第40話 夢を追い続ける力が敗れた日(5)
(ヒルトップさんに、ここまで言われてしまうなんて……)
プロになる前からはっきりと感じていた、アメジスタの現実を前に、今のヴァージンでさえ何もできなかった。アメジスタに戻るたびに知名度の低さや関心のなさを思い知ってきたが、共に希望を与えていくパートナーだったはずのスポーツブランド、エクスパフォーマでさえもその現実を動かせないという結論を出してしまった。
そのような国をたった一人で背負ってきたヴァージンは、立ち竦んだまま現実を受け入れるしかなかった。
(私は故郷に戻って、いつまで絶望を感じ続け……、この場所で、何度打ちひしがれればいいの……)
アメジスタに戻るたびに、現実を変えようと心に抱いてきた。何度心が折れそうになっても、走ることをやめなかった。支えてくれる多くの人がいたからこそ、アメジスタに希望の光を灯すような論文を書くこともできた。
それでも、ヴァージンが解き放つ輝きは、アメジスタの土を踏むだけで、いつものように消え失せていく。トラックを駆け抜けるように、前に進んでいかない。
ヴァージンは、一度首を横に振って、周囲を見渡した。遠くに、アルデモードの姿が見える。レースの前こそコースの一番前に立って声援を送っていたアルデモードだったが、この時は人目に付きにくい建物の壁にもたれかかって、下を向いていた。
ヴァージンは、力を振り絞りながら、アルデモードの前まで足を進めた。
「アルデモードさん……。気持ちは分かります……。私だって、ここに寄りかかっていたいくらいですから……」
その声に気が付いたのか、アルデモードがゆっくりと顔を上げて、ヴァージンに力なくうなずく。ヴァージンが横目で見た彼の表情は、リーグオメガで戦うサッカー選手とは思えないほどやつれていた。
「君の夢が否定されてるのに、僕は何もできなかった……。勝って欲しかったけど……、君が追いつけなかったときに、僕はもう居場所を失ったと思ったんだ」
「そんなこと、ないですよ……。勝負をして、負けたのは私なんですから」
それでも、アルデモードは小さく首を横に振る。目だけはヴァージンを見つめているが、そこに輝きはない。
「この国から亡命した僕を……、アメジスタ人だと思ってくれるのは君だけだった。勝手に外に出て成し遂げたことに、今日だってアメジスタのみんなが僕を受け入れなかった。それでも、夢に向かって走り続けることの大切さを、君が証明してくれるから、囲まれても耐えることができた。なのに……」
「気持ちは分かりますし、私だっていま、そんな気持ちです……。世界で戦おうという私の夢も、アメジスタの人々に分かってもらえなかったのですし……」
ヴァージンは、そこまで言った後、アルデモードに何と言っていいかも分からなくなった。早く涙を流したくて仕方がなかった。それを流せば流すほど、アルデモードの心をさらに突き落としてしまうと分かっていても。
(私は……、アメジスタ人のはず……。みんなと同じ、アメジスタ人のはず……)
ヴァージンは、無意識に首を横に振った。1回、2回、そして3回目に左右に首を振ろうとしたとき、アルデモードは短く言った。
「僕は、しばらく君と話したくない」
アルデモードの上着が、ヴァージンのウェアに軽く触れる。そして、力なく前へと進む鼓動を感じたときには、ヴァージンの目に彼の背中が映っていた。とぼとぼと歩き出すアルデモードを追いかけようと、ヴァージンはシューズを一歩前に出したが、それ以上足は進まなかった。
(アルデモードさんにまで……、道を閉ざされてしまった……)
この広場で何もかもを失ったヴァージンは、実家に戻ることしか道が残されていなかった。それでも、実家に足を向ける力もなく、帰省用のバッグをグリンシュタインの冷たい土の上に落とし、その場にうずくまった。
「……っ、……っ!」
遅すぎる涙が、現実を前に砕け散ったアスリートの頬を流れ落ちていく。その涙を誰が受け止めるのかも分からないまま、彼女を育てたはずの土だけを潤していく。その涙を、最先端の走りを見せるはずの赤いシューズが寂しそうに見つめているようだった。
「何をそう、泣いてるんだ……?」
アルデモードのものでも、ヒルトップのものでも、ましてドクタール博士のものでもない、低くしゃがれた声が、ヴァージンの耳を駆け抜けていった。背後に誰かが立ったような声だが、下を向くヴァージンの視界にその影は飛び込んでこなかった。
(誰……?)
ヴァージンは、声だけを頼りにしてその人物を追った。間違いなく、どこかから発せられた声だということは分かっていたが、その人物の姿をすぐには見つけられなかった。
(もしかして、建物の間で暮らしている……人なのかも……)
ヴァージンが背もたれにしていた建物と建物の間に、人が一人入れるほどの小さな隙間が見える。しかし、その間にはロープが張られている。そこから先はグリンシュタインから「締め出された」貧民層の暮らす空間だ。そのロープに目を移した瞬間、ヴァージンと一人の老人の目が一直線に結ばれる。
「もしかして、私に声を掛けてくれたのは……、あなたですか……?」
「そうじゃ。聖堂から住処に戻って、ロープの向こうで女が泣いてる声がしたから声を掛けたんだ……」
老人は、がっしりとした体をヴァージンに見せ、濃い茶髪を靡かせていた。ヴァージンは、ロープの前に立ち、その老人と目の高さを合わせるように、やや膝を曲げた。
「すいません。つい、悲しくなって……、グリンシュタインで涙を見せてしまいました」
「それははっきり伝わった……。君は懸命に夢を追いかけたんだから、それを否定されたら泣きたくなるだろう」
「えっ……。もしかして、さっきのレースを見ていたんですか……」
ヴァージンが尋ねると、老人は小さくうなずき、ロープの間から手を通してヴァージンの手に触れた。
「見ていたよ。私でも入ることができる、聖堂の後ろ側から……。今日、アメジスタのアスリートがここに来ることは、何日か前に、茶髪の若い男性から聞いたからな……」
(アルデモードさんが……、この老人に教えてくれた……。私よりもずっと前に来て、ロープの向こう側にいる人たちに声を掛けたのかも……)
ヴァージンの目から、思わず涙がこぼれ落ちる。ほぼ、そのように見て間違いなかった。増税を受け入れられなかっただけで締め出された人々のほうが、この街でより救わなければならない立場だった。
そう思っていると、老人は少しだけ間を置いて、想いを打ち明けるようにヴァージンに告げる。
「君が、夢を追い続けることの大切さを叫んだ時、それだけで私は君を応援しようと思った……。アメジスタの人々がその夢を受け入れようとしない中で、勝負に挑んだ君は、それだけで強いのだから……」
「強い……。でも、その強さを見せても、アメジスタ人の心を動かせなかった……」
「私を、動かしたじゃないか」
ヴァージンは、その声を聞いた瞬間、思わずはっとした。丁寧に語りかける老人が、本当の意味でヴァージンを応援していることを、彼女はその目で確かめた。
「動かした……。そう言ってくれて……、なんか氷が解けていくような気がします……」
「そう。君は、私の諦めかけた夢を……、もう一度燃え上がらせたんだ」
「それって、どういう夢ですか……?」
ヴァージンがそう尋ねると、老人は両手の親指と人差し指で四角を作り、それを前後に動かした。
「私の夢が何なのか、君に当てて欲しい」
「もしかして……、カメラ、ですか……?写真を撮ったりとか……」
「そういうことだ。若い頃、私はカメラマンをやっていたんだがな……」
老人は、やや声を小さくしてヴァージンに告げる。そして、天を仰いで、アメジスタの高い空を指差した。
「カメラは、生活のために売ってしまった。そもそも、そのカメラだって、外国人が持ってきたカメラを譲ったものなんだがな……。ここには物もないし、現像も大きなスタジオでやるしかなくて、その上修理もできないから、壊れないようにするのが大変だった」
「そうだったんですか……。たしかに、私もよくカメラを見るようになったのは、アメジスタを出てからです」
「だろうな……。でも、今日一日で、新しい夢ができた。カメラさえあれば……、アメジスタの空を映したフォトブックを作りたい」
「フォトブック……!それ、アメジスタでも滅多に見ないものじゃないですか」
ヴァージンが手を叩いて喜ぼうとするが、その老人はすぐに浮かない表情に変わる。
「たしかに、作りたいものはある。でも、夢をどう追い続ければいいか、分からない……。カメラもないし……」
「そうですね……」
ヴァージンは、夢から覚めたような目で老人を見た。同じ壁に、老人も当たっていた。
(でも、ここで私が何か支えてあげないと……、彼もまたさっきの私のようになってしまう……)
ヴァージンは、小さく息をつき、これまで悩んでいたこと全てを吹き飛ばすような声で、老人に告げた。
「私……、夢を追い続けようとしている人を見捨てることはできません……。もし、できるなら、今度ここに来たとき、カメラを持ってきます!」
「本当かい……。そう言ってくれて、助かるよ」
ヴァージンの手を、老人は力強く握った。その手のぬくもりが、ヴァージンにもはっきりと伝わってきた。