第38話 卒業論文はアメジスタ再生のスタート(5)
「卒論のメモ……。そうか、グランフィールドは大学生だものね……」
「はい……。今はちょうどオフシーズンだから、卒論書いて卒業しようと思っているんです」
すぐ横を歩くヒーストンと歩幅を合わせるようにして、ヴァージンはトレーニングセンターまでの道をゆっくりと歩いて行く。ヒーストンは、先程キャッチしたヴァージンの卒論メモに軽く目を通しながらうなずいて、それからメモをヴァージンに返した。
「このメモ、アメジスタの言葉で書いてるの?」
「はい。アメジスタ語で書いています。私の慣れ親しんだ言葉のほうが、スラスラ書けますし……」
「私も、少しだけアメジスタ語分かるようになった。グランフィールドのおかげで」
「えっ……。私、普段みんなに話すときには、全然使っていないような気がするんですが……」
ヴァージンは、ヒーストンの目をじっと見つめながら静かに言った。すると、ヒーストンはヴァージンに向けて軽く笑いながら言葉を返した。
「グランフィールドはアメジスタの選手でしょ。だから、知らない言葉を知ってみたくなったわけ。今はオメガ語が世界の共通語ぽくなっちゃってるけど、いつかはきっとそれぞれの国の言葉で話せるべきだと思う」
「じゃあ、私がトンバの言葉を話す……ようになるってことですか」
「そこまで気にする必要はないって。でも、少しは気に留めて欲しいし……、だいいちこのメモに、誰かが後に付いてくるなんてことが書いているじゃない。たぶん、そのことはレース以外でも重要なことだと私は思う」
「たしかに、そのことは重要ですね……。なんか、卒論のことだけ追っていて、視野が狭くなっていました」
ヴァージンは大きくうなずき、ヒーストンから戻されたメモに自身の字で書かれた言葉を、もう一度見つめた。
(私の書いたこの言葉……、いや、ハイドル教授が私に言ってくれた言葉だけど、いろんなところで使える)
ヴァージンはそのメモをそっとバッグにしまいながらも、ハイドル教授の顔を思い出すのだった。その時、ヴァージンに語り掛けるように、ヒーストンは最後にこう言い残した。
「私は10000mで待ってるから。ちょっと私には、ハイレベルの5000mに付いていけなくなったけど、できればまた戻ってこようと思っている」
「ヒーストンさん……。来年は、何度か10000mにも出場して……、10000mの世界記録も出したいです」
「私だって、グランフィールドのように世界最速になりたい。……勝負ね」
ヒーストンがそう言うと、二人はがっしりと握手を交わした。痛いくらいに結ばれた手の中で、ヒーストンのほうがその手に熱がこもっているように、ヴァージンには思えた。
その日のトレーニングで、ヴァージンは久しぶりとなる10000mのタイムトライアルに挑戦し、30分台半ばのタイムで走り終えることができた。世界競技会での不本意なタイムから比べれば、再びサウスベストの持っている世界記録29分57秒29を狙えるところまで戻ってきていた。
(10000mと5000mで、次の世界記録を出すのは、絶対に私なんだから……)
そして、トレーニングが終わると、ヴァージンは再び大学に足を運び、学生用のパソコンルームでいよいよ卒論の文章を入力し始めた。普段はニュースなどを見るためだけに入るこの場所も、いざ本気で文章を書こうと思うと、それだけで熱がこもってきて、その手から時折汗がにじみ出るようになってきた。
ヴァージンの座るパソコンの横には、これまで図書館で読み続けてきた数多くの文献の名前と、その中にあったデータや作者が主張していることなどがぎっしり書かれているメモが何枚も置かれていた。
(これならたぶん、私の夢を卒論の形にできると思う……!)
時折メモを覗きながらも、ヴァージンは思っていることそのままに卒論を組み立てていく。パソコンの画面の向こう側にうっすら映る、アメジスタの荒れ果てたスタジアムの未来図を組み立てながら。
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アメジスタにおけるスポーツ施設の重要性 論文概略
アメジスタは世界一貧しい国、と統計では示されている。一人当たりGDPが世界の中で最下位、工業生産額が世界の中で最下位、失業率が世界の中でトップクラスなど、国際比較において常に最悪の位置にアメジスタは存在する。国家財政の規模も世界最下位となっており、つい4年前にアメジスタでデフォルトが起こっている。
そのような中、アメジスタでの公共事業はもっぱらインフラ維持にのみ費やされ、アメジスタ政府が発表している公共事業のデータでは新規公共施設や、新規の交通整備に費やされた公共事業費は、公共事業予算全体の1.2%に過ぎない。かたや、貧しいとされていた状態から観光産業で勢いを取り戻したミクロランドでは、改革時期においてその率は89.7%となっており、成長をもたらすために公共事業に費やされる割合はアメジスタと雲泥の差がある。
そのようなアメジスタで、スポーツをはじめとした娯楽施設の普及率は低い状態が続いている。首都グリンシュタイン南部に建設された総合公園も、陸上競技場は手の行き届かない状態が続いており、トラックも見えないほど荒れ果てている。十分な練習場がない故に、アメジスタの人々はスポーツに関心が薄いという統計も出ているほか、国際試合に置いても、ほぼ全ての競技で勝利にほど遠い状態が続いている。そして、世界の中で劣等感を覚えることが、ますますスポーツへの興味が薄れていくきっかけになりかねない。
そのような悪循環を脱するためには、「場」が必要である。国際比較では、スポーツ施設が充実している国ほど、オリンピックで金メダル獲得数が多くなっており、とりわけ人口10万人あたりのスポーツ施設の敷地面積を2倍以上増やした国で、その後5年間から10年間、金メダルの獲得数が飛躍的に伸びている。これは、練習環境が整ったことでよりトレーニングに集中できるようになっていることが大きく、また自国の選手が活躍することが後の世代へと続くきっかけになっていることも大きな要因になっている。
このようなデータを見たとき、グリンシュタイン近郊に学校の敷地外でスポーツ施設が一つもない現状に、競技に対する興味がほとんど湧かないのは事実と言ってよい。だからこそ、アメジスタの、それも最も人口の多いグリンシュタイン近郊にスポーツ施設を建設し、より多くのアメジスタの人々が体を動かすことへの楽しみ、勝負に挑むことに対する情熱を見出すことができれば、アメジスタがより活気づくはずだ。
たしかに、アメジスタの厳しい国家予算を考えれば、その「場」を整備できる金額は限りなく少ないはずだ。だが、決してその額は0ではない。スポーツの持つ重要性を訴えかけ、建設してよかったとアメジスタの人々が思えるような設備を作ることが、いま望まれているのである。
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(できた……)
本文と概要を書き上げたヴァージンは、保存した瞬間に肩から力が抜けていくように思えた。走り終えた後に全身から一気に疲労が吐き出されるときとは、真逆の感触が生まれているようにさえ思えた。
(大丈夫かな……、このような国際比較とグラフばっかりの卒論で……)
ヴァージンは、改めて自身の書いた卒論に目を通した。書いているときには気付かなかったが、ヴァージンの入力した一字一句が、パソコンの画面の中で輝いているように見えた。
(私の名前や活躍は全く書かなかったけど……、中身は私自身の夢だし……、これくらいに抑えたほうがいいか)
ヴァージンは、二度読み返し、納得した表情で画面を閉じた。それから、自信たっぷりにうなずいた。
12月、ヴァージンの誕生日の前日が卒論の教授審査の日であった。ここまで論文を組み立てていく中で、ハイドル教授には何度も方向性を確認したが、出来上がった論文を予め事務局に提出して以降は一度も会っていない。他の学生も、論文提出から教授審査までの間には論文に関することで教授との接触を禁じられていたのだった。
(ハイドル教授と……、あと誰が担当になるんだろう……。私のことを何も知らない人の可能性だってありそう)
かつて陸上部で何度か足を踏み入れた129教室の前に、ヴァージンは立った。そこが、ヴァージンの論文を審査する会場だった。
(よし……、心の準備はできた。あとは、自分の思いを、論文に即して伝えるだけでいい……)
ヴァージンは、一度天井を見上げて、それからふぅと息をついた。既に教授たちが部屋に入っているようで、集中しているヴァージンの耳に、129教室の中からかすかな物音が聞こえてきた。あとは、時間が来たと同時に中から声を掛けられるだけだ。
そして、5分ほど経った時、聞き覚えのあるハイドル教授の声で、ヴァージンは「どうぞ」と告げられた。
(さぁ……。私の論文はどう評価されるのだろう……)
ヴァージンは大きな声で返事をして、教室の中に入った。中央に演台が置かれ、その3m向こうにはハイドル教授と、ヴァージンが出会ったことのない年老いた眼鏡の教授が座っていた。