第39話 ランニングシューズに込められた魂(2)
その後ほどなくして、ヴァージンがエクスパフォーマの開発本部長ヒルトップと会う日が、12月の終わり頃に決まった。論文のコピーをその前に送って欲しいとのことだったため、郵便局からエクスパフォーマに発送したが、封筒を郵便局員に手渡すだけでも少しばかり心が躍っていた。
(あとは、私が次の大会に向けて集中すればいいだけだ……)
論文を送った後は、論文審査に合格した直後のような胸の高まりも収まり、ヴァージンは本来の日常――世界記録に立ち向かうこと――に集中できるようになった。次がインドアでのレースということもあり、普段のトレーニングセンターではなくオメガセントラルの室内競技場で走りこんだが、そのタイムはウォーレットの持っている室内記録にほぼ並ぶほどだった。
「いい調子だ、ヴァージン。このまま行けば、室内記録を3秒、いや5秒縮めることは間違いないかも知れない」
「本当ですか……!」
「本当だとも。ラップも室内トラックなのに69秒を何度もチャレンジしているように見えた」
14分16秒98。それが、ウォーレットの持っている女子5000mの正式な室内記録だった。その時マゼラウスがヴァージンに見せたストップウォッチに刻まれたタイムは、14分17秒08。その差は0.1秒しかなかった。
「次は、ウォーレットさんを上回るタイムで走りたいと思います!」
トレーニングで好タイムを何度も叩き出す日々が続いている中で、ヴァージンがヒルトップと会う日を迎えた。最近ではプロモーション撮影でヒルトップと会うことが多くなってきたため、エクスパフォーマの本社のビルに入るのは久しぶりのことだった。1階のロビーに広がるタペストリーにカルキュレイムの姿が見えたが、ヴァージンのそれはなかった。
(でも、今はカルキュレイムさんに先を越されても、必ずここに有名選手として紹介されるようになりたい)
そう胸の中に焼き付け、ロビーから目を離した瞬間、ヴァージンは目の前に見覚えのある人物を見た。
「あ……、ヒルトップさん……」
「グランフィールド選手、お待ちしてましたよ。どうしても言いたいことが抑えられなくて、1階まで迎えに来てしまいました。さぁ、こちらの丸テーブルを囲んでお話ししましょう」
ヴァージンは、ヒルトップに案内されるままにロビーにいくつかある丸テーブルに向かった。テーブルの天板は透明で、床がはっきりと見えるきれいなものだった。その上に、ヒルトップはヴァージンから送られた論文のコピーをそっと置いた。
「私の論文、どうでしたか……?」
ヴァージンが恐る恐るその言葉を口にしたとき、ヒルトップの表情は少しだけ笑っていた。それを見て、ヴァージンの目もほんの少しだけ和らぐ。
「読ませていただきましたが、ものすごく夢がある論文でした。それに、アメジスタから出たアスリートとしてのプライドさえ、この論文にはありましたね。本当にアメジスタのことを思っているような印象を受けます」
「そう言って頂けると……、この上なく嬉しいです……」
「いえいえ、これは私、いや私どもエクスパフォーマの本心でもありますよ。私も何度も読み返しましたし、エクスパフォーマ・トラック&フィールドの従業員からも読んで感動したという声がありました」
ヴァージンは、テーブルに置かれた論文に目をやった。端が何人もの手で握られたように、ウェーブ状になっているのが分かった。それだけ多く、この論文が読まれたという何よりの証拠だった。
その中で、ヒルトップはテーブルの上で手を組み、やや体を前のめりにしてヴァージンに告げた。
「それでですね、グランフィールド選手の気持ちは私どもにはっきりと伝わりました。グランフィールド選手が故郷に夢を与えたい、というその強い想いを、私どももサポートしたいと思います」
(もしかして……、本当にアメジスタでのプロモーションが実現するんだ……)
ヴァージンは、軽く息を飲み込みながらも、口にしたい言葉をこらえ、ヒルトップの目を見つめた。
「おそらく、アメジスタに足りないものは、スポーツの持っている力だと思うんです。私どもは、より速く走るためのギアを開発していますが、それによってどんな素晴らしいことが起こるのか、どんな感動をアメジスタじゅうに与えることができるのか、それをプロモーションする機会を持ちたいと考えています」
「つまりアメジスタの中で……、エクスパフォーマのプロモーションをやるんですね……」
「そういうことですよ。いま、グリンシュタインは街の中が分裂しているということですが、できればそのボーダーに近いところでやってみたいと思うんです。グランフィールド選手は、どこがいいと思いますか」
「そうですね……。大聖堂がいいと思います。広いし、私が夢を形にした『夢語りの広場』が行われてなくても、昔はたくさんのイベントがそこで行われていたと記憶しています」
「じゃあ、そこにしましょう。大会が近くないほうがいいということで、既にグランフィールド選手の代理人には、ある程度日程を打診しています。1月の中旬、またここの屋上から飛んでアメジスタに行くという日程で、グランフィールド選手のほうがよろしければ、それで考えておきましょう」
そう言うと、ヒルトップは大きくうなずきながらヴァージンに返事を求めた。それに合わせるように、ヴァージンも大きくうなずいた。
「よし、これで決まりですね。とりあえず、ドクタール博士や、アメジスタ国内で彼のプロジェクトを支援しているブライトン氏に、プロモーションの告知を呼び掛けておきますよ」
「ブライトンさん……、たしかドクタール博士の超軽量ポリエステルの研究所を支援していましたものね……」
「そう。一人より二人、二人より三人と、宣伝する人が増えればいいと思います。プロモーションを行う日時をこちらで決め、私どもに理解のある方々にアメジスタ国内で宣伝してもらいましょう。情報が広がれば、広場に多くの人が集まってくると思いますよ」
「それは、いいことですね。あと、当日私ができることってありますか」
「そうですね……。まず、通訳をしてもらうことはありますが、それはメインじゃありません。何よりも、ここでグランフィールド選手が普段やっているようなトレーニングを見て欲しいのです。あまりスペースはないと思いますので、トラックを走ることはできませんが、それでもここから生まれたスーパースターを知らなかった人々には、グランフィールド選手の強さが分かってもらえると思います」
そう言って、ヒルトップは右手に持っていたファイルを論文の横に置き、ヴァージンに見えるようにその向きを変えた。それは、エクスパフォーマの出している製品のカタログの一部だった。
「勿論、グランフィールド選手には、その手で私どものカタログを手渡すということもやって欲しいのです」
「私が、アメジスタの人々に手渡すんですか」
「そういうことです。私がカタログを手渡すのもよいのですが、渡された人の心に残っているのは、やはり彼らにとって非日常とも言うべきグランフィールド選手との出会いじゃないですか。直接本人から手渡ししたほうが、何百倍もいいと思いますよ」
ヴァージンは、その言葉を聞いたとき、ヴァージン自身がカタログを手渡す姿を頭の中で思い浮かべた。彼女の脳裏に映るアメジスタ人の表情が、どれも満足そうなものに変わっていくのがはっきりと見えた。
「分かりました。それで、私は新しいシューズと、最新モデルのウェアでプロモーションをするのですか」
「勿論。エクスパフォーマの凄さを知ってもらうという意味でも、ぜひグランフィールド選手のモデルと言うべき新しいシューズで臨んで欲しいものです」
「分かりました」
ヴァージンは、ヒルトップから差し出された「エクスパフォーマ・トラック&フィールド」の最新カタログに少しだけ目をやり、見出しに「長距離ラン/ウィメンズ」と書かれたところを指でこじ開けた。
その瞬間、ヴァージンの手が止まった。
(新しいシューズのところに、商品名が入っていない……。型番しか入っていない……)
トレーニングに夢中で、ヴァージンは新しいシューズの名前を考えることをすっかり忘れていたのだった。だが、その表情を察したのか、ヒルトップはヴァージンにそっとこう告げた。
「勿論、プロモーションの時はここにちゃんとした名前を載せるつもりですが、名前が思いつかないのでしたら本当にギリギリでも構いませんよ。グランフィールド選手の代名詞とも言えるフットウェアなんですから、今この場で簡単に決めてしまえるような名前というわけにはいかないのですよ」
「分かりました。じっくり考えて、なるべく早いうちに決めます」
ヴァージンは、これから自分自身がその力を使いこなすことになるシューズをじっと見つめ、プロモーション当日にそれを履いている姿を想像したのだった。