第39話 ランニングシューズに込められた魂(3)
(私の新しいシューズの名前、何にしよう……)
オリンピックでの敗北で一度は立ち消えになった、ヴァージンの選手モデルの完成。その日は本人が思っていた以上に早くやって来そうだった。ヒルトップと会ったときに渡された新しいカタログは、そのシューズの画像が載ったページを開いたまま、もう何日もテーブルの上に置かれている。
(そもそも、どういう名前にしたら私らしくなるだろう……。下手なネーミングをすると、私にセンスがないって疑われそうだし……)
これまで使い続けていた「マックスチャレンジャー」を履いてトレーニングを行い、そこから戻ってくるなり新しいシューズの画像に目をやる。だが、この日も見ただけで名前を思いつくことはなかった。
(「マックスチャレンジャーⅡ」じゃ、2番目のモデルが出ているものもあるから使いづらいし……)
ヒルトップが、最初に試作品を見せてくれた時に、新しい「マックスチャレンジャー」と口に漏らしていた。エクスパフォーマでの位置づけとしては、ランニングシューズにはメンズの商品を含めて「マックスチャレンジャー」の名前を使い、そこから新しいモデルを作るときに後ろに名前を付けるようだ。そのことが、逆に単純なネーミングを許さない一つの要因となってしまっていた。
(このシューズは、私の走り方に合わせたシューズ。だから、このモデルの特徴を入れたほうがいいのかな……)
ヴァージンのモデルの特徴は、女子長距離走に特化したもので、これまで使っていた「マックスチャレンジャー」よりもほんの少しだけ重く、着地するときのエアーを大きくしている。だが、そこまで思い出したヴァージンがその特徴をメモ用紙に書こうとすると、手が震えてしまうのだった。
(いっぱい特徴がありすぎて……、一つに絞り切れない……)
ヴァージンは、メモに特徴を書ききった後に、その用紙の下に一つだけ名前を書いた。
「エアロヴァージン……。空気のような軽さが、生まれ出てくる……。そんな感じの名前だけど……」
ヴァージンは、名前を思いついたところで首を横に振った。そして、すぐさまパソコンの前に向かい。いま書いたばかりのシューズの名前を思い出しながら、メールの本文にそれを書き込んだ。宛先に何も書いていない、本文だけのメールは、そこまで文字が進んだところで止まった。
(エアロヴァージン……。この名前を……、誰かに見てもらいたい……)
選手モデルとは言え、結局はヴァージンのネーミングセンスがそのまま売れ行きやエクスパフォーマからの評価に影響することになる。思い付きで生み出した名前ほど、不安定なものはなかった。
(エクスパフォーマで知り合った仲間だし、またカルキュレイムさんにしようかな……)
ヴァージンは、メールの宛先にカルキュレイムのアドレスを書こうとした。だが、卒業論文で甘えたときのカルキュレイムの表情が咄嗟に思い浮かんで、ヴァージンは途中までしかアドレスを打つことができなかった。
(やっぱり……、私が決めたほうがいいって、言われちゃうのかな……)
そう思った瞬間、ヴァージンは宛先どころか本文までも消したくなってきた。それと同時に、頭の中で数回思い浮かんだはずの「エアロヴァージン」という名前すら、キーボードの触れる彼女の手に重くのしかかってきた。
(名前は思いついたけど……、やっぱり名前にパワーが感じられない……。ランニングシューズの名前には合うかもしれないけど……、勝負に挑む私のパフォーマンスは、そこまで軽くない……)
ヴァージンは、メールに書き込もうとしたことを一気に消し去り、「エアロヴァージン」と書いたはずのメモ用紙を裏返してカタログに挟んだ。そして、そのままカタログごとをベッドの下にしまった。
(ダメだ……。シューズの名前を考えるだけなのに、私はずっと悩んでしまっている……)
その翌日から、ヴァージンは新しいシューズのネーミングをなるべく忘れようとした。アメジスタでのプロモーションやレースに集中できなくなっては、シューズの名前を決める意味が半減してしまう。
それでも、初めの数日は最初に思いついた名前が頭の中で残っていて、誰かにその名前を伝えたい想いはあった。だが、それでもメールで片づけてしまうことへの躊躇が彼女には合った。
(やっぱり、カルキュレイムさんとかモデルアスリートと出会ったときに……、聞いてもらおうかな……)
だがヴァージンのトレーニングは、次のレースに向けて室内練習場を借りることが多く、この先2月頃まではエクスパフォーマのトレーニングセンターで過ごす時間も少なくなることは分かっていた。それだけに、ネーミングを聞いてもらう選択肢も、可能性に乏しいものだった。
そのような、ネーミングとは少しかけ離れ始めた悩みの中で、ヴァージンは本題を見失ってしまった。
逆に、ネーミングのことを忘れるにつれて、インドア5000mのタイムトライアルも少しずつ向上していった。ある日、5000mを走り終えたヴァージンのもとにマゼラウスがにこやかな表情を浮かべて近づいてきた。
「このタイム、まずは見てみろ。それが、お前の実力だ……」
「14分14秒97……!ついにウォーレットさんのインドア記録を超えた……!」
ヴァージンは、走り終えた直後にもかかわらず口に手を当てて、吐き出す息の強さをその肌に感じた。読み上げたストップウォッチの数字をもう一度見入るほど、ヴァージンにはそのタイムを信じることができなかった。
「しかも、16秒とか15秒じゃなく14秒だからな。アウトドアでの記録は一気に伸びたが、インドアの自己ベストをこれだけ上げたのは、8年以上見ていて全くと言っていいほどないからな」
「私も、ここまで伸びた記憶はありません……。アウトドアでの走り方を意識したら、自然とタイムが上がっていっただけかもしれません」
ヴァージンは、少しだけ考えてマゼラウスに告げた。すると、マゼラウスはヴァージンの足元に目をやり、それからヴァージンに顔の向きを戻した。
「これから、もっとタイムが伸びるだろうな……。その時にお前の出せるタイムが楽しみだ」
「ありがとうございます」
ヴァージンは、マゼラウスにうなずきながら自分の足元を見つめた。マゼラウスの目が足元に向いていなければ、ヴァージンも無理して意識を向けることはなかった。思いがけないところから新しいシューズのことを意識させる言葉が出てくる現実は、なかなか変えられそうになかった。
(なかなか、シューズのことを忘れさえてくれない……)
その日のトレーニングが終わり、ロッカールームでシューズを履き替える時ですら、ヴァージンの目には「マックスチャレンジャー」が目に入った。バッグにしまいたくても、その手が止まる。
(やっぱり、新しいシューズの名前を考えたほうがいい……。早く、完成品を履きたいのに……)
シューズの名前が刻まれる以上、名前を決めなければトレーニング用に送られることもない。当たり前すぎることすら忘れていたヴァージンは、ロッカールームの明るい光の下でため息をついた。そして、再び「マックスチャレンジャー」を持ち上げ、その触り心地を確かめた。
(もっと強そうな名前にしたい……。やっぱり、誰かに会って話したほうがいいかな……)
ヴァージンは、バッグを持ち上げて室内練習場を後にした。その時、ヴァージンは偶然通りを横切る、見覚えのある人物の顔が目に飛び込んできた。
(あの茶色い長髪……、もしかしてアルデモードさんじゃ……)
トレーニングの場所も時間も告げていないにもかかわらず、この場所に現れることが、ヴァージンにとっては運命の糸のようなものだったのだろうか。ヴァージンは走り疲れた足を奮い立たせ、アルデモードに見えた青年に向かって軽やかに走り出した。
「アルデモードさん!久しぶりです!」
青年は、ヴァージンの力強い声に振り向いた。その甘いマスクは、やはりアルデモードのものだった。
「あぁ、アメジスタの英雄、ヴァージンじゃないか!こんなところで出会えるなんて、全くの偶然だね」
「会えると思っていませんでした。しかも、私がものすごく悩みを抱えているときに来てくれて……」
ヴァージンは、アルデモードの前に立った瞬間、その胸に飛び込んだ。すると、アルデモードはヴァージンの肩を軽く叩く。その温かい手に、ヴァージンは顔をそっと上げた。
「君ともあろうアスリートが、どうしてそんなに悩んでるんだい?世界記録も奪い返したのに」
「タイムは、大丈夫なんです……。悩みというのは、それとは違う話なんです……」
アルデモードが、ほんの少し首をかしげる。戸惑いの表情すら浮かべようとする彼に、ヴァージンは少しだけ笑ったように見せて、それから勇気を振り絞るようにしてさらに続けた。
「えっと……、新しいシューズの名前が、決まらないんです……。私のモデルなんですが……、思いついた名前だけでも聞いてもらえないですか?」