第38話 卒業論文はアメジスタ再生のスタート(7)
カルキュレイムからの返事は、数分でやってきた。未読メールを押した瞬間、ヴァージンは大きくうなずく。
(明日……、カルキュレイムさんが論文を持ってトレーニングセンターにやってくる……!)
25歳の誕生日を迎えるその日に、カルキュレイムと出会える。4年前の誕生日のような最悪の展開ではなく、今度こそ同じメーカーの広告塔として働くパートナーと会話できる誕生日がやってくるものだと思うと、彼女に力が湧いてきた。
(明日は、カルキュレイムさんにこの論文をどうやって紹介しよう……!)
ハイドル教授たちを相手にしたときとは違い、真面目に紹介する必要はない。ただ、アメジスタの現状を伝え、そして夢を語るだけでいいはずだ。だが、それですらヴァージンには言葉の組み立てが難しかった。
気が付くと、言葉を考えるだけで1時間、2時間と時間が過ぎてしまった。ヴァージンは、自分でコピーした論文の原稿をトレーニングバッグにしまうだけでその先は考えられず、ついに寝てしまった。
翌日。トレーニングに集中しようとしても、トラックを踏むだけでカルキュレイムのことが気になって仕方なかった。卒業論文から解放されたにもかかわらず、5000mのタイムトライアルはむしろ卒業論文提出前よりも遅くなってしまった。マゼラウスの呆れた表情が、高い空に見え隠れする。
(こんなにも集中できないのって……、私には久しぶりかもしれない……)
ヴァージンのトレーニングが終わる時間、15時。それはカルキュレイムがやって来る時間だった。トレーニングセンターの片隅にある時計がその時を告げると、いよいよヴァージンはうなずいた。
(カルキュレイムさんは、どこからやってくるんだろう……)
ライバルの女子選手と違って、ロッカールームでの出会いはまずない。だが、ベンチのない練習場で論文を見せ合いっこすることはない。可能性があるとすれば、ロッカールームに向かう通路の真ん中にある、人が何人か座れるサイズの椅子だった。
(たしか、あの長椅子は背もたれがハート形をしてたような気がする……。たぶん、そこで待っている……)
ヴァージンは、ロッカールームに行こうと通路を曲がった。その瞬間、彼女の目の前でカルキュレイムが普段通りの笑顔を振りまきながら、論文と思われる冊子を左右に振っていた。やり投げで培われた強い筋肉と論文がちょうど一直線上になり、まるで大きな手がヴァージンを招いているように見えた。
「カルキュレイムさん……!お待ちしてました……!」
ヴァージンは、やや早足でカルキュレイムの前に向かい、カルキュレイムの手が持っている紙をそっと見た。それが論文だと分かると、すぐに「少し待って」と言い、ロッカールームの中から彼女の論文を持ちだした。
「論文完成、本当におめでとう。まさか、自分がアドバイスしてからこんなにも早く完成するとは思わなかった」
ハート形の長椅子の右側にカルキュレイム、左側にヴァージンが座る。意識したわけではないのに、ヴァージンの手がカルキュレイムの顔の下まで伸び、彼の手に吸い込まれるかのように握ろうとしていた。
「そんなことありません。私は、本気になったら……、ものすごく集中できるんです」
「それは、言われなくても分かるよ。グランフィールドも自分も、アスリートだしさ」
「それでも、本気にさせてくれたのは、カルキュレイムさんだと思います。かなり助けられました」
「それはよかった」
カルキュレイムはそう言いながら、無意識にベンチに置かれたヴァージンの論文に目をやった。目線の動きを察したヴァージンは、左手でそっと論運を取って、カルキュレイムの右手の中に移した。
「これが、グランフィールドの論文なんだ。アメジスタが貧困から立ち直るための夢と言ってた……」
「はい。論文審査の時に、スポーツ以外の投資はどう思ってますかとか聞かれましたが、完全に夢を書きました」
「ちょっとだけ、見ていいかな」
カルキュレイムの言葉にヴァージンが小さくうなずくと、カルキュレイムはヴァージンの書いた文章を目で追い続けた。アメジスタの現実、公共投資を行った国のこと、スポーツの分野で全く結果が残せないこと、そして投資の必要性……。カルキュレイムは、ヴァージンの想いを、順を追うようにして確かめた。
そして、10分後。流し読みを終えたカルキュレイムは、その場で大きくうなずいた。
(カルキュレイムさんが……、これまでにないくらい満足そうに見える……)
ヴァージンは、カルキュレイムの表情を優しく見るしかなかった。その中で、カルキュレイムの口が開く。
「グランフィールドの、本当にアメジスタを大切にしたい気持ちが、こっちにものすごく伝わってくるよ」
「本当ですか……!ありがとうございます……!こんな夢だけの論文なのに……」
「いやいや、これはお世辞なんかじゃないんだ。だって、グランフィールドが勝ったときに、気持ちよくアメジスタの国旗を掲げているシーンが重なるんだもの……!今は、誰も見てくれないけど、一人でもいいからアメジスタの私を応援して欲しい、って言っているように見えるんだ」
「カルキュレイムさんにそう言ってもらえるのが、なんかものすごく……、グッときます……」
ヴァージンは、カルキュレイムから差し出された彼女の論文をそっと手に取って、結論の書かれた最後のページを数秒だけ眺めた。前日、ハイドル教授の前であれだけ投資の必要性を訴えたにもかかわらず、この日その部分を見てもまだ、かすかに息を飲み込むような出来栄えだった。
ヴァージンが論文から目を離すと、今度はカルキュレイムが彼の近くに置いてあった論文冊子を手に取り、ヴァージンの目の前にタイトルが見えるように移した。
「で、これが自分の書いた卒業論文なんだ。実は、グランフィールドとほぼ同じテーマで書いたんだけどさ」
カルキュレイムの持っていた論文冊子には、「スポーツ施設への投資と子供の成長」と書かれてあった。ヴァージンはカルキュレイムから渡された冊子を開こうとして、思わずその手を止めた。
「カルキュレイムさん……。子供の成長って……、もしかして大学では育児教育を専門にしてたんですか」
「まぁね。教えることに興味あって大学に行ったけど、得意分野を断ち切れなかった大学生ってところかな」
「そうですか。でも、ほぼ同じ内容ってことは、やっぱりスポーツ施設への投資は必要と思ってるんですね……」
「勿論さ。子供たちの体を作る施設を作ることによって、有名選手の活躍で夢見た子供たちが、その夢を形にしていくんだって、思っているんだよ」
カルキュレイムは、やや高い声でヴァージンにそう告げた。その言葉にヴァージンはうなずきながら、いよいよカルキュレイムの書いた論文を1ページ、また1ページとその中を進んでいった。
(なんか、私が文章で伝えきれなかったところまで……、重要性を訴えているような気がする……。でも……)
ヴァージンは、自らの論文を読み進めるとき以上に、先を読んでみたいという気持ちに包まれていた。自然のうちにそのことを表情に浮かべ始めたヴァージンに、カルキュレイムが顔を覗かせる。
「どうだった?グランフィールドと全く同じだけど、少しだけ切り口を変えたつもりだよ」
「そうですね……。でも、もしこれを形にするとしたら、私にはできないです。文章力もないし、それに……」
「それに……?」
「それが、カルキュレイムさんの素直な気持ちだと思うんです。私は、私なりに一生懸命やったんですから」
ヴァージンは、ここではっきりとうなずいた。たとえカルキュレイムの論文のほうがしっかりしていたとしても、アメジスタに対する想いで勝負することは、ここではできないのだ。
その言葉を聞いたカルキュレイムは、数十秒経ってから言葉を返した。
「グランフィールドとらしいよ。やっぱり……」
「ありがとうございます……。なんか、カルキュレイムさんがいなかったら……、この論文を読まなかったら……、私の論文が夢を語るだけで終わってしまったかもしれません」
「なるほどね。でも、もうそれは、紙を捨ててしまえば消える夢なんかじゃなくて、グランフィールドがアスリートの人生をかけて形にしなければいけないものなんだからさ」
「はい……。絶対に、アメジスタをこのままにしたくはありません……」
ヴァージンは、もう一度うなずき、そして論文をカルキュレイムの手元に戻そうとした。だが、その時ちょうどカルキュレイムの右手が、ハート形の長椅子の後ろに伸びており、ヴァージンの目線がそちらに移ろうか移らないかという時に、背後に立てかけられた花束を掴んだ。
「あっ……!」
「ハッピーバースデー、アメジスタのスーパースター、ヴァージン・グランフィールド」
握りしめようとしたカルキュレイムの手に、ちょうど飛び込んだ花束。それを右手しっかりと掴みながら、ヴァージンは左腕でカルキュレイムの肩を抱いた。
「ありがとうございます……。こんな感じで祝ってもらえるなんて……、最高に嬉しいです」
「いえいえ。応援してるよ、君の夢を」
ヴァージンの感じたカルキュレイムの体温は、あまりにも熱いように、ヴァージンには感じられた。