第41話 伝えたい アスリートの鼓動を(1)
――アメジスタ人であり続けたいんなら、夢なんて持つな!
(違う……。今のアメジスタに必要なのは、そんな閉ざされた心じゃない……。でも……)
再び、脚以外の何もかもを失ったヴァージンは、目に涙を溜めながら、途方もなく続く実家までの道をとぼとぼと歩いていた。時折立ち止まって、大聖堂の塔を見るが、その大聖堂すら普段よりぼやけて見えてしまう。
(私が、アメジスタを背負って走り続けてることを……、分かってくれないどころか……、アメジスタ人じゃないとか言って……、線引きしようとしている……)
アメジスタの国旗をデザインしたレーシングトップスを着てトラックに立ち、他の国で生まれた選手と一緒に同じ距離を走り、そしてライバルに打ち勝ったときにはアメジスタの国旗を翻して、彼女の戻るべき場所を世界中の人々に見せてきた。ヴァージンに限らず、いや、陸上選手に限らず、祖国を離れて戦い続ける全ての人間にとって、生まれ故郷こそがいつかは戻るべき場所という特別の存在だったはずだ。
しかし、ヴァージンは祖国の土を踏んだところで、その努力を認めてもらえず、回を追うごとにアメジスタの人々の見る目が冷たくなっていくだけだった。トレーニングウェアの上に、ここまで涙を流したことなど、ヴァージンの8年以上に及ぶ競技生活の中でほとんどなかった。
「私の戻るべき場所って……、どこなんだろう……」
ヴァージンは、一度涙を拭って空を見上げた。その空は、世界中のライバルの祖国へと続いていて、同じ空の下にそれぞれの戻るべき場所があることは間違いなかった。ただ一ヵ所、アメジスタの空の下だけ汚れていた。
「トラックの上で、私は戦い続けてきた……。まだ、私はトラックを去ったりはしない……。でも、それ以外に帰るべき場所は……、ないのかも知れない……」
青く輝くトラックは、確かにヴァージンにとってこの上ない勝負の場だった。だが、誰もがそことは別の場所を心の中で背負っていて、祖国で応援してくれる多くのファンのために走り続ける。
もちろんヴァージンには、支えてくれる数多くの人々がいる。世界中で彼女に希望を見出す人々のために、走り続けることもできる。けれど、ヴァージンの生まれ育った大地からの声は、そこに届かない。
小さくため息をつき、ヴァージンは目の高さを元に戻した。
「青い空に流されて、どこかに飛んでいきたい……。今のアメジスタに、希望は何一つない……」
これ以上、アメジスタを背負えない。
世界一貧しいとされるその国で生まれ育った、一人の女子アスリートは、心の中で自らにそう言い聞かせた。
しかし、そう言い聞かせたところで、涙は止むことがなかった。
結局、ヴァージンは実家まで涙ながらに歩き続けた。
その表情で戻ってしまったヴァージンは、庭作業をしていたジョージに呼び止められた。
「なんか、悲しいことでもあったんか……」
「アメジスタのみんなが、すごく冷たいって……、思い知ったんです……」
涙声をはっきりと聞かせるように、ヴァージンはジョージにそう告げた。すると、ジョージは手に持っていたバケツを力なく落とし、ヴァージンに駆け寄った。
「ヴァージンが何をされたかは、父さんも分からない……。でも、アメジスタに希望がない今を変えたいって言って、世界で戦っているのは……、間違いないはずなんだけどな……」
「父……、さん……」
そう言って、ヴァージンは首を一度激しく横に振り、そのままジョージのもとに飛び込んだ。
「こんな、誰も応援してくれないアメジスタで……、私はどうすれば……、いいんですか……!私……、この国に帰ってきて、何度バカにされてきたか……、分からないんです……」
「ヴァージン……」
数秒の間がお互い長く感じられた後、ジョージがヴァージンの肩を掴んだ。ただ一人、ヴァージンを抱きしめたジョージの目も、彼女に呼応するかのように潤んでおり、今にもヴァージンの腕に熱い雫を流そうとしていた。
そして、言葉を選ぶように唸った後、ジョージがヴァージンに寄り添うように目を合わせた。
「そう思っていることこそ、ヴァージンがアメジスタをどれだけ大事にしてきたか、じゃないのか」
「大事に……、って言われても……、もう耐えられないです……」
「ヴァージンが、こんな……悲しい国を捨てるのは簡単だ。でも、そんなアメジスタを背負って戦う道を選んだ。そのことを含めて、世界中のみんなが応援してくれるんじゃないのか……」
ジョージの表情は、まるで物語でも語りかける、幼い頃のヴァージンが見た父にそっくりだった。ヴァージンの目から自然と涙が消えていき、ジョージと、その向こう側にある故郷の景色が鮮明に映った。
「ヴァージンがアメジスタを捨てたいなら、捨てていい。ただ、それは今までアメジスタを背負って戦った全てを、ゼロにするようなものだからな」
(父さんは……、あれだけアスリートになるなと言ってたのに……、今はもうそんなこと言ってない……。私がどれだけ活躍しているか……、走る姿が見えなくても知ってるから……。だから、アメジスタのみんなだって……、今は分かってくれなくても……、いつかは勇気や希望を感じ取ってくれるはず……)
生まれたときからどれだけ見てきたか分からないジョージの目に、一つの希望と、進むべき道が見えた。青い空に吹かれて、今までの彼女を捨てる勇気は、思った以上に小さかった。
「父さん……。私、まだアメジスタのために……、走り続けます……!」
やや力強い声が、ヴァージンの決意であるようにアメジスタの空を駆け抜けていった。その声に、ジョージは大きくうなずき、ヴァージンの肩を軽く叩いた。そして、語り掛けるような表情から笑ってみせた。
「父さん、知ってたからな。ヴァージンの心に、常にアメジスタがあるということを」
「えっ……、知ってたって……。今までの私を見てて、そう思ったんですか……」
「そうじゃない。私の机の上に、ヴァージンが一生懸命書いた卒業論文が、置いてあったんだよ」
(そう言えば……)
ヴァージンは、軽く息を飲み込んだ。ジョージの書いた本を棚に戻した時にカメラを見つけたので、バッグから出してきた卒業論文がそのままの状態で机の上に置かれていたことなど、完全に忘れていたのだ。
「帰る前に見せようと思っていた論文を、父さんは見たんですね……」
「最初だけ、覗こうと思った。ただ、論文の出だしを読むだけで、アメジスタ人から失われた大切な何かを思い出させてくれそうで……、読み進めていくうちに最後まで読んじゃったんだよ」
「最後まで……。ということは、アメジスタの……荒れたスタジアムをどうにかして欲しいってところまで……」
ヴァージンは、再び何かに支えられるかのような感触を覚えた。論文とは真逆の道を歩み続けるアメジスタに、かすかな光が差し込み始めたように見えた。
「勿論だ。それと同時に……、自分が少しだけ情けなく思えてきたよ……」
「父さん……。どうしてそう思ったんですか……」
ヴァージンは、やや戸惑うかのような表情でジョージの目を見つめた。すると、ジョージは何度か首を横に振って、間を置いた。
「父さんはこの前、アメジスタの分断を分析した本を書いた。ただ、あの本は分断した側から依頼されたものだ」
「もしかして、父さんの意見じゃない本を作ったんですね……」
ヴァージンは、そこまで言って思わず口を手でふさいだ。だが、ジョージは気にしていない様子だ。
「まぁ、そういうことになる。あの本で、やたら排除という言葉を書いたが、そう書かなければ読む側は面白くない。ただ、あの本がもしボーダーから出て、分断された側の目に触れたらと思うと、悲しくなる」
やや目を細めながら言葉を続けるジョージを、ヴァージンはじっと見つめていた。
「それに比べて、ヴァージンの論文は、アメジスタの人々に向き合っているような気がした。今すぐには無理かもしれないが、何年、何十年と時が過ぎていく中で、ヴァージンのような勇気あるアメジスタ人が、この国を明るい未来へと導いてくれるかもしれない。そう思ったんだ」
「私だって……、そう思ってます。そう思いながら、世界で戦ってるんです……!」
ヴァージンの声が、思わず裏返った。ジョージに伝えたい気持ちが、言葉より先に出てきそうだった。
その気持ちがジョージに届いたとき、彼の頭は力強くうなずいた。
「なら、その戦う姿を……、アメジスタのみんなに私が伝えよう。何を言われてもいい。世界で戦うトップアスリートの父親として、できることはこれしかないと思った」
「何を……するつもりですか……」
ヴァージンの目が丸くなる。その目が見つめる中、ジョージは鋭く、短い言葉をアメジスタの空に伝えた。
「フォトブックだ」