第38話 卒業論文はアメジスタ再生のスタート(6)
「名前と、論文のタイトルを名乗ってください」
演台の前にヴァージンが立つと、普段の講義やゼミとは全く違うトーンでハイドル教授がヴァージンに告げた。ハイドル教授の横に座っている眼鏡の教授が、ハイドルが告げると同時に軽くうなずいた。
(やっぱり……、この場所は緊張する……、インタビューを受けているときとは全く違う……)
129教室の空気は、ヴァージンがこれまで感じたことがほとんどないほど張り詰めていた。レース後のインタビューもさることながら、これから5000mや10000mを走り出そうとしているときの、見る者にとっては異様とも捉えられるほどの気持ちの高まりともまた、違うものであった。
そのような緊張感の中で、ヴァージンははっきりとした声で二人の教授にこう言った。
「ヴァージン・グランフィールドと申します。『アメジスタにおけるスポーツ施設の重要性』を書きました」
「よいでしょう。まず、書き上げた論文について1分で簡潔に説明をお願いします」
(1分……)
これまで、教授審査について誰からも情報を仕入れてこなかったヴァージンにとって、1分で論文の概略を説明することは想定外だった。だが、普段から心の中でラップを刻んでいるヴァージンにとって、たとえトラックを走っていなくても、1秒の感覚を思い出すことはできた。
ヴァージンは軽く息を飲み込み、それから体を少しだけ前に出して、口を開いた。
「私の書いた論文は、統計的に世界一貧しい国とされるアメジスタのスポーツ施設を取り上げ、現状全くないスポーツ施設の重要性と、それが建設されるための方向性について言及しました。アメジスタでは、ほとんどの公共事業がインフラの維持に費やされ、スポーツ施設の整備は後回しにされてきました。しかし、施設の数とスポーツの成績は比例していると言えます。アメジスタで、首都グリンシュタインに一つも施設がなければ、スポーツの関心も、レベルも低いままです。施設建設の必要性を訴え、優先的に予算を費やして欲しい。私は、その想いでこの論文を書きました。以上です」
(想いを……、口に出してしまった……)
ヴァージンは、そこまで言い終えた瞬間に、ハイドル教授に見えないように息を飲み込んだ。頭の中に全く用意していなかった原稿を、ヴァージンは話しながら組み立てるしかなかった。
そして、数秒のブランクが開いて、ついにヴァージンが会ったこともない、年老いた教授が口を開いた。
「私は公共事業を専門とする、フェリペ・ナンジャロスと申します。あなたの論文を読ませていただきました」
そう言うと、ナンジャロス教授はヴァージンの提出した論文につけられたいくつかの付箋に手をやり、中身を何度か確認し、再びその口を開いた。
「学生があまり扱わない、スポーツというテーマで、ここまで筋道立てて必要性を訴えていく姿に、私は心打たれました。世界で活躍するアスリートのあなただからこそ、そのような目線で論文が書けるのは、この論文の大きなアドバンテージだと思います」
(えっ……、もしかして私、褒められている……?)
ヴァージンは、ナンジャロス教授の目をまじまじと見つめそうになった。ここまで夢を語り続けてしまったことについて、開口一番に何か言われてしまいそうな気がしたが、どうやら乗り切ったようだ。
だが、そう思ったのもつかの間、ナンジャロス教授の手が一枚の付箋で止まり、やや低い声に変わった。
「それでは、私から二つほど質問していきましょう。まず、正直なところ、アメジスタにおいてスポーツ施設を作ろうとする計画は、全体の中で何番目だと思っていますか?あるいは、何の次に重要だと思いますか」
(何番目……)
たしかに、ヴァージンは論文の後半で事業を優先すべきと説いていた。だが、それが何の次に重要なものなのかといったところまでは、考えることがなかった。
質問を浴びせられたヴァージンは、アドリブでナンジャロス教授に答えるしかなかった。
「私は、立場上一番であるべきと言いたいところです。しかし、アメジスタの人々が毎日を過ごしていくためには、これまで通りインフラの整備は必要だと思いますし、貧困対策や失業対策にも乗り出さなければなりません。そうして余った予算の中で、少しずつでもいいので作って欲しいと思っています」
「つまりそれは、予算の重要性からして低いと考えて差し支えありませんね」
「……いいえ。額は少ないながらも、重要なことだと考えています」
ヴァージンは、やや間を置いてナンジャロス教授に言葉を返した。論文の中で夢を語り続けてきたヴァージンにとって、現実と論文に即して答えるには、それしか方法がなかった。
一方、ナンジャロス教授は間髪入れることなく、ヴァージンに次の質問をぶつけてきたのだった。
「それともう一つ、あなたは序盤で娯楽施設のなさについて触れていましたが、スポーツ施設の必要性を説いていく中で、他の娯楽が置き去りになっているように思えてなりません。そこで聞きたいのですが。演劇やコンサートといった他の娯楽と、あなた自身が今も打ち込んでいるスポーツとは、どこが違うのでしょうか」
(これもまた、難しい質問が来てしまった……)
ヴァージンは、ナンジャロス教授の目を軽く見つめながら、質問に耳を傾けた。「他の娯楽」をほとんど楽しんだことのないヴァージンにとって、これは先程よりも難しい質問のように思えて仕方がなかった。
それでも、ヴァージンは少しだけ考え、一度小さくうなずいてこう返した。
「どんな娯楽にも、本気になれる瞬間が訪れます。ただ、スポーツの場合、その本気になれる瞬間をはっきりとその体で感じることができます。絵を描いたりする時だって熱中している瞬間はありますが、気が付かずに時間だけが過ぎていくと思います。一方で、スポーツをしていると、体を動かしているうちに本気になれて、自分のいま熱中している果てにある結果を期待できると思うのです」
全くスポーツをしていなそうな二人に向けて、自分のいる世界を語ることは難しく思えてならなかった。ヴァージンは、最初のうち出てきた言葉をそのまま言うしかなかった。だが、そこまでヴァージンが言い終えたとき、一つの言葉がヴァージンの脳裏に思い浮かんだ。
「それに、スポーツは自分自身のパフォーマンスだけで、世界の頂点に立てるかもしれない可能性を秘めています。他人の評価が必要になってくる、他の芸術とは違います。だからこそ、人は勝負に挑むアスリートに、夢とか希望を見出せるような気がします」
「なるほどね……」
ハイドル教授が、ここで口を挟んだ。質問を投げかけたナンジャロス教授も、何度か大きくうなずいた。
(ナンジャロス教授の質問を、何とか乗り切った……)
ヴァージンは安堵を表情に出すことなく、今度はハイドル教授にその視線を向けた。演台の向こう側で、ハイドル教授はそっとヴァージンに告げた。
「最後に、質問しよう。アメジスタにそういった施設が望まれるということですが、これは論文を書いてきた中での意見ですか。それとも、勝負の世界にいる人間としての夢ですか」
ハイドル教授が、じっとヴァージンを見守っている。その中で、ヴァージンははっきりと言った。
「夢です。アメジスタのためなら、賞金の全てをスタジアムの建設に費やしても構いません」
「さすが、世界最速の陸上選手だ……。その心の強さに、感心するよ」
そう言って、ハイドル教授は立ち上がり演台に向かった。そして右手を差し出し、ヴァージンに握手を求めた。
「ハイドル教授……」
「おめでとう、合格だ。この4年ちょっとの間、本当にアメジスタのことを考え続けてきた努力を、私は認める」
がっしりと握手を交わす中、ハイドル教授はこれまでで最も力強い言葉でヴァージンに告げた。
「ありがとうございます……!」
イーストブリッジ大学の学位授与式はインドアシーズンの2月に行われるが、それ以外でヴァージンが大学に行くことはこれでなくなったに等しい。1ヵ月半ほど卒論とトレーニングを両立してきたが、これからは本格的に記録を伸ばすことができる。
明日には25歳になるヴァージンは、今にも走り出したくて仕方がなかった。だが、部屋に戻ったヴァージンが、間もなく新型モデルが生まれることとなるシューズを目にしたとき、忘れていた何かを思い出した。
――私も完成したらカルキュレイムさんに真っ先に見せに行きます。
(カルキュレイムさんと論文を見せ合うんだった……!)
ヴァージンはすぐに、カルキュレイムにメールを送った。トレーニングセンターで自主トレをする日と、論文が完成したことを知らせる文字が、今にも踊りだしそうだった。