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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
アメジスタに明けない夜はない
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第38話 卒業論文はアメジスタ再生のスタート(1)

 世界記録を奪還した喜びを、そのまま抱えてマンションに戻ってくると、早くも数多くの未読メールがヴァージンのもとに届いていた。「おめでとう」というタイトルが並ぶ画面にも、ヴァージンは思わず涙を見せかけた。

 だが、その本文を開こうとした瞬間、電話が鳴った。ガルディエールだった。

(そう言えば、ガルディエールさんとはあの日スタジアムで会っていないんだった……)

 ヴァージンは、一呼吸おいて電話を取った。すると、その向こう側ではガルディエールがはしゃいでいた。

「世界記録更新、本当におめでとう。これで君も、元の立ち位置を取り戻したね」

「ありがとうございます。ウォーレットさんの記録だけを追い続けてきた努力が、ようやく実りました……」

「オリンピックで世界記録を取られてから、1年ちょっと……、祈るような気持ちでタイムと走りを見てたよ。少しずつ努力が身についているって、走る姿を見て、いつも思ってたんだ」

「そうですか。本当に、走っていてもそう思えました。とくに、パーソナルベストを破ってからは、特にです」

 パソコンの画面を前に見せかけた涙をも吹き飛ばすように、ヴァージンは見えない相手に笑顔を作った。喜びにあふれた声が、顔に笑みを届けているような気さえしていた。

「まぁ、しばらくは喜びに浸ろう。たぶん、その記録とまともに戦える選手は、しばらくでないからね」

「そうですね……。ライバルがいなくなって、少し寂しく思えますが……、その中で世界記録を取れたことが、これからの私にとって自信になります」

「いいことを言うな。やっぱり、世界記録を縮めたい気持ちは強いのかな」

 ガルディエールは、ヴァージンにゆっくり尋ねた。その声を聞いた瞬間、ヴァージンは真っ先に答えた。

「勿論です。ここがゴールじゃないのは、私が一番分かっていますから。13分台だって、遠くありません」

 そう言って、ヴァージンは「今後ともサポートお願いします」と電話を締めくくろうとした。だが、電話の向こう側から、一気にトーンが変わったガルディエールの声をヴァージンは聞いた。

「その前に、卒論だね。イーストブリッジ大学を卒業し、またトレーニングに専念しよう」

(そう言えば、卒論のことをすっかり忘れてた……!)

 ヴァージンは、思わず息を飲み込んだ。春から秋にかけては、陸上選手としてレースが続くので、一般的に6~7月には卒業シーズンを迎える大学生の終わりを、その時期に合わせるわけにはいかなかった。そのことを、既に、ヴァージンの卒論担当、シリル・ハイドル教授も心得ていたのだった。

「分かりました……。これから今年はレースないですよね?」

「もう、シーズンも終わりだからね。できれば、今年中に卒論を書き上げて欲しいよ。そうじゃないと、君の次のレースを申し込みにくくなるからね」

「卒論が終わらないと、インドアシーズンへの参加も厳しいですか……?」

「どうだろう。できれば、大学生とアスリートの両立は、最後ぐらい避けてみたいと思っているなら、申し込まない」

 ガルディエールの提案に、ヴァージンはただ納得するしかなかった。ヴァージンの従順そうな声が響いて、ガルディエールとの通話が切れた。


(卒論……、私はいったい何を書けばいいんだろう……)

 ヴァージンは、その夜ベッドから天井を見つめ、突然湧いてきてしまった「卒論」の二文字をじっくり考えた。たしかに、ヴァージンがイーストブリッジ大学に入るきっかけは貧困学を学ぶことだった。だが、ここまで4年間にわたって、ハイドル教授をはじめとした数多くの研究者から、貧困や格差、それに社会構造について深く学んできた中で、ただ学ぶことだけに満足しているようになっていたのだった。

 この段階で、ヴァージンの脳裏には卒論のテーマが何一つ思いついていなかった。卒論を書かなければ卒業ができず、ただ卒業できるまでの学費だけがヴァージンの賞金から消えていくだけだった。

(考えても、しょうがない……。また図書館とか行って、気になる本を見つけようか……)

 そう思いながら、ヴァージンはそっと目を閉じた。その時、ナイトライトの灯りが消えたヴァージンの視界に、16歳の時のヴァージン自身の姿がはっきりと映った。


――私は、世界一貧しいアメジスタの全てを背負って、世界を相手に戦いたいんです!


 あの時「夢語りの広場」で叫んだ言葉が、夢を形にし続けているヴァージンの耳に残っていた。その時の姿は、すぐ近くでそれを見ている「大人の自分」にも、どこか大きく見えた。

(私は、何百回、何千回と走り続けてきた……。そのバックボーンには、いつもアメジスタがあった……)

 今でも、世界一貧しい国とされていることに変わりはない。ただ、ドクタール博士の研究がエクスパフォーマのウェアに用いられるなど、少しずつではあるが上向き始めている。そのアメジスタの姿を、ヴァージンはトラックに立つとき、必ずと言っていいほど思い浮かべていた。

(そして、私はアメジスタのみんなを勇気づけたい……。そう思って、今も走り続けている……)

 そう思うにつれ、ヴァージンの脳裏に少しずつ卒論の形が生まれ始めてきていた。ヴァージンがアメジスタに対して抱いている想いを形にすることによって、世界一貧しいとされる国の理想と現実を語ることができる。そうすればきっと、これまで大学4年間で学んだことを生かせるはずだ。

(よし……、このことを今度の土曜日に大学に行って、ハイドル教授に相談しよう。いい返事がもらえそう)

 ヴァージンは、心の中でそう確信して、眠りについた。


 それからの数日間のヴァージンは、様々な希望に囲まれながら過ごした。14分04秒47という、新しい世界記録を叩き出したその脚が、エクスパフォーマのトレーニングセンターを軽やかに駆け抜けていく。5000mのタイムトライアルでそこまでタイムが伸びるわけではなかったが、それでも14分10秒をギリギリ切ることはできた。

 そして、運命の土曜日がやってきた。


「いつも君が語ってくれる夢は、たしかに強いと思うんだ。夢だけは……」

「夢だけは……、って、もしかして卒論のテーマにはならないということでしょうか……?」

 ハイドル教授が腕組みをしながらヴァージンの卒論案を見つめ、首をかしげながらヴァージンに告げると、それまであれこれ思いを巡らせていたヴァージンは思わず息を飲み込んだ。

「それは、あくまでも夢や希望であって、研究にはならないどころか、提言にすらならないと思う」

「そうですか……。つまり、考え直したほうがいいということですか……」

「そういうことを言ってるわけじゃないんだ。君がアメジスタを思う気持ちは強いんだから、アメジスタのことをテーマに、今のアメジスタになってしまった原因、現状、そして将来のアメジスタの提言を語っていけば、十分卒論の形にはなると思う。少なくとも、思いをずっと書き連ねるだけなら、大会で優勝したときに君が語るインタビューと何一つ変わらなくなってしまう」

(たしかに……、言われてみれば研究とはほど遠いような気がする……)

 ヴァージンは、うつむきそうな首を何とかハイドル教授の目の高さに合わせて、大きくうなずいた。

「分かりました。いま言われたことを考えて、もう一度出直してきます……」

 ヴァージンは、そう言って再びうなずいた。その目の先には、それでもなおアメジスタの豊かな大地があった。


(現状と提言……)

 数分後、図書館に入ったヴァージンは、その足で何冊か「貧困からの脱却」という内容が書いてありそうな本を取り出し、閲覧室の丸テーブルにそっと置いた。アメジスタのことを書いてある本こそなかったが、世界各地にある支援の必要な国家が、劇的な変化を遂げるような話が書いてあった。その全てに共通して言えることは、一人が立ち上がって、国の結束を図っていったことだった。

 例えば、オメガ国よりはるかに南に位置する小さな島国、ミクロランド――この国からも大きな大会では陸上選手が出ているのだが――にも、デルチャンドという一人の若い政治家が眠っていた観光産業を世界中にアピールし、今では3泊4日で訪れても足りないほど観光資源のある国と思われるようになったのだ。逆に言えば、デルチャンドが立ち上がらなければ、今でも観光資源が輝くことはなかったと言える。

(もしかしたら……、アメジスタにも輝く何かがあるかも知れない……)

 ほんの1年前、ヒルトップからアメジスタを「アメイジング・スター」と言われたのを、ヴァージンは思い出した。輝くようなスター、つまり世界の人々をわくわくさせるようなスターが、そこにはいるということだった。

(それが、今でいう私……)

 ヴァージンは、そう頭に思い浮かべながら、もう一度ミクロランドの文献に目を通した。だが、数行読んだヴァージンは、思わず首を横に振った。

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