第39話 ランニングシューズに込められた魂(1)
ヴァージンの25歳の誕生日も、あと3時間ほどで終わろうとしていた。カルキュレイムに祝ってもらったときの肌の感触が、この時間になっても忘れることができなかった。未読メールにはアルデモードからの「誕生日おめでとう」と書かれたものもあるが、この日ばかりは開けずにしまっておこうと、彼女は思った。
そこに、卒業論文の提出を終えたのを察したのか、一本の電話がかかってきた。ガルディエールからだ。
「誕生日おめでとう。そして、論文合格おめでとう」
「ありがとうございます。ガルディエールさんは、どうして私が論文を仕上げたって知ってるんですか」
「君のコーチから聞いたよ。今日のトレーニングで、心ここにあらずだったようだから、きっと論文審査に合格したんじゃないかなって、目星をつけてたみたいだ」
ヴァージンは、ガルディエールの言葉に思わず電話を耳から離しそうになった。
(さすがに……、カルキュレイムさんと約束してたとか……言っちゃいけないかな……)
一度首を横に振って、ヴァージンは再び電話を耳に近づける。すると、既に話題が変わっていた。
「それと、論文が終わったのなら、明日には冬のインドアシーズンのレースも申し込んでおくよ。それに……」
「それに……?もしかして、もう夏までのスケジュールがガルディエールさんの中で出来上がってるんですか」
「今日、コーチにも確認取ってみたんだ。二つの輝かしい記録のうち、どちらを先に達成させられるかを」
「輝かしい記録……。もしかして、5000m13分台ですか?」
ヴァージンは、得意げな声に変わっていくガルディエールの口調から、そのうちの一つをすぐに当てた。すると、ガルディエールはその返事を待っていたかのようにヴァージンに告げたのだった。
「それは、誰もが見てみたいと思う。もしかしたら、人類の女子の中で、君にしかできないことだろうからね」
「そうですね……。少なくとも、13分台に一番近いのは私だと思っています」
「25歳だから、初めて世界記録を叩き出した18歳の時に比べれば、かなり長距離選手としてのピークに近づいているはずだ。だから、今やるしかない。だから、来年は13分台に近づき、それを突き破って欲しい」
ガルディエールの強い口調に、ヴァージンは電話の向こうから、自然と首を大きく振っていた。
「13分台、必ずやってみせます。そして、もう一つは何ですか」
「もう一つは、10000mの世界記録。あと2秒47というところまで迫っているから、今の君なら、と思っている」
「そうでした……」
一昨年、ルーキャピタルで行われた世界競技会で初めて29分台で走り終えてから、ヴァージンは10000mのタイムを伸ばすことができなかった。何とか次の世界記録を更新で来た5000mとは違い、なかなか過去の彼女を超えることができないでいたのだった。
「きっと、できるはずだと思う。5000mであれだけ記録を縮めることができたのだから、10000mもペース配分さえ間違えなければ、おそらくいけるんじゃないかと思っているよ」
「ラップをもう1秒くらい上げれば、サウスベストさんの29分57秒29も超えられると思います」
「それで、君はどっちを先に目指すつもりかな」
ガルディエールは、そこまで言って言葉を止めた。既に会話の流れで分かっていたこととは言え、ヴァージンは電話の声が途切れたときに、少しだけ息を飲み込んだ。
(同時と言いたいけど……、なかなか一つの大会で二つの記録を出してこれなかった……。でも、だからこそ今度は同じ大会で二つの世界記録を出したいと思いたくもなる……)
イエスかノーか、ヴァージンは返事に苦しんだ。そして、首を小さく横に振り、ガルディエールに告げた。
「私は、来年夏の世界競技会での達成を目標に、5000m13分台に集中します。逆に、10000mの世界記録はそれで忙しくなるよりも前に片づけておきたいんです」
「やっぱり、君ならその両方とも断ることができないって思ったよ。ずっと見ててね」
「はい。私は、たとえ世界記録を持っていても、永遠の挑戦者だと思ってますから」
「気持ちは受け取った。そう決まったところで、来年のアウトドアレースも組み立ててみるよ」
ガルディエールからの電話は、そこで途切れた。電話を切った後には、この日カルキュレイムと一緒にいたことなど、どこかに飛んでいきそうなほど、ヴァージンは前を向いていた。
数日後の朝、ガルディエールから出場レースの案がメールで届き、ヴァージンはすぐにOKを返した。ほぼ毎年出場しているアムスブルグ室内選手権が終わった後は、4月にクリタニアの首都ジェナで開催されるレースに10000mで出場。そこから6月のオメガセントラル、7月のケトルシティ選手権と続き、8月の世界競技会へと駆け上がっていくシーズンが、いまヴァージンの中で描かれようとしていた。
だが、その出場スケジュールをメモ用紙に書き、高層マンションからトレーニングセンターに向かおうとするとき、ヴァージンは彼女の部屋のポストに封筒が入っていることに気が付いた。
(この時間に郵便が届くことって、滅多にないような気がする……。もしかして、速達なのかも……)
ヴァージンの手は、無意識のうちにポストの鍵を開けており、その中にあった封筒を手に取った。
「父さんだ……」
差出人には、見慣れた文字で「ジョージ・グランフィールド」と書かれてあった。封筒を手で破ると、そこには一枚の手紙と、返信用と思われる大きめの封筒が、一枚入っていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ヴァージンへ
アスリートとしての生活も、はや9年目。元気で戦っていることを信じ、この手紙を書いています。
卒業論文は書き終えましたか。
前にうちに訪れたとき、冬に書くとか言っていたから、きっと今書いていることでしょう。
大学生活を終えるにあたって、君が社会にどのようなメッセージを残したか、見たいと思っています。
もしよかったら、アメジスタまでその論文を送ってくれると嬉しいです。
文筆業をやっている私の、大事な次女がどのような文章を書くか、見てみたいというのもあります。
また、楽しい話を聞かせてください。
父より
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(父さん……。そう言えば、家で文章を書いているんだった……)
ヴァージンは、文章を読む手をその場で震わせた。論文のことを気にかけてくれるのは、カルキュレイムだけではなかったのだ。
(思えば、思いつきで書いた作文が見つかったとき、私は父さんに「ダメ」と言われたんだっけ……)
ヴァージンにとって、中等学校での作文はいい思い出がなかった。タイトルが「自分の夢」だった時は、文字数を埋めるために「陸上選手になりたい」と夢だけを書き続けて怒られた。ちょうど、ハイドル教授が「夢」という言葉を口にしたときと似たような状況だった。そして、それ以外のテーマでは、書いている彼女自身が「文章になっていない」とこぼすほどに悪い出来で、家でジョージに見つかっては怒られてしまったのだ。
だが、それから約10年の時が流れ、ヴァージンは原稿用紙の上にまで書いたアスリートとして生きるようになり、インタビューで口にした言葉が称賛を浴びるようになった。彼女の成長は、タイムだけではなかった。
(もしかしたら、いま私が父さんに論文を見せたら……、喜んでくれるのかな……。きっと……)
ヴァージンの脳裏に、ついこの間まで必死になって書き続けてきた論文の構成が、一つ、また一つと思い出されるようになった。口でアメジスタの夢を語るのは簡単だったが、その想いが文章となったいま、その状態でジョージに伝えるのは、論文審査以上に気を遣うことになりそうだった。
(やっぱり、今すぐ論文だけを送るのはよしたほうがいいかも知れない……。それにたしか、エクスパフォーマがアメジスタで売り込むか……、私の論文を見てから決めるんだったけ……)
その瞬間、ヴァージンは仕上げた論文をエクスパフォーマに持っていく約束をしていたことを思い出した。新しいシューズの改良版も、そろそろ上がってくる頃だろう。ヴァージンは、一度部屋に戻り、ガルディエールにエクスパフォーマとのアポイントをお願いするメールを送った。それから再びトレーニング用のバッグを持ち、やや早足でトレーニングセンターへと向かったのだった。
(私が、アメジスタにプロモーションで行くとき、父さんにもあの論文を見せよう……。アメジスタでの滞在時間を考えたら、いま論文を送るよりもよほど効率的かもしれない)
ヴァージンは、自身の書いた論文をもう一度横目で見た。その論文で、アメジスタの人々を大きく動かすことになろうとは知らずに……。