第5話 遠いメドゥの背中(3)
時折冷たい風が吹きつける、ネザーランドのアムスブルグ国際空港にオメガからの飛行機が着陸した。オメガに比べれば大国ではないが、ネザーランドに渡る飛行機は日に何便か出ている。そんな中で、偶然にも程があるが、セントリック・アカデミーから大会に出場するアスリートだけで10人ほど同じ飛行機に乗り合わせていた。
「コーチ……。飛行機の中でイメトレなんて、やっぱりできませんでした」
「そうか……。だが、グラティシモのように、四六時中レースのことを考えるというのも考え物だぞ」
「そうですか……」
到着ロビーへと続く通路で、ヴァージンの10人ほど前に歩くグラティシモは、重そうな水色のスーツケースを軽々と引いて、やや大きな歩幅で歩いている。この歩幅だけは、身長の差でヴァージンはどうしても詰めることができそうになかった。
「で、今日はこれからどうするんですか」
「そうだな、直接スタジアムまで行ってみるか。もう、選手のために解放していると聞いたからな」
「本当ですか!……早くトレーニングしたいです!」
やや大きめのボストンバッグを抱えていることを忘れ、ヴァージンは思わず手を叩いた。そして同時に、このネザーランドの新鮮な空気を思いきり吸い込んだ。
空港の大きな窓から見える青空は、彼女の到着を待つかのように澄み切っていた。
「ヴァージンも、そのまま競技場に向かうの」
「はい……」
今回の大会の会場となるアムスブルグ・インドアアリーナのそばを通る路線バスに足を踏み入れると、一番前の座席にグラティシモは座っていた。コーチのフェルナンドは、彼女のスーツケースをホテルに届けているらしく、バスには乗っていないようだ。
「私も、早く競技場の雰囲気に慣れたいと思って」
「その方がいい。この前、グランフィールドに話したと思うけど、あそこは随分と設備が整っているから」
「練習のスペースも広いし、室内競技場にするのが勿体ないくらい……、って言ってましたよね」
「そうね。まぁ、聞くより見てちょうだい」
「はい」
そう言うと、グラティシモはまたヴァージンから視線を反らして、正面を向いて座りなおした。バスの空調から出る心地よい温風が、グラティシモの黒のツインテールをかすかに上下に揺らしていた。
その時、ヴァージンはバスのフロントガラスの奥に、一人の女性の姿を見た。ヴァージンよりも少し濃い金色の髪に、大人びた黒い上着を纏っている。
(あっ……)
ヴァージンは、その女性の姿をこれまで何度も見ているような気がした。背筋がピンと伸びており、歩き方にも貫禄がある。そして、ヴァージンの目に何よりも止まったのは、鍛えられた肉体。それだけでも、彼女が誰であるか分かった。
そして、その女性はゆっくりと黒いタクシーに乗り込んだ。
「い、い……、いま……!」
「どうした、ヴァージン」
かすかに震えた声に、マゼラウスは思わずヴァージンの方に顔を向ける。マゼラウスは、フロントガラスに映ったその者の顔を見ていなかったようだ。
「コーチは、見てないんですか。たぶん……、メドゥさん……」
「メドゥ……か。同じ飛行機で来たのか?」
「多分……」
ヴァージンは、メドゥらしき女性を乗せたタクシーが遠くに行ってしまうと、首を垂れてため息をついた。すると、一番前に座っていたグラティシモが、再びヴァージンに顔を向けた。
「私は、メドゥに会ったけど」
「グラティシモさん……」
「搭乗ゲートで、ばったり会ったの。同じ便になるなんて思わなかったし、ちょっとだけ話してきた」
「まさか、話したんですか?」
「そう」
グラティシモにとって、永遠のライバルとも言うべき存在に、彼女がそんなにたやすく話しかけることはないとばかり思っていたヴァージンは、グラティシモが珍しく見せる軽い表情に釘付けになった。
「だって、私とメドゥは同じオメガの代表。レースではライバルだけど、やっぱり長い付き合いだし、会ったら話さなきゃいけない」
「なるほど……」
ヴァージンは、思わず首を縦に振った。ちょうど、ジュニア大会の前後にシェターラと仲良くなったときのことを、ヴァージンは今になって思い返した。
しかし、そこまで言ったグラティシモは、少しだけ目を細めて、ヴァージンを見つめている。和やかそうだったグラティシモの表情は、既にヴァージンの目からフェードアウトしていた。
「その時に、グランフィールドのことも、メドゥに紹介した」
「本当ですか?」
「本当よ。この世界、新しいライバルが出たら、その情報をできるだけ詳しく教えてあげないといけないし」
「べ、別にいいですけど……。メドゥさん、何て言ってましたか」
ヴァージンは、自分の脳裏に、雑誌で見たメドゥと、先程見かけたその女性の後ろ姿を重ねてみせた。今や、女子長距離走の頂点に君臨するメドゥを想うと、時折体が震えて仕方がなかった。
だが、グラティシモは、しばらく首を横に振ったのちに言った。
「こんなタイムじゃ、勝負にならない。そう言ってた」
(違う……。こんなはずじゃない……)
落胆しようとする体の動きを抑えて、ヴァージンは懸命にグラティシモの表情を見つめ続けた。周りを流れる景色の変化を感じ取ることさえ、ヴァージンにはできなかった。バスが時間になり発車したことすら、気が付くこともなかった。
「私は、メドゥさんを……、一度でいいから打ち負かしたいのに……」
「今は、無理よ。だって、メドゥの自己ベストは、14分23秒05……。ワールドレコードじゃない」
「そうですよね……」
ヴァージンは、それでもため息をつかなかった。昨年秋に、メドゥが世界記録を更新したというニュースは、セントリック・アカデミーでトレーニングを重ねるヴァージンの耳にも、ほぼリアルタイムで飛び込んできていた。それでも、ヴァージンは顔に悔しさをにじませていた。
「でも、やってみないと分からないっ!」
「グランフィールド……、すごく強気……」
「グラティシモさん。たしかに、私は今回の大会が一般初挑戦です。みんな強いってことは分かります」
やや目を細めて、グラティシモを見つめるヴァージンの姿に、マゼラウスのみならず、同じように競技場に向かおうという雰囲気のアスリート全てが釘付けになっていた。
「けれど、レースは何が起こるか分からないし、何より私は、世界の強豪を追い抜くために今まで真面目に練習してきたのに……」
ヴァージンは、やや歯を食い縛りながら訴え続ける。そして、肩に力を入れて、最後にこう言い放った。
「……メドゥさんに負けて当然だなんて、そんなこと思って走るくらいなら、最初からこんな大会に出る資格なんかない!それが、大会に出る者の礼儀だと思う」
(……言っちゃった)
グラティシモを見つめるヴァージンの視界は、突然真っ暗になり、目がわずかながら潤んだ。
もはや、ヴァージンにその言葉を覆すだけの心の余裕はなかった。
(怒られるし……、嫌われる……)
「ヴァージン。何てことを……」
マゼラウスの掛けた言葉に、ヴァージンはガックリと首を垂れ、両手で顔を押さえた。
「……ごめんなさい」
ヴァージンの覆われた顔は、もう素の表情を見せることを忘れたかのようにくしゃくしゃになりかけていた。
「ヴァージン……。顔を上げてくれないか……」
「嫌です……。あんなことを言っ……」
ヴァージンは、何度も体を震わせると、ついに目から冷たい滴がしたたり落ちた。しかし、その涙を温めるかのような声が、ヴァージンの耳にささやいてきた。
「グランフィールド。どうして泣いてるの」
「グラ……ティ……。私……」
「あなたの言ったことは、何一つ間違ってないのに……」
「えっ……」
ヴァージンは、ゆっくりとくしゃくしゃの顔を上げた。あれだけ険しかったグラティシモの表情は、すっかり穏やかになっていた。
「勝負の世界って、そうあるべきだと思う。私も、メドゥもそう思っている」
「メドゥ……さん?」
ヴァージンは、泣くのを止めて、小さな声で呟いた。
「メドゥ、あの後にこう残してくれた。グランフィールドには熱い心があって、もしかしたらいつか私を超える存在になる……」
「そ……」
「グランフィールド、大の努力家じゃない。心熱き挑戦者じゃない!私だって、隣で見ててそう思うもの。だから、メドゥにも練習風景とか言ったら、こう答えてくれた」
グラティシモは、何度もうなずきながら、ゆっくりと言う。
「その気持ちを、大会でぶつけてみなさいよ」
「ありがとうございます!」
そう言うと、ヴァージンはまだバスが動いているのに席を立ち、グラティシモの目の前まで進み、再び涙を流した。そして、バスが止まると、二人は固い握手を交わした。
(メドゥさん……。グラティシモさん……。ありがとう……)
ヴァージンとグラティシモの姿に、マゼラウスは穏やかな表情で見つめていた。今や最強とも言えるメドゥへと立ち向かう二人のアスリートの心に、アムスブルグの街で再び火が灯った。