその壁を破っている。だからこそ、ヴァージンはラストスパートへの強い意思を体じゅうに伝えなければならなかった。
足音と体の気配から、メドゥとは15mほどしか離れていない。そう悟ったヴァージンは、勝負と決めたラインを飛び越えた。
(新しいシューズで……、私は本気の走りを見せる!)
3800mからカーブに突入したヴァージンは、これまでよりもはるかに力強く足を踏み出し、トラックを叩きつけるペースを一気に速めていった。「Vモード」のパワーが、足から体全体に広がっていくように感じられる。しかも、そのシューズから駆け上がっていく力は、限界には程遠い。ヴァージンの脚さえ許せば、いくらでもパワーを見せつけるだけの体制ができていた。
(ボルテージが上がっていく……。シューズと私の、より速い室内記録を見せつける、勝利への力……!)
4400mを過ぎたときには、もはやメドゥの足音は聞こえず、コーナーに入ろうとするメドゥの姿を、コーナーの出口あたりから捉えられるようになっていた。メドゥの体は、ヴァージンが遠くから見るだけでも苦しそうだ。ヴァージンの本気のペースに、かつての女王は食らいつくことさえできそうになかった。
(あとは、私がもう一段ペースを上げられるかどうか……!)
ヴァージンは、4600mを駆け抜けようとする。アウトドアレースであれば、残り1周だ。ライン脇に見える記録計には、13分13秒の文字が刻まれていた。
(何秒で駆け抜けられるか、ものすごく楽しみになってきた……!)
ヴァージンは、さらにペースを上げるために、右足をより小刻みに叩きつける。それでも、足から送られてくるパワーはびくともしない。むしろ、ヴァージンの本気のスピードを支えるかのように、シューズのほうがパワーを燃やしているように感じられる。
(速い……。速い……!久しぶりに、本気のスピードで走っているような気がする……!)
力強いストライドでコーナーを回り切り、ヴァージンはゴールラインを全速力で駆け抜けた。
14分10秒32 IWR
(信じられない……!)
ヴァージンは、急いで記録計を覗いた瞬間、クールダウンを忘れてそのタイムを二度見した。そして、取材のカメラが駆け寄ると、記録計の上に腕を載せ、足をクロスさせたままその隣に立った。メドゥがゴールラインを駆け抜けるときにはもう、ヴァージンはカメラに向かって喜んだ表情を見せていた。
「室内記録、おめでとう……。途中まで行けると思ってたけど、全然追いつけなかった……」
息と息の間に言葉をこぼすメドゥを、ヴァージンは胸元で抱きかかえて、その肩を二回、三回と叩いた。
「ありがとうございます。私も、このタイムはトレーニングでも出したことなかったので……、1周間違えたかと思ってしまいました。でも、体で刻んだ時間と、この足は嘘をついていなかったみたいです」
「やっぱり、ヴァージンもこのタイムを信じられないくらいになってる……」
そう言うと、メドゥは一度ヴァージンの胸から離れ、今や追いつける相手がいなくなったライバルの目を見た。そして、再びヴァージンの胸へと飛び込んだ。
「ヴァージン。私は、もう少し戦える……。いや、戦いたい……」
「メドゥさん……」
メドゥのほうが疲れ切った表情を見せる中、ヴァージンは静かに言葉を返した。メドゥの汗だくの体やウェアから、勝負に挑もうとする情熱が沸き上がっていた。
「そして、今のヴァージンに一度は勝つ。それまでは、私、引退なんかできない」
「そうメドゥさんが言ってくれるのなら……、私だって本気で戦えます」
ヴァージンは、そこまで言ってから力強くうなずいた。もはや、先程まで5000mを走り切ったことすら忘れたかのような動きで、ヴァージンはその想いをはっきりと伝えた。
「自分というライバルとしか戦えない勝負よりも、いつか私を追い越すようなライバルと戦える勝負のほうが、私は走っていて楽しく感じるのですから」
(アルデモードさん……、どこまで画像撮ってくれたんだろう……)
ロッカールームでトレーニングウェアを羽織ったヴァージンは、ようやく画像のことを思い出した。トラックの上に響くライバルたちの鼓動には気付いていたが、何百人もの観客が同時に画像を撮る中で、アルデモードが座っていると思われる方向から聞こえる音を察することは、まず不可能だった。
(でも、最後の私は周回遅れの選手を抜かすわけでもなく、完全に独走状態でゴールを駆け抜けた。きっと、ものすごい画像が撮れているに違いない……)
バッグを肩にかつぎ、ヴァージンは室内競技場の出口まで進んだ。すると、選手専用出入口の前でアルデモードが待っていた。
「おめでとう。僕が思っている以上のスピードで君が走ってて、ものすごくワクワクした」
「えぇ……。久しぶりに自分のスパートが冴えたような気がします」
「なるほどね。でも、僕が撮った画像は、そのスピードをはっきりと見せられると思うよ。ここじゃ恥ずかしいから、カフェで話そうよ」
「いいですね。早く見たいです!」
そう言うと、ヴァージンはアルデモードの手を掴み、一緒に歩き出した。