第40話 夢を追い続ける力が敗れた日(3)
「夢を捨てさせる……って、そう言われたところで、私は夢を捨てるわけにはいかないんです。それに、今日のイベントは、私たちを見て……、今までずっと苦しんできたアメジスタの人々に勇気を与えたくてやってるんです……。そのために、私たちが所属するエクスパフォーマも、今日のために力を貸してくれるんです」
ヴァージンがそう言った瞬間、アルデモードを囲んでいた人々の目が次々とヴァージンに向けられる。その後ろでは、ヒルトップが一人で折りたたみいすを広げ、狭いながらも会場を作っており、時々ヴァージンを祈るような目で見ているかのようだった。
「アスリートに希望が持てないとか……、ほとんどのみんながそう思っています。でも、自分の体で何かに挑戦することは、決して無意味じゃないはずです。挑戦がいつか成功につながり……、それを見た人々がその後に続いていく……。私は、この世界に入って何度か、その言葉に感銘を受けました。だから、今日はこのイベントで、私たちの……姿を見て欲しいんです」
「ほぉ……」
ヴァージンに罵声を浴びせたと思われる、一人の長身の青年が、ゆっくりと手を叩きながら集団の中から出てきた。そして、黒い髪をなびかせながらヴァージンの目を鋭く睨みつけた。
「何を言ってるかは分かった。ただ、その全く違うほうに向かう姿勢が、今のアメジスタに必要かどうか……、それは俺たちアメジスタ人が今から決めることだ」
そう言うと、その青年は右足を高く上げ、アメジスタの人々の中では珍しくまともな靴をヴァージンに見せた。
「これは、そこらへんに落ちていた、俺が思うにわりと丈夫な靴。かたや、グランフィールドの履いているのは、一流スポーツメーカーのシューズ。そのどちらが、アメジスタに必要かどうかを勝負しよう」
「何を……、急に言い出すんですか……」
身構えるヴァージンに、その青年は鼻で笑っている。言っていることは本当のようだ。
「勝負の世界に生きているのに、今更何を戸惑ってるんだ。こう見えても、俺は工事現場で汗水たらしながら走り続けた身だからな。走ることには慣れている。メリハリのファイエルと呼ばれているくらいだからな」
「メリハリのファイエル……」
ヴァージンは、そう言いながらも軽く足首を回していた。その時、ファイエルの声を聞いたアルデモードが、ヴァージンに大きな声で告げた。
「ファイエルは……、走る俺を捕まえた奴だ。俺ですら逃げられなかったんだ……!」
「分かりました。ファイエルさんがそう言うなら、私は勝負するしかありません」
「そうこなくちゃ。距離は、どうする?聖堂の周りを10周くらいしても、俺は何てことないけどな」
ファイエルに言われ、ヴァージンは聖堂に目をやる。街を分断するテープが聖堂の周りだけ途切れており、回るのは容易にできそうだ。その1周は、距離にして200mほどだった。形は違えど、室内練習場と同じ距離だ。
「私も、何てことありません。私の得意とするのは、200mトラック25周ですから」
「なら、俺も25周いかせてもらうかな」
ファイエルの首が、左に傾き、続いて右に傾く。10cmは違う目の高さからヴァージンを見下しているようだ。
「ヒルトップさん……。準備に立ち会えない展開になってしまって、すいません……」
スタートまで10分と告げられ、ヴァージンはイベントスペースの準備をするヒルトップに頭を下げた。すると、ヒルトップはヴァージンに軽く笑顔さえ見せた。
「気にしなくていいんですよ。グランフィールド選手が走る姿を見てもらえるのが、アメジスタの人々にとって一番の収穫じゃないですか。もちろん、そこで私どもの商品に興味持っていただけると思いますよ」
「私も……、少しだけそう思っています。突然のことで、心の準備はできていませんが……」
普段は、レースの会場や時間、それにおおよその出場選手を事前に知らされており、トラックに立つ全ての選手がその瞬間に向けて体を作り上げていく。今回のような勝負を、ヴァージンはこれまでも経験したとは言え、この時ばかりはわずかな緊張が走っていた。
すると、ヒルトップが折りたたみ椅子の上に載っていた箱を開けた。「Vモード」の箱だ。
「それでしたら、イベントの最後に披露するつもりの、グランフィールド選手の新しいシューズを履いてみましょう。トレーニングでも、『Vモード』でベストタイムを破っていますから、私たちもほっとしています」
「ありがとうございます。このロゴがついたものが、完成品というわけですね……」
「そういうことです」
ヴァージンは、ヒルトップから手渡された真新しいシューズを360度回転させてみた。燃えるような赤と、シューズの底に縁取られた炎が、まだ試作品を履いた回数も少ないヴァージンに力を与えていく。そして、かかとの側面に初めて刻まれた、力強い「V-Mode」の文字が、ヴァージンの目に飛び込む。
(アメジスタで、普段の私を見せられる、またとないチャンス……)
突然の展開に戸惑った頃のヴァージンは、そこにはもういなかった。「Vモード」をその足に携え、5000mの世界記録を突き破ったその脚が、いまファイエルに挑もうとしていた。
聖堂を囲む、トラックよりもやや硬い土の上でスタートを待つ。ファイエルの横に並んだヴァージンは、進むべき方向を見つめた。
勝負の瞬間が、いま始まる。
「スタート!」
叫ぶようなファイエルの声で、ヴァージンは右足を力強く踏み出した。だが、その右横でファイエルが大股で飛び出す。まるで短距離走を走っているかのように、素早く次の足を叩きつけ、ヴァージンを少しずつ引き離す。
(走り方が、ウォーレットさんやメリアムさんのように見える……。いや、それ以上かも知れない)
かたやヴァージンは、普段から意識している400m69秒のペース。普段より直線区間が短いコースだが、ヴァージンは普段のように走ろうという作戦を取った。
最初の3周が終わるとき、ファイエルはヴァージンの目から姿を消す。だが、ペースの速い選手を追う展開になるのは、プロとして走るヴァージンには日常だった。
(あのペースじゃ間違いなく25周も同じペースで走ることができない。ファイエルさんは、後先考えずに早く走っているだけにすぎない……。私のほうが、5000mのペース配分をはるかに知っている……!)
5周、1000mを約2分53秒で走り抜けたヴァージンは、ここで前を走っているファイエルのペースを確かめようと、彼のストライドを確かめようとした。だが、その時にはやや直線の距離が長い聖堂の後ろでさえも、ファイエルの後ろ姿を見ることができなかった。普段トレーニングをしているトラックとは違い、聖堂の建物がお互いの居場所を隠している。ヴァージンはこの「トラック」に違和感すら覚えた。
(どれくらい離れたんだろう……。最後の1000mで100mくらいなら、たぶん今の私には追いつけるのに……)
ヴァージンはそう言い聞かせながら、「孤独に」走り続ける。400m69秒のペースをほとんど変えることをしなかったため、むしろ「Vモード」には手持ち無沙汰であるかのように、その足は感じていた。それでも、ゴールへと向かって、ヴァージンは確実に勝負を続けた。
ファイエルにすぐ追いつく。そう思っていたヴァージンに、時間だけが過ぎていく。2000mはおろか、3000mを過ぎても、ヴァージンはファイエルの姿を捕らえることができない。足音すら聞こえないが、この走り続けていることを表す呼吸だけは、ヴァージンもしっかりと感じていた。
(おかしい……。ファイエルさんが……、あのペースで走り続けている……)
反対側を見通すことができない「トラック」の中で、ヴァージンの体はもがいていた。ゴールへの道を突き進む「Vモード」には十二分にパワーが残っているが、そのパワーをどれくらいのスピードに変えればいいかが読めない。だが、傾きかけたモチベーションを振り切るかのように、ヴァージンはスピードを上げた。
(それでも、勝負は続いている……。あと8周もあるじゃない……!)
残り1600m。ヴァージンは「Vモード」を力強く踏み出し、少しずつ足を叩きつけるテンポを上げていく。次々とパワーを送り出すシューズと、これまで何度も記録を叩き出してきたヴァージンの体が、土の上で絶えず融合し続ける。靴底に彩られた炎が、ヴァージンのボルテージが上がるとともに、激しさを増していくようだ。
200m33秒で走り続けていたヴァージンのペースは、すぐに31秒まで上がり、やがて30秒をも切った。それでも、勝負している相手の後ろ姿は全く見えてこない。
ラスト1周の聖堂の裏になって、ようやくファイエルの後ろ姿を捕らえた。だが、その時点でファイエルとは50m以上離されていた。
(私は……、追いつく……っ!)
ヴァージンは、「Vモード」を激しく叩きつけ、出せる限りのスピードでファイエルを追い続けるも、ついにその体に追いつくことはできなかった。
ファイエルが、最初に思い知ったペースのままゴールを駆け抜けていった。
(負けた……)
それは、夢を追い続ける力が、「普通の人」に敗れた瞬間だった。