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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
そしてプロとしての現実が始まる
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第5話 遠いメドゥの背中(2)

「コーチ」

「どうした、ヴァージン」

 午後3時の練習再開よりもはるかに前に姿を現したヴァージンに、倉庫の整理をしていたマゼラウスは思わず息を飲み込んだ。ほんの数時間前に、アムスブルグでの大会出場を認められたヴァージンの表情は、朝一番でマゼラウスに会ったときよりもはるかに開放感に溢れていた。

「はい、どうしても、2月の大会に向けて自分を最高潮まで高めていきたいので、ちょっとだけ早く練習しようと思いまして」

「そうか。なら、そのやる気は受け取ろう」

 もう慣れた動作でトレーニング機器を倉庫から運びだしているヴァージンに、マゼラウスは何度も首を縦に振った。歩くときでさえピンと伸びている、教え子の後ろ姿が、マゼラウスの目にはっきりと映った。

 しかし、しばらくしてマゼラウスは軽く首を横に振り、筋トレを始めようとするヴァージンに軽い口調で声を掛けた。

「ヴァージン。さっき、フェルナンドから話を聞いたのだが……」


(まさか、もう……)


 トレーニングマシンに向かいかけていたヴァージンの足は、左右同時にピタリと止まり、無意識のうちに体だけを後ろにひねっていた。すぐそこにライバルたちの姿が影のように映っているようにさえ見えた。

「さっき、グラティシモに変なことを言わなかったか?」

「……言いました。なんか、まずいことを言っちゃったな、って……思います」

「そうか。私は別にそれが悪いとは思わないけどな」

「コーチ……?」

 やや下を向きかけるヴァージンをよそに、マゼラウスはゆっくりと腕を組み始めた。もう何年も踏んできたトレーニングルームの青い床をシューズのつま先でトントンと叩き、思い出したかのように再び口を開いた。

「話を聞く限り、君がグラティシモに提案したことは、実にお前らしいと思う。本気でグラティシモを追いぬこうとしているからな」

「本当ですか……。私は、ちょっと言い過ぎたかなって思うんですけど」

 ヴァージンは、少し肩をすぼめてみせた。次第に目線もマゼラウスの目から少しずつ下がってきていた。

 しばらくの間があって、マゼラウスは閉塞感を解放するかのように軽く笑った。

「どうして、そのことを悩むんだ。君が、グラティシモに言ったことは、君が一人前のアスリートになる上でかなり重要なことのはずだ」

「重要なこと……ですか」

「そう、重要なメッセージだと思う。まさか、アカデミーに入ってわずかな期間でこの経験をできるなんて、むしろ環境が良すぎるとしか思えないよ」

「ど、どうしてですか……。グラティシモさん、なんかすごく不機嫌そうだったような気がするんですが……」

 これからトレーニングを始めようとしているのに、ヴァージンの体は全力を出し切ったかのように震えていた。にも関わらず、目の前のマゼラウスは直ちにそれを律しようとしない。そのことがかえって、ヴァージンの震えを止まらなくさせていた。

「もちろん、不機嫌だろうな。でも、何故不機嫌になったのか、私がここで言ってしまうと、君のためにならない。君が、何も気付かないまま一流にさせるわけにはいかないんだ」

(何も……、気付かない……)

 おそらく、軽い言葉で誘っても、思いつめたような態度を取っても、マゼラウスの口は動くことがない。ヴァージンの使うことのできる手持ち札は、明らかに数少なくなっていた。

 ついに、ヴァージンは首をガックリと垂れた。フェルナンドに人種差別的なことを言われた日以来だ。しかし、ヴァージンの首が大きく垂れた瞬間に、マゼラウスの唇が軽く動いた。

「……だから、君の言ってることは間違っていない、と何度言えば分かるのかなぁ」

「えぇ……」

 ヴァージンは、まだ首を上げることができない。コーチの言葉が、耳を通り過ぎてしまうようにさえ感じた。

「違う、違う!ヴァージンは、一つの壁に当たっているだけなんだ。それを乗り越えればいいだけなんだよ!」


 ヴァージンは、目の前に高い壁を思い浮かべてみた。

 例えば、今すぐ近くにいる、どうしても追い抜けないライバル、グラティシモ。

 それを乗り越えることが、マゼラウスの言う高い壁であるとすれば、振り出しに戻りかねない気がした。

(どうすれば……)


 その時、頭が混乱し始めたヴァージンの耳に、再びマゼラウスの言葉が届いた。

「もっと簡単に考えてみよう。グラティシモに毎日勝負を挑んで、まず君が成長するかどうか、考えるんだ」

「……成長できると、思います」

「なるほど……」

 そう言うと、マゼラウスは腕を組んだまま窓までゆっくりと歩き出した。その先には、トラック競技のアカデミー生であれば毎日のように走っているグラウンドがあった。

「例えば、君は、あのトラックを1周何秒で走るようになりたいんだ」

「はい。400mダッシュの時であれば、60秒が目標です」

「そのためには、どうすればいい?」

「えっ……」

 ヴァージンは、その口のまましばらくマゼラウスを見つめ立ち竦んだ。マゼラウスの顔が窓の外からヴァージンに向き直った瞬間すら分からないほど、ヴァージンの身の周りでは時間の動き方が周りより遅れていた。

「どのようにすれば……」

「だから、私が必要なんじゃないのか。君を、一流のアスリートにするバックアップが」

(バックアップ……)

 ヴァージンは、ようやくマゼラウスと目を合わせた。その目は、これから練習に臨むアカデミー生のものとは到底思えないほど、潤んでいた。

「君の目標は、練習すればするほどたくさん出てくる。私は、君からのサインを受け取って、君がその目標を達成できるようなアドバイスをする。そして、その基準は、君自身が成長するかどうか、それだけだ」

「……私、ずっと間違ってました」

 ヴァージンは、わあっと溢れ出す涙を抑えることができなかった。その場で立ち竦んだまま、ヴァージンは両手で額を押さえて、マゼラウスの目に涙を見せないように懸命に隠した。だが、声だけは正直だった。

「それが、答えだよ。グラティシモが断った理由」

 マゼラウスは、泣くことを止めぬ小さなアスリートの肩を叩いた。久しぶりにヴァージンの肩が触れた熱い感触に、彼女は額を押さえていた手を離し、そのままマゼラウスのもとへと飛び込んでいった。

「コーチが……、毎日私のために……練習メニューを考えてくれてるのに……、あんなこと言っちゃって……」

「いいよ、いいよ。それが分かっただけでも、君は十分強くなるのだから」

「……っ。本当に……、すみません」


(何で、あんなこと言っちゃったんだろう……)

 ヴァージンは、その後普段通りの練習メニューをこなしたが、いつになく全身が軽く感じた。練習中、少しでも気を抜けばマゼラウスに荒い声を浴びせられるにも関わらず、この日は心のすれ違いがあったにも関わらず、マゼラウスは終始落ち着いた表情でヴァージンを見ていたのだった。

 気が付くと、ワンルームマンションのベッドで仰向けになっていたのだった。

(グラティシモさんに勝ちたい……、メドゥさんに勝ちたい……)

 最大の目標を脳裏に思い浮かべたヴァージンは、もう一度グラティシモが突き放した理由を考えてみた。少なくとも、グラティシモ自身が成長するのに、ヴァージンを相手にしては、まだまだ力不足だったということはある。あるいは、実際に大会で勝負する相手とそんな毎日練習していては、いつ本番なのかすらも分からなくなるほど慣れっこになってしまうのかも知れない。

 あるいは、グラティシモ自身にもっと他の目標があるのか……。

(とりあえず、私は私で、グラティシモさんと戦える体にしないといけない!)


 その後、ヴァージンはマゼラウスに提示されたメニューをほぼこなしていった。次の目標が決まった選手に対しては、マゼラウスは一切の妥協をせず、これまでにないメニューをヴァージンに課していった。例えば、これまで400mダッシュを10本行っていたのを15本に増やしたり、重りをつけて走ったりした。また、短距離に加えて、自然公園に作られた土の10kmコースなど変化に富んだ練習も取り入れていった。

 さらに、室内での大会ということもあり、オメガ国内にある室内競技場での練習も重ねていった。室内での練習は全くの無風状態で行われていることもあり、ヴァージンも最初のうちは呼吸に違和感を覚えることもあった。しかし、アムスブルグ室内大会を意識した集中トレーニングで、少しずつだが結果が残っていることをヴァージンははっきりと感じ始めていた。

 これまで行ってきたメニューで唯一やらなかったメニューは、グラティシモとの勝負だった。これは、アムスブルグに向けて旅立つその日まで一切なかったが、ヴァージンはそれでもよかったという気持ちが次第に強くなっていった。

 ワンルームマンションに戻る時、右手をグッと握りしめ、ヴァージンは暮れゆく空を細い目で見つめた。

(グラティシモさんも、大会で優勝するために懸命に努力しているのだから……)

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