第40話 夢を追い続ける力が敗れた日(4)
これまで何度も5000mを駆け抜けてきたヴァージンは、ゴールラインを駆け抜けた瞬間に呆然とした表情でクールダウンの足を進める。普段なら、トップで駆け抜けたアスリートのもとに向かうはずの体が、竦んでしまう。
(私よりも速く駆け抜けたはずのファイエルさんを……、こんなにも素直に喜べないなんて……)
レースの前、ファイエルはアスリートとして生きるヴァージンの夢を、根底から否定した。その言葉が、全力を出し切ったばかりの足に鋭く突き刺さってくる。
――グランフィールドに、夢を捨てさせるまで……、俺たちは帰らない!
(でも……、そう言ったはずのファイエルさんのほうが……、ずっとペースが速かった……。その気持ちだけでも、ファイエルさんに伝えなきゃ……、お互いに後味が悪くなっちゃうのかな……)
ヴァージンは、土とシューズを見つめていた顔を上げ、ファイエルに向けようとした。しかし、それより一足早く、「Vモード」のつま先にファイエルの靴が乗りかかってきた。締め付けられるような感触さえする。
「何をするんですか……、ファイエルさん……」
「黙れ、グランフィールド。プロと言っておきながら、俺に勝てなかったくせに!」
ファイエルは腕を組み、ヴァージンを睨みつける。ヴァージンにはそれが勝ち誇っているような表情にすら見えず、レースを共に競ったはずの相手を見下すような目にしか見えなかった。
「私は……、それでも一生懸命走り続けました。それに……、ファイエルさんだって、私に追いつかれないように、一生懸命走り続けてきたじゃないですか」
「一生懸命走り続けた、だと?そんな気持ち、俺には全く感じないんだが、どういうつもりで言ってるんだ」
全く表情を変えようとしないファイエルを見て、ヴァージンは言葉を選ぼうとする。だが、再びファイエルの靴がヴァージンの足に乗りかかろうとしている気配を感じ、浮かんだ言葉をすぐ口にすることしかできなかった。
「私と、ファイエルさん……。同じだと思うんです。勝負に勝つために、一生懸命走り続けたじゃないですか。ファイエルさんだって……、仕事で走っているとは言え……、この瞬間だけは一人のアスリートだと思うんです。ファイエルさんのその力、たぶん世界に通用すると思うんです……」
「バカ言うな!そんなアメジスタにとって意味のない職業になんか……!」
ヴァージンが「優しく」説いたところで、それを全て否定するファイエル。見下すような高さから睨みつける目が、ヴァージンの存在感を0にしているかのようだった。
その現実を思い知った瞬間、ヴァージンはついに心の中の糸が切れてしまった。
「意味のない職業……って。じゃあ、私がいま走ったのは……、何だったんですか?」
「その足で、アメジスタに何もしないじゃん。ただ夢を追い続けるだけで、よく暮らせてきたな。かたや俺は、日々生きていくために走ってる。アメジスタ人として、どっちが役に立つか、素人でも分かる!」
「私だって、日々生きるために走ってます。足がダメになったら、アスリートとして生きていけません」
「うるさい。今、この瞬間にグランフィールドの夢は、アメジスタにとって意味のないものと決まった。おとなしく夢を捨て、俺たちと同じようにアメジスタのために汗水たらすんだな!」
ファイエルは、叫ぶようにそこまで言うと、ヴァージンから目を反らし、後ろを振り向く。ヴァージンの目には、もはやファイエルが全てを断ち切ったように映った。
それでも、ヴァージンは背中を見せるファイエルに力強く言った。
「私は、それでもアメジスタを背負い続けます!私が走ることで……、いつかアメジスタの人々を勇気づけたいって思ってるんです!」
声が嗄れるような叫びを、ヴァージンは去り行くファイエルに送り続ける。
「そこまでアスリートに生きる価値がないと言うんだったら……、今度は私が本気で走る姿を……、その目で見てください。後ろ姿だっていい。どんな想いで、私がトラックに立っているか……、きっと分かると思います!」
(ダメか……)
ファイエルは全く振り向かなかった。かつて、自らの想いを強く訴えて掴んだはずの広場で、今度は奇跡すら起きなかった。空しく消えていく声だけを、ヴァージンはその耳で感じるしかなかった。
男子と女子で世界のレベルが違うとはいえ、ファイエルが本気を出して5000mを走れば、世界のトップレベルで戦えることは間違いなかった。だが、アメジスタ人がアスリートという存在に価値すら感じていない中で、彼をそのように向かわせることはできなかった。
ヴァージンは、空に向かって深呼吸をし、レースに見入っていたはずの人々に目をやる。
(まぁ、いいか……。ファイエルさん以外にも、私から何かを感じた人がきっといるはず……)
いびつな形のトラックとは言え、トップアスリートにまで上り詰めたヴァージンがグリンシュタインの街中で走る姿に、誰もがみな注目したはずだと信じたかった。
だが、思わぬ方向から叩かれた肩に気付いたとき、ヴァージンの目に鋭い目線が飛び込んできた。
「ヒルトップさん……?力を出し切れず、すいませんでした……」
肩を叩いた人物に、ヴァージンは反射的にそう言った。だが、相手の目は険しかった。
「もう帰りましょう。ここでプロモーションをしても、グランフィールド選手の価値を下げるだけです」
「そんな……。今からイベントじゃないんですか……。いま、それに向けて気持ちを切り替えているところです」
ヴァージンは、まさかと思い、広場を見渡した。折りたたみ椅子の上に置かれていたエクスパフォーマの商品は全て取り払われ、バッグの中に戻っていた。
「それでも、エクスパフォーマとして、これ以上この場に残るわけにはいかないのです。レースに出たことのない人間……、しかも普段着の人間に負けるような選手が、私どもの製品を使っているなんて思われたら、恥です」
(恥……)
ヴァージンは、その場に立ち尽くした。ヒルトップの言っていることに、何一つ違和感がなかった。結果が全てのアスリートにとって、それ以上ヒルトップに言葉を言うことはできそうにない。
それでも、ヴァージンは別の方向からヒルトップに食らいついた。
「たしかに、さっきのレースで、私は一般のアメジスタ人にも勝てませんでした。でも、普段から夢に向かって走る姿を見て、たとえ負ける結果になっても、みんな心を動かされたと思います。ファイエルさんだって、勝負をする楽しさを、きっと分かってくれたと思うんです……。だから……」
「本当に、そう思っていますか?グランフィールド選手」
ヒルトップは、そう短く言って、ヴァージンの次の言葉を止めた。そして、ヴァージンを申し訳なさそうな表情で見つめた。
「グランフィールド選手の言った通りです。アメジスタの人々はみな、アスリートに希望を見いだせないどころか、この国にとって不必要だと思っているようです。グランフィールド選手が、どんなに素晴らしい走りを見せたところで、誰も見ていなかったんですから……」
「誰も……、見ていなかったんですか……」
その一言で、ヴァージンの目は潤み始めた。それまでファイエルだけだと思っていた、ヴァージンの全てを認めようとしない人々が、一気にその場にいるほぼ全員に広がったとことを思い知っただけで、何とか乗り越えようとしたはずの絶望が、大きな壁へと変わっていく。
「少なくとも、私の目には、人々から何も熱狂を感じませんでした。そこで走っているのが、夢に向かって走り続けるヴァージン・グランフィールド選手だと、あれだけ彼の口から言われても……、ただ二人が狂ったように聖堂の周りを回っている光景にしか見ていなかったんです」
「そんな……」
アメジスタを背負って戦い続けてきたヴァージンの評価は、たったそれだけだった。ヒルトップの顔を注視することもできず、首を少しずつ傾けていく。それでも、ヒルトップは言葉を止めない。
「アメジスタ出身のグランフィールド選手を前にして、こういうことは言いたくありませんでしたが……、ここは想像したものよりも、はるかに私どもの取り組みに価値を見出せない国です……。二度と、この国で商品を展開することは、ないでしょう……」
「ヒルトップさん……。私の選手モデルの『Vモード』もですか……?」
「はい。ここで売るよりは、スポーツに関心や熱狂のある先進国で売ったほうが、はるかに価値があると思いますよ」
そう言うと、ヒルトップは持ってきたバッグを全部一人で抱え、その場から立ち去った。肩を落として歩くヒルトップの後ろ姿は、ヴァージンにも痛々しいほどその気持ちが伝わってきた。