第38話 卒業論文はアメジスタ再生のスタート(2)
(やっぱり、ミクロランドの政治家と、アメジスタの私では全然違う……)
ヴァージンは、何度かミクロランドをアメジスタと、若い政治家デルチャンドをヴァージンと置き換えて、その文献を何度か黙読したが、5回目を読もうとする気力を失い、ゆっくりとページを閉じた。
そもそも、アメジスタの置かれている現実が違っていた。超軽量ポリエステルを除けば、外に向かってアウトプットできるものがないどころか、そもそもアメジスタに産業と言える産業もなかった。
(農業ですら、ほとんどグリンシュタインの市場に出回らないし……、輸出できるような状況にない……。工業とかないし……、建設業だってアメジスタ国内のインフラを作るのがやっとかもしれない……)
そして、産業が発展しない中で、アメジスタには仕事を失い、諦めている人が数え切れないほどいる。そこに、アメジスタ債務問題が国民を真っ二つにし、増税に反対する人々を賛成派が同じ街の中で隔離してしまうような状況にまで発展している。少なくとも、グリンシュタインではほぼ無政府状態と言っても過言ではなかった。
(こんな中で、私がアメジスタをまとめようとしたって……、ものすごく厳しい……。まずグリンシュタインの分断を何とかしなきゃいけないのかもしれないのに……)
いくら「夢語りの広場」で、世界への足掛かりを掴んだヴァージンであったとしても、民衆をまとめるような政治力があるとは思えなかった。それ以前に、ヴァージンがグリンシュタインの街を歩いたとしても、未だに多くの人々はその姿を気に留めないのだった。
(私は、世界中で名前を知られるようになったのに、アメジスタでは全く知名度がない……)
たしかに「ワールド・ウィメンズ・アスリート」はごくわずかアメジスタに入荷し、そこでヴァージンの写真の切り抜きをしているブライトンのような人だって、中にはいる。しかし、大多数のアメジスタ人は、ヴァージン・グランフィールドという名前を見ても、それがアメジスタの人かどうかすら分かっていないのだった。
(国内で知名度がない理由は分かっている……。誰も、私の走りを見てくれないから……、それしかない)
新聞はほとんど国外のことを取り扱わないし、国外の情報が入ってくる機会だってほとんどない。テレビやラジオといった、ほとんどの国には広く出回ったはずの便利な道具もない。インターネットも、アメジスタに衛星がカバーしていないことを、ヴァージンが大学3年の時にある講義で知ったくらいだ・
競技場のモニターに映るヴァージンの姿は、レースにもよるが中継される。世界競技会やオリンピックでは、国際映像として全世界にヴァージンの走る姿が一斉に流れる。その姿を、アメジスタだけは見ることができない。
(私の生まれ故郷なのに……、私の走る姿を見ることができない……)
ヴァージンは、ついにテーブルの上に涙を落とし始めた。テーブルに運んだ文献を濡らさないよう、いち早く遠くに押すと、ますますヴァージンの目にたまっている涙の粒は大きくなった。
(私は、走ることしかできないのに……)
スタジアムでの歓声をはじめ、メールや手紙、時には全くのオフの時間に至るまでの間、絶えず支えられてきたヴァージンにとって、それはそれで寂しくなかった。だが、その中に生まれ故郷の人々が見当たらないことが、ヴァージンがただ一つ、心から喜べない理由だった。
ヴァージンは、泣くだけ泣いて立ち上がった。
(私にとって……、いや、アメジスタにとって……、方向性を示すことができる時期じゃないのかも……)
それから数日、ヴァージンはトレーニングの合間に論文の構成を考えたが、一文字も進めることができなかった。今度の土曜日までにある程度の進展がなければ、ハイドル教授に合わせる顔がない。
ふとスケジュール帳を見ると、エクスパフォーマの撮影と書いてあった。長らく「トラック&フィールド」のCMはテレビで流れなかったが、新作とともに再び流すようだ。
(そんなことしている場合じゃないけど、気分転換に行ったほうがいいかな……)
ヴァージンは、エクスパフォーマから指示された持ち物と、ほとんど何も書いていない卒業論文のメモを持って行った。
「おはよう、グランフィールド!世界記録奪還おめでとう!」
「ありがとうございます」
撮影場所となるトレーニングセンターに向かうと、そこにはカルキュレイムが既に撮影の準備を終えていて、ヴァージンに対し普段以上の笑顔を見せていた。そして、撮影に時間があるのか、彼はすかさずヴァージンに近づいて、こう尋ねてきたのだった。
「そう言えば、卒論頑張ってるみたいだね。オフシーズンだけど、結構悩むんだよな、あれって」
「カルキュレイムさんも、卒論を書いたことがあるんですか」
「ルーランドの大学で、自分はいろいろ直されながらも書いたんだ。もしかして、グランフィールドも卒論直されてたりする?」
カルキュレイムがそう言うと、ヴァージンは思わず動きを止め、彼の表情を見るしかなくなってしまった。
「私、直されるどころか……、1文字も手につかないんです。貧しいアメジスタにどうすれば明るい未来がやってくるのかという論文なんですが……、教授には夢物語としか言われないんです」
「そうなんだ……。でも、やっぱりそのテーマじゃ漠然としすぎて分からないよ。例えば、いちアスリートのグランフィールドが何をできるか、とかそういう具体的なテーマだといいかな」
そう言いながらも、カルキュレイムは決してヴァージンの話に退屈そうな表情を浮かべていない様子だった。まるで、ついこの6月、7月あたりまで卒論に追われていたかのような表情を浮かべる。
それを見て、ヴァージンはついにせき止めていた言葉を言った。
「貧しい国に光が訪れる。そんな文献を、私はいくつか読みました。でも、自分に置き換えると……、アメジスタの人は誰も私の走りを見てくれないし、アメジスタに帰っても、名前すら呼ばれないんです」
「世界記録を10回以上更新しているってだけで、普通はアメジスタのヒーローになれるのに……」
「たぶん、それどころじゃないんです……。元から、私たちアスリートに希望を見出せなくなってたし……、私がこうして世界中にその名を知られても、その情報すら入ってこなければ、それがどれだけすごいことか分からないんです」
ヴァージンは、ほとんど泣きそうになりながら、カルキュレイムにそこまで言いきった。それでも、カルキュレイムは決して機嫌を損ねたような表情にならず、真剣にヴァージンの叫びを聞いていた。
そして、しばらく間を置いてカルキュレイムはヴァージンに告げた。
「たった一人でも、グランフィールドのことを応援してくれるアメジスタ人は、いるんじゃないかな」
ヴァージンの目は、カルキュレイムが見つめている姿に釘付けになる。カルキュレイムの眼差しは、決して勝負に挑むときのような目ではなく、友達のように、家族のように寄り添おうとしている目だった。
「家族だったり、親友だったり……、いや、ちょっとした偶然で、こんなにも頑張っているアメジスタ人がいることを知った人とか……。アメジスタを背負ってトラックを走り続ける姿を、たとえ見ることができなくても、応援したくなる人はいるんだよ」
――彼女が掲げている国旗は、どこの国のものだよ!
(……!)
カルキュレイムの言葉の背後に、ヴァージンは一つの叫び声を感じた。グリンシュタインで自らを救ってくれた、ブライトンの言葉だ。
ブライトンがあの時発した言葉は、ヴァージンの心をたしかに解き放っていた。たった一人でもアメジスタの国内で応援している彼の姿は、ヴァージンの脳裏にじわじわと溢れ始めていた。
(私は、たしかにアメジスタを背負って戦っているし……、その姿に感動する人だって、もしかしたらいるのかもしれない……。ほとんどの人に見てもらえないから、見失っているだけだった……)
「カルキュレイムさん……」
ヴァージンは、思わずカルキュレイムに飛びつきそうになった。撮影スタッフが見ている中で、本当に抱きつくことはできないが、それでもヴァージンは少しでも希望を与えてくれた彼の表情を、喜びの目で見た。
「私、やっぱり一人ぼっちじゃないんです……。いま、なんか忘れていたことを気付かされました」
「それはよかったよ。そして、そういうグランフィールドを思う人たちが、アメジスタに陸上競技場を新しく作ってほしいとか……動き出すんじゃないかな。きっと」
「動き出しそうですね……」
「それは間違いない。自分だって、そういう論文を書いてきたんだから、アメジスタのことをずっと大事にしてきたグランフィールドにだってきっと書けるはずだよ」
ヴァージンは、その言葉にうなずいた。しかし、すぐに顔の向きを戻し、少しだけカルキュレイムにその顔を近づけた。
「もしかして、カルキュレイムさんの卒論も……、自分の本業に関わるものだったんですか?」
「勿論さ。だって、下手な社会問題を扱うよりは、ずっと書きやすいじゃん」
「カルキュレイムさん!今度トレーニングセンターとかで一緒になったとき、ぜひそれを見せてください!」
ヴァージンは、力強くそう言った。だが、その願いに対してのみ、カルキュレイムは首を横に振った。
「それはダメだよ。それじゃ、グランフィールドの論文じゃなくなっちゃうから」
「参考文献でもダメですか」
「本当はダメじゃないけどさ……、自分はグランフィールドの思ったことだけを読みたいんだ。だから、完成したら自分の書いたものを見せてあげるよ」
「分かりました。それだったら、私も完成したらカルキュレイムさんに真っ先に見せに行きます」
ヴァージンは、右手の拳を握りしめ、卒論への意欲を態度で表した。
「待ってるよ。もし書き方とかで悩んだら、メールとかで聞いてもいいから」
「分かった」
その時、ヴァージンは撮影スタッフに呼ばれ、カルキュレイムに別れを告げた。