第37話 アスリートに限界なんてものはない(7)
「14分04秒47……」
ネルスのスタジアムに集ったほぼ全ての観客が騒然となる中で、ヴァージンは記録計に映った自分のタイムをもう一度読み上げた。特に秒の後ろ、コンマの部分は、ヴァージンは二度、三度と目を通した。ヴァージンが読み上げた数字は、3回数えても変わらなかった。
それでも、この数字には何かが足りなかった。
(たしか、ウォーレットさんは、サイクロシティで14分04秒48を叩き出したはず……)
ヴァージンは、頭の中でその記録を思い浮かべた。たしかに、ヴァージンのタイムはそれを上回っていた。にもかかわらず、記録計にはその数字がいかにも普通に優勝した時の数字にしか、ヴァージンには見えなかった。
(ウォーレットさんを上回った……。私は、もっと喜んでいいはずなのに……)
ヴァージンがそう心に言い聞かせたとき、スタジアムのあちこちから、口々にこの声が聞こえてきた。
――これ、世界記録じゃないの?
(そうだ……。たしかに、私はウォーレットさんの記録を上回って……、本当だったら世界記録になって……)
そのことに気が付いた瞬間、ヴァージンはトラックの内側の大地を強く踏みしめた。国際陸上機構のデゲール会長が宣言しなければ、ウォーレットの記録を破ったことになり、ヴァージンが再び世界記録を手にしていた。
だが、いくらウォーレットの記録を上回ったところで、そのタイムは危険なプロセスによって生み出されたものとされ、公式に世界記録として認められない。女子5000mの世界記録は、これから先もウォーレットが持ち続ける。それが、国際陸上機構が決めた「ルール」だった。
それでも、今この瞬間のヴァージンに、そのルールをすぐ受け入れることはできなかった。
(私は、ウォーレットさんの記録を目指して走ったのに……、それは結局達成できない……)
ようやく、2位の選手がゴールラインに駆けこむ。それでもヴァージンは、その場に呆然と立ち尽くす。
しかし、そんなヴァージンに向かって、観客が叫ぶ声は少しずつ大きくなっていく。やがて、ヴァージンの耳にもはっきりと聞き取れるような大きさにまで成長していった。
――認めてやれよ!ヴァージン・グランフィールドは、ここまで頑張ってきたんだから!
「みんな……」
ヴァージンは、思わず流し始めた涙を観客の一人一人に見せようとしたが、その涙は途中で乾いてしまった。その代わり、観客と一緒になって何かを言いたかった。
叫びたかった。世界記録を追い続けた努力は無駄なのか、と。
その時、正面で一人の男性が立ち上がる姿が見えた。スーツにネクタイ、そして一時期テレビで何度も見かけた人物が、マイクを持ったまま5段ほど高いステージに駆けあがったのだ。
(もしかして、これがデゲール会長……。私が、直接訴えるしかないか……)
そうヴァージンが思うが早いか、デゲール会長はステージに上がるなり、観客に向けて大声で言った。
「只今の女子5000mで、ヴァージン・グランフィールド選手の出した14分04秒47は、我々が設定した危険タイムを上回ったため、世界記録として認めないことを、ここに宣言します!」
「本当に、私の記録を認めないんですか……!」
予想されていた言葉とは言え、ヴァージンはついにデゲール会長を睨みつけた。しかし、ヴァージンがその目を見せた瞬間、観客席から激しい抗議の声が上がった。
――彼女は全然危険じゃない……!むしろ、実力で何度も世界記録を叩き出してきたんだろうが!
――モニカはモニカ、ヴァージンはヴァージンだろ!世界記録を認めないなんておかしい!
その抗議の嵐に、デゲール会長はその場を立ち去ることができなかった。左右を何度も見渡した後、次に発する言葉もなく、ステージの上で固まった。その隙を見計らって、ヴァージンはトラックの内側から、ステージの正面へと向かった。
しかし、そのヴァージンの行動を見て、ステージの後ろから一人の女性が立ち上がった。
(やっぱり……、国際陸上機構を動かしていたのは……、マックァイヤさん……!)
茶色のショートヘアを揺らし、マックァイヤが、ゆっくりとステージに上がった。見下すような目が、ヴァージンを睨みつける。
それに対抗するように、ヴァージンが肩を一気に上げると、マックァイヤはデゲール会長の持っているマイクを奪い取り、やや低い声でその声を響かせた。
「皆さんが会長に抗議するのでしたら、私が代わりに抗議を受けましょう。まぁ、私なんかに何を言っても無駄だろうと思いますが」
三たび、その冷たい声を聞いたヴァージンは、ついに誰も走っていないトラックを横切り、5000mを走り切った足とは思えないほど堂々とした歩幅で、ステージの下に立った。
「国際陸上機構とのお約束を破って、ウォーレットの世界記録を台無しにしようとしたあなたに、反論の余地はありません。素直に従ってもらうのが、大人の対応ではないかと思われますが」
「マックァイヤさん……。たしかに私は、今までどんなルールも守り続けてきました。その中で、レースをしてきました。けれど……、選手の努力を無駄にするようなルールに……、いや、私だけを狙い撃ちにするようなルールに従うなんて、いくら私だってできません」
ヴァージンは、はっきりとマックァイヤにそう告げた。だが、マックァイヤも声のトーンを緩めない。
「あなた一人だけを狙い撃ちにしてるわけじゃありませんが?」
「それなら、この1年私たちに起きたことは、何なのですか。サプリメントは、送られた3人の中で一番多かったです。『マックスチャレンジャー』の技術を盗み取ったとき、最初私をずっと狙っていたじゃないですか。それに……、メリアムさんとウォーレットさんが離脱したら、ウォーレットさんの世界記録で固定したじゃないですか。完全に、私一人だけ、狙われているような気がするんです」
ヴァージンの訴えに、スタジアムに集まった全ての観客が耳を傾ける。世界記録を上回った一人のアスリートの姿を、そこにいる誰もが焼き付けた。逆に、マックァイヤには冷たい視線しか浴びせておらず、その視線を受けるたびにマックァイヤの口が開いては閉じる。そして、ようやくマックァイヤはヴァージンにこう告げた。
「そこまで推測されたのなら、言いましょう。隠しても、いずれ分かってしまうことでしょうから。おっしゃる通り、私たちはあなたを痛めつけるために、全てを注いできました。フラップとしては、エクスパフォーマに陸上のウェアやシューズを持っていかれるのは面白くありません。うちとしては、契約を結ぶウォーレットが世界の頂点にさえいてくれれば、何の問題もないのです」
「それは……、ひどすぎます……!」
ヴァージンは、自然と頭を前に出し、マックァイヤを睨みつけた。それでも、マックァイヤの口は止まらない。
「あなたは、私の考えた数々の作戦を壊しました。ドーピングの作戦は疑われ、ウォーレットが永遠に持つはずの世界記録ですら、あなたの『マックスチャレンジャー』がそれを上回った。どうやら、私たちが国際陸上機構の委員や会長を、お金で買収したこともじきに分かるでしょうね」
(買収……)
その二文字で、ヴァージンは過去の嫌な思い出が蘇った。グラティシモのコーチだったフェルナンドが、グラティシモの賞金の半額を献上してオメガ国財務省を動かし、ヴァージンに預金封鎖をした記憶が、鮮明にヴァージンには残っていた。
今回も、手口は全く同じだった。それだけに、ヴァージンは歯を食いしばるような表情でマックァイヤを見た。そして、叫ぶようにしてマックァイヤに訴えた。
「世界記録は、それを上回ることができた選手だけが持てる、輝かしい記録です。それを目指して、誰もが努力を重ねます。けれど、本人をだめにしてまでも世界記録を取ることなんて、あってはいけないと思うんです。その犠牲になったのが、メリアムさん、ウォーレットさん、そして今もこうして走る、私たちじゃないんですか!」
ヴァージンは、声を大にして言った。マックァイヤは、息を飲み込んだまま言葉を返せない。
「14分ちょっとのレースで、たった0コンマ01秒。でも、その0コンマ01秒を縮めるために、私たちは何度やっても十分と言えないくらいに、トレーニングを重ねます。世界記録を……そんな軽く考えないでください!」
「世界記録……。そんなきれいごとを……」
マックァイヤは、それでもヴァージンに言葉を浴びせる。だが、そのトーンが小さくなったようにヴァージンには感じた。
そして、ヴァージンははっきりとこう告げた。
「アスリートに限界はありません。だからこそ、世界記録は生まれるんです。分かってください」
「マックァイヤ……。もういいだろう……。お前はもう、これまでだ」
「……っ!」
デゲール会長がマックァイヤを睨みつけ、ステージからの退場を指示した。ステージの下には、いつ集まったのか、警察が数名マックァイヤを待っており、やがてマックァイヤに手錠をかけた。
そして、デゲール会長は正面を向き、まだステージを見続けたままのヴァージンに言った。
「それでも世界記録に立ち向かったヴァージン・グランフィールド。やはり、君が世界記録を背負うにふさわしい選手だ……」
その瞬間、モニターに映ったヴァージンのタイムの横に「WR」の文字が輝いた。歓喜に満ちた声を受け、思わずモニターに顔を向けたヴァージンは、思わず涙を浮かべた。
(ワールド……、レコード……)
ヴァージンは、14分04秒47という、彼女の足で勝ち取った数字を見た。そのモニターのすぐ真横で、ウォーレットが微笑んでいることにヴァージンは気付き、すぐに大きく手を振った。
「ウォーレットさん!私、世界最速に返り咲きました!」
ヴァージンは、満面の笑みでウォーレットにそう叫んだ。歓声に隠れて聞こえなかったが、ウォーレットもその口ではっきりと「おめでとう」の5文字を告げたのだった。
ヴァージン・グランフィールド。世界最速に返り咲いた女王の姿は、スタジアムの中でひときわ輝いていた。