第40話 夢を追い続ける力が敗れた日(6)
「ただいま!」
グリンシュタイン郊外の実家にヴァージンが戻ったのは、その日の夕方になってからだった。ショックこそ受けたものの、できる限り表情に見せないように、深呼吸して扉を開いた。その奥には、ジョージが待っていた。
「また大きくなったな、ヴァージンよ。この前の手紙の返信で、随分といい結果を残していると聞いたぞ」
「はい……。世界記録も取り返しましたし、この新しい、私専用のシューズも頂いたので、もっと速く走れそうな気がします」
そう言って、ヴァージンは聖堂でのレースから履き続けている「Vモード」を片足だけ脱ぎ、「V-Mode」のロゴが入ったかかとをジョージに見せる。すぐさま、ジョージはそれを手に取る。
「おお、前にうちに持ってきたものよりも、力強そうなデザインだ。少しだけ重いけど、大丈夫か」
「重くなったのは、私の走り方に合わせてくれたからです。私、レースで結構冒険しますから」
「そうか……。ところで、ヴァージン。今日は戻ってくるということで、海鮮バーベキューでもしようかと」
「父さん……、今までこの家でバーベキューなんかやったことないのに……」
すると、ジョージは庭に向かって真っすぐ腕を伸ばし、前にヴァージンが来たときにはなかったはずのバーベキューセットを彼女に見せた。それを見たヴァージンは、思わずバッグを下ろし、庭に駆けだした。
「父さん、これどこで買ったんですか?」
「それはな……、臨時収入があってな……。アメジスタ政府からお金をもらったんだよ」
「アメジスタ政府から……。そんな予算、アメジスタにないって論文書いてるときに学びました……」
ヴァージンは、困惑した表情をジョージに見せる。すると、ジョージはすぐさま家の中に入り、一枚の封筒を持って戻ってきた。その封筒には、何やら手書きで文字が書かれていた。
(もしかして、私が世界で活躍するようになったことで、アメジスタ政府が選手の私を援助するように……)
ヴァージンは、その文字を読もうとしても、その可能性を頭から捨て去ることはできなかった。そうだとすれば、つい数時間前に広場で夢を否定されたことが、まるで180度ひっくり返るような展開になる。
そして、封筒を手に取った。
「書籍『アメジスタの貧民層を隔離した理由』100冊売上達成報奨金……、って書いてますね」
「そう。この数年で、グリンシュタインなど多くの街で貧民層を隔離したじゃないか。その理由をいろいろ書いた本なんだよ。アメジスタ政府から、素晴らしい本だと褒められて、100冊ぶんの売り上げが全額入った」
「すごいじゃないですか」
ヴァージンは、そこまで言ってジョージに見えないように唇を閉じた。直後に、ヴァージンの脳裏にあの老人の顔が思い浮かんでくる。カメラマンを目指していた夢を絶たれた彼は、今や分断「された」側で暮らしている。
(なんか、タイトルを見るだけで、人によっては納得してくれないような気がする……)
債務危機を乗り越えた先に、一つになれないアメジスタがある。その流れを力ずくで戻さないようにしている。そのために勝手に決めた「分断」を、この本は肯定しているように思えた。
(少なくとも、された側のアメジスタ人がこの本を読んだら、泣いてしまうかもしれない……)
ヴァージンは、そう心の中で想像しながら、ジョージに告げた。
「バーベキューが終わったら、父さんの本を軽く見たいです。父さんが、アメジスタ人の分断をどのように説明しているか……、私も今日、聖堂のあたりに行ったんで、ものすごく気になります」
「分かった、分かった。父さんの部屋に5冊くらいあるから、オメガに帰るまで好きな時に読んでいいよ」
ジョージと二人で夕食を取った後、ヴァージンはジョージの部屋に入り、封筒に書かれていたタイトルの本を探した。すると、本棚の最も左の目立つところに、「アメジスタの貧民層を隔離した理由」と書かれた本が5冊並んで置かれていた。ジョージは洗い物をしており、すぐには入ってこないようだ。
(父さんは、どういうつもりでこの本を書いたのだろう……)
ヴァージンは、軽く息をついてからページを開いた。オメガで発行される本に比べれば、アメジスタの本は紙質がザラザラしており、印字も鮮明ではない。それでも、使い慣れたアメジスタ語で書かれた文章は、ヴァージンにとって、論文に使ったどの文献よりも読みやすかった。
「アメジスタから貧困層を排除し……、一人当たりGDP世界ワーストから脱却しよう……」
第1章のタイトルを音読みしたヴァージンは、それだけで首を横に振った。GDP世界ワーストからの脱却を主張することが問題ではなく、それに至るまでの過程があまりにも過激すぎた。
(排除し……って、分断はその最初の一歩に過ぎなかったってことなのかもしれない……)
ページを読み進めていくうちに、その本の世界が全く意図しない形で、ヴァージンはのめりこんでいく。分断によって隔離された貧民層に何も与えず、デフォルト後の増税を受け入れた人々のみによる世界を作る。そのためのビジョンが、事細かに書かれていた。一見すると筋が通っているように見える主張だが、ヴァージンには父の書いた文章にも関わらず、怒りしか湧いてこなかった。
(私は、全く違うやり方でアメジスタを再生させようと……、論文に書いてきたのに……)
ヴァージンは、バッグに手を伸ばし、後でジョージに見せようとした卒業論文を取り出した。そして、同じ「投資の必要性」と書かれた章の中身を見比べた。
(私は、スポーツの重要性や可能性を、成長への足掛かりにしたいと書いた……。でも、こっちに書いてあるのは、貧民層から奪い取ったお金を分け与え、見た目のお金を増やすだけ……。こんなことをしていて、アメジスタ人の心は、ますます一つになれなくなってしまう……)
最後まで一気に読み進め、本を閉じたヴァージンは、そこで初めて冷や汗を感じた。読んだ後に残ったのは、怒りと、そこから何も生まれることのない「無」の世界だった。
(どうして……、父さんまでこんなことを……書くんだろう……。この国にまだ残っているはずの、小さな希望すら消えようとしている……)
泣くことはしないまでも、ヴァージンは本棚に半分叩きつけるように父の本を戻した。そして、現実に戻ろうと、何度もその目で見てきたはずの、実家の天井を見上げた。
「あれ……。これって……」
不意に、ヴァージンの目の動きが止まった。本棚の上に、大きなレンズのようなものが載っている。ヴァージンがそのレンズを手に取ろうとすると、奥からその何倍もの重さの塊がついてきた。
「これ、もしかして……、カメラ……」
ちょうどその時、ジョージが部屋に入り、ヴァージンが手で掴んだものを見ながら近づいてきた。
「とうとう、ヴァージンに見つかってしまったか……。30年以上前、ヴァージンも姉のフローラも生まれる前に、たまたま外国人がくれたものを、今でも取材で使ってるんだよ」
(外国人が……、くれた……。あの老人と同じだ……)
ヴァージンは、何かを思い出したように息を飲み込んだ。チャンスだった。
――もし、できるなら、今度ここに来たとき、カメラを持ってきます!
「そうなんですか……。父さん、カメラ持ってるなんて、ものすごくお金が入ったように思いました」
「まぁ、アメジスタでカメラは作ってないから、大事にしないといけないんだけどな……」
ヴァージンは、ジョージがそう言いながら笑うと、持ったカメラを手前に引いて、ジョージに尋ねた。
「父さん、このカメラ、1日だけ借りていい?」
「あ、別にいいよ。アメジスタの景色を残したいのかね」
「そうじゃ……ありません。でも、どうしても使いたいんです!」
ヴァージンの頼みごとに、ジョージは首を縦に振ることしかできなかった。
(あの人に、このカメラを届けて、夢を叶える大切さを教えてあげたい……!)
翌朝、ヴァージンはカメラだけを持ち、「Vモード」を足に携え、トレーニングとだけ言い残して実家からグリンシュタイン中心部に向けて走り出した。これまで何度も走ってきた聖堂までの道を、かつてないほどのスピードで、世界最速のアスリートが駆け抜ける。
(もし、このカメラで撮ったものを現像できれば……、あの人も次の夢を叶えたいと、また動き出す……。少なくとも、夢を追い続けたことを悔やむことなんて、二度となくなるはず……)
最初は塔しか見えなかった聖堂が、少しずつ大きくなり、二つに分断されたグリンシュタインの街が飛び込んでくる。ひたすら走り続けるヴァージンの足に、少しの痛みもなかった。
(……っ!)
あと少しで、前日ヴァージンが立ち直った建物が見えてくる。そう思った彼女に、昨日までなかったはずの黄色いテープが飛び込んできた。街を分断するような色のテープではなく、単純に何か事故でも起こって貼られた規制線だった。
テープの手前まで駆け抜けたヴァージンは、思わず体を乗り出した。
「うそ……」
前日ヴァージンとアルデモードが座り込んでいた建物が、土台から崩れ落ちていた。ちょうど、崩れたブロックは、老人が生活している隙間へと流れ、空間を埋めてしまっていた。
(あの人が……、カメラマンを目指していた老人が……、無事なら……!)
ヴァージンは、そう祈った。しかし、それは無意味な祈りでしかなかった。規制線の中で数人の男性が担架を運んでおり、そこには前日見慣れた、濃い茶髪の老人が息をすることなく仰向けにされていた。
そして、規制線から出たところで担架を下ろすと、止まっていた台車に、老人の遺体を力ずくで投げ入れた。
(嘘でしょ……!)
ヴァージンは、力強く土を蹴り上げ、遺体を投げ捨てた男性のところに駆けつけた。その足音に振り向いた一人の男の顔は笑っていた。男性の履いている靴が、ファイエルの履いていたものと同じだということだけは、瞬間的にヴァージンにも分かった。
「どうした、そこの夢だけのお嬢ちゃんよ。昨日、うちの土木会社のファイエルに負けたくせに」
「待ってください。遺体を投げ捨てるって、どういうことですか」
ヴァージンが詰め寄ると、その男は一緒に担架を運んでいた数人の男に目をやって、薄笑いを浮かべる。
「だって、あっちの人間だし、どんなように扱ってもいい。早く消えればいい存在なんだよ」
「それはあんまりです……。どうして、アメジスタは一つになれないんですか!」
「一つになるさ。あいつらが全滅すれば、分断の街は解消される」
ヴァージンは、その言葉を前に、男の目をじっと見るしかなかった。悔しいという言葉では語れないほど、ヴァージンはその目で睨みつけていた。
「この人は……、カメラマンを目指して……、貧しい中でも夢を諦めなかった……。今日、私は彼のために、家からカメラを持ってきた……。でも、どうしてその彼を認めようとしないんですか」
「いらないからさ」
同じような回答しか、男は繰り返さない。ヴァージンは、次に尋ねる言葉に詰まった。すると、先に男の口が開いた。
「言葉を返すようで悪いが、俺たちアメジスタ人に何もしないお前は、アメジスタ人と言えるのか」
「アメジスタ人です。今まで、国を捨てたことなんて、一度もありません」
「ほう。なら、夢を追いかける前に、街の整備にお金をくれてもよかったよなぁ。さっき建物が崩れたのは、長年人が住んでいなかった建物だし、それこそお金のあるお前に直して欲しかったよ」
ヴァージンは、そこまで言われて、ついに唇をかみしめた。言っても無駄だった。夢を追いかけることの全てを否定する人間に、夢の大切さを口にしても信じてもらえそうになかった。
下を向きかけたヴァージンに、男は最後にこう言い残した。
「夢は捨てろ。アメジスタ人であり続けたいんなら、夢なんて持つな!ファイエルにも勝てないくせに、世界で戦うんじゃねぇ!」
男は笑いながら立ち去り、ヴァージンはその場に崩れ落ち、顔すら上げられなかった。
それは世界の強豪を相手に戦い続けたアスリートが、故郷で再び敗れ去った瞬間だった。