第41話 伝えたい アスリートの鼓動を(2)
「フォトブック……」
オメガでは聞き慣れた言葉を聞いて、ヴァージンは思わずジョージの言葉を復唱した。彼女の目の前で、ジョージが一度うなずき、それから再び口を開いた。
「ヴァージンも知ってるだろ。写真と簡単な説明が載っている本のことだ。アメジスタにはカメラの台数が少ないから、それほどフォトブックが出回っているわけじゃないが、逆にアメジスタの人々には新鮮に映るだろう」
「たしかに、グリンシュタインの街中に行っても、ほとんど文字ばかりの本しか置いてないですものね……」
「だからこそ、人々の目に付くことは間違いない。それに、言葉ではうまく伝わらなくても、写真なら伝わる。ヴァージンが走る姿を見たことのない人が、スタジアムで走る姿を見たら、おそらく見方が変わってくると思う」
自信に満ちたジョージの口調には、時折熱さえこもっていた。ヴァージンのことを、この国の中で最も知っている身として、既にビジョンが固まっているかのように、ジョージは説明した。
「売れると信じてます。一度もテレビや新聞で紹介されてないですし、たまに入ってくる『ワールド・ウィメンズ・アスリート』を手に取らない限り……、アメジスタ人の私が何をしているかも分からないですから……、父さんの出したフォトブックが人目に付くようなところに置かれれば……」
「決まりだな。だから、父さんのところに、写真を送って欲しい。それに、何なら今日から撮ってもいいんだぞ。父さんのカメラを持って出たようだし」
ヴァージンは、ジョージの声を聞いた瞬間、家を出てから小さなバッグにしまっていたカメラに気付き、そっとジョージに差し出した。そのカメラで、一人の夢を叶えることはできなかったが、たまたま手にしていたカメラが新しい可能性を拓こうとしていた。
「父さん、もしかして……、アメジスタでトレーニングしている姿とか撮ってくれるんですか」
「そうだな。トラックに立っている姿がフォトブックのメインにはなるけど、トラックの上に立つまでに様々なシーンを経験するのがアスリートだと伝えたいからな」
「分かりました。ありがとうございます。いつものトレイルランニングのところで撮りますか」
「そうだな……。同じところを何周もしているほうがやりやすいけど……、アメジスタで走っていると分かるのは、たぶんトレイルランニングかも知れないな」
ジョージはそう言うと、トレイルランニングでヴァージンが走り出す道をやや早足で歩きだした。10分後にヴァージンが出る、という言葉だけで、ジョージがおおよその撮影位置を掴んだようだ。既にトレーニングウェアで出ていたヴァージンは、軽く準備体操をしながら10分の時を数えた。
(「Vモード」でトレイルランニングに挑むのも、初めて……。エクスパフォーマのシューズで初めて挑んだときには、前の記録をかなり縮めたけど、今日もきっとそうなるはず……)
体が10分を数えた瞬間、ヴァージンの右足がアメジスタの大地を軽く蹴り上げた。プロになる前から走り続けてきたこの道も、シューズを変えるたびに力強く踏みしめているようにヴァージンには感じられる。
グリンシュタイン中心部に続く通りから、森に分け入っていく道に入ると、ヴァージンは軽くスピードを上げた。いよいよ、トレイルランニングの本番だ。足の裏に全く衝撃を感じないまま、なだらかな坂を上がっていく。
(父さん……!)
その坂の途中で、やや低い位置でカメラを構えたジョージが、ヴァージンの右斜め前に見えた。使い慣れた手つきで、ジョージが遠くから1枚、近くに迫って1枚、真横から1枚と、次々とシャッターを切る。ヴァージンが右足を叩きつける間隔が、ほぼ写真1枚分の間隔だ。そして、後ろ姿を撮影する音が小さくなると、ヴァージンは再びトレイルランニングに挑むが、普段のトレイルランニングとは違う追い風が吹いているように思えた。
(父さんが……、後ろから支えているような気がする……。アメジスタのみんなが……、いつか応援してくれるって信じているように……、父さんの気持ちは熱かった……!)
トラックで戦う時のような声援は聞こえないものの、ヴァージンはその体に激しいパワーを感じた。体から沸き上がるパワーは、大自然の上を駆ける「Vモード」にもはっきり伝わり、次の一歩を力強く踏み出していく。体感的にも、これまで履いてきた「マックスチャレンジャー」との差がはっきりと伝わる。
(私は……、アメジスタのために……、戦い続けることに決めた……。私の気持ちは、いつか伝わる……)
上り坂が下り坂に変わり、深い森の先に明るい光が差し込んでくる。いよいよ、トレイルランニングのコースも終盤に差し掛かる。その時、ヴァージンは通りに出るところで再びジョージがカメラを構えているのを見た。
(大きく曲がるところで……、父さんは撮ろうとしている……!)
ヴァージンは、これまで何十回、何百回とこのコースを走ってきているが、写真に撮られたことなど一度もなかった。それでも、コース終盤に現れるこの大カーブだけは一番力強いアングルになりそうだと分かっていた。ジョージも、その想いを心の中で汲み取ったとヴァージンは信じた。
そして、カーブへと差し掛かり、特に力強い一歩をジョージに見せつけた。その瞬間に、カメラのシャッターを切る音がヴァージンの耳にはっきりと伝わった。
(30分33秒39……)
正確に10000mとは言えないコースで、かつ高低差もあるルートながら、じゅうぶん女子10000mで戦えるタイムを、ヴァージンのストップウォッチは示していた。初代「マックスチャレンジャー」で挑んだときよりも46秒もそのタイムが縮まっていた。
(なんかすごい……。ずっと気持ちよく走れたような気がする……)
ヴァージンが大きく息を吸い込んだとき、後ろから全速力で走ってくるジョージの足音がヴァージンの耳に響いた。トレーニングでも汗だくで走り終えるヴァージンとは比べ物にならないほど、ジョージの体は疲れ切っていた。
「父さん……。私が画像を撮って欲しい場所を狙って撮った……」
「そう言ってくれると……、父さんは嬉しいな……。でも、ヴァージンの足が速すぎて……、ほとんどブレた」
現像しないと画僧を出すことはできないものの、ジョージは何となくの感覚でそう言った。アメジスタ人の中ではカメラを扱った回数が多いはずのジョージでさえ、一人の女子が本気で走る姿を撮るのは難しそうだ。
だが、ヴァージンがジョージに「ごめん」と言いかけたとき、ジョージの右腕が先程のカーブに伸びた。
「でも、森から出てくるあの場所は、たぶんタイミングが合っていた。かなりのスピードで曲がっている姿が、はっきりと撮れたような気がするんだ。この1枚だけは、間違いなくフォトブックに使うよ」
「ありがとうございます……!」
ヴァージンの目が、ジョージに微笑み、そして希望へと続くカメラに移った。カメラから、今にもスタジアムと同じ熱狂が溢れるかのようだった。
(アメジスタに、希望はまだ取り戻せるはず……。少なくとも、私はそれまで走り続ける……)
絶望の中に、かすかな希望を感じたヴァージンのアメジスタ滞在も終わり、週に1往復しかないオメガ国行きの飛行機にヴァージンは乗り込んだ。ほとんど整備されていない空港が飛行機の窓から見えても、この時のヴァージンには、それが輝いているように見えた。
だが、窓の外から正面に目を戻そうとしたヴァージンは、聞き慣れた声を耳にする。
「この飛行機で出会えてよかったよ」
(えっ……、もしかして……)
ヴァージンがほとんど振り向かなくても、飛行機の照明に輝く茶髪がその目に飛び込んできた。同じくアメジスタからオメガに戻ろうとしている、アルデモードだった。しかも、席はヴァージンの隣だ。
ヴァージンは、彼の目を見た瞬間、かすかに下を向きながら話し出した。
「アルデモードさん……。あの時は、本当に何も言ってあげられなくて……」
「いいんだよ。話を切っちゃったのは僕なんだし……。それに、今の君の表情を遠くから見ていたら、これからもアメジスタ人として戦い続けるように思えてきたんだ」
「鋭いです、アルデモードさん。やっぱり、捨てることはできませんでした」
ヴァージンがそう言うと、アルデモードは一度うなずき、それからバッグに入っていた小さめのノートを取り出し、何度も送られてきた手紙ではまず見ないような、走り書きのメモをヴァージンに見せた。
「僕、考えたんだ。君の走ってる姿をもっと伝えるために、アメジスタで君のフォトブックを出そうかなって」
(えっ……)
小さく微笑むアルデモードを、ヴァージンは目を丸くして見つめ、思わずアルデモードに体を乗り出した。
「私の父さんも、同じことを考えているんです……。父さんは、文筆で生活しているから……、作ろうと思えばフォトブックを作れると思うんです」
「じゃあ、僕が離脱している間だけでも、君の出るレースで画像をいっぱい撮って、君のお父さんの作るフォトブックに協力してあげるよ。もし、決まっているレースがあったら教えて欲しいな」
「ほ……、本当ですか……!」
ヴァージンは、隣同士の席であるにもかかわらず、アルデモードに飛びついた。そして、決まっているレースの開催地を伝えると、どこにでも行くというアルデモードの声を聞いたのだった。
(フォトブック、かなり順調に作れるような気がする……!)
その時、オメガ行きの飛行機がゆっくりと動き始めた。次に戻って来たときこそ、ヴァージンの名がより多くの人々に伝わっていることを祈りながら、ヴァージンはアメジスタを後にした。